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36、嗚呼神よ


 ラフィーニアという少女は、多くの悪意を見てきた。



 ラフィーニアが幼い頃に育った環境は、お世辞にも良いとは言えない場所であった。  


 寒村と呼ぶのが相応しい、寂れた村だ。

 大して人も寄り付かず、土地も乏しく、金もない、その日生きるのが精一杯。空腹を紛らわせるために、木の根や砂を食べる事も少なくなかったし、毎日のように餓死する人間が居た。

 その当時、彼女の村がある国で、発生するはずのないほど強力な魔物が暴れまわって、その復興のために凄まじい費用が必要になったのだ。それを賄うために、重い税を課せられたのは彼女の知るところではないだろう。


 とにかく、苦しい日々だったのだ。

 皆が皆苦しい時間であったが、ラフィーニアも相応に苦しい時を過ごした。

 というのも、娯楽もなく、本当にただ苦しいだけだった生活の中で、弱い人間はさらに弱い人間に当たるからだ。

 事実、彼女の父親は何十、何百と彼女を殴った。ただの憂さ晴らしに、母を、姉を、兄を、妹を、弟を殴った。

 そこに意味などありはしない。

 何となくで殴られ、何となくで殺され、何となくで死ぬのだ。

 ラフィーニアがこれを理不尽だと思った事はない。

 ただ、人間は弱い者から何でも奪えると知っただけだ。


 さらに、父親を止める人間が誰も居なかったというとは余計に酷かった。

 母親も兄弟たちも、父親の怒りが飛び火するのが怖かった。他所の人間は、他人の事情に首を突っ込めるほど余裕が無かった。

 誰も彼もが我が身可愛さに動かない。

 これも理不尽と思ったことはない。ラフィーニア自身もそうしたから、別に誰かを責めはしなかった。

 ただ、いざという時に助けてくれる人間は居ないと知っただけだ。


 たくさんの悪意を知った。

 何がどうなると悪いのか、何がいけないかを考えて、できるだけそれに触れないようにして過ごす幼少期。

 ラフィーニアも自分で、ここまで人間が腐っていた時期はないと笑うだろう。

 最低な環境の中、彼女は生き残った。


 ギリギリだった。

 本当に危ない時に、もう少しすれば死ぬ所で父親の金が足りなくなった。そして、そのタイミングで奴隷商が商品の仕入れのために訪れた。

 どこかが狂えば死んでいただろう。

 死ぬ前に、ラフィーニアは奴隷になる事で生き延びたのだ。


 それからも、人間の悪意を見た。


 奴隷にもランクというものがある。

 顔が良くて柔順な処女や、かなりの戦闘能力や特殊な技能を持つ人間は優遇される。商品に傷が付けば価値が下がるのだ。価値が高い物を下手に扱う馬鹿は居ない。

 それ相応の扱いは受けるし、別に悪い生活はしない。

 逆に、醜女やただの男、栄養不足でガリガリの小汚いガキなどはランクが低い。元々価値が低い物を雑に扱っても大して変わらないし、飯を食わせる分の金は減るのだ。あらゆるものが最低限で十分。

 ラフィーニアは次にそこを生きた。


 死の危険はグッと減った。

 当たり前だが、ラフィーニアは商品だ。そこまで大切という訳ではないが、死なれれば稼ぎが減ってしまう。

 質は悪いが衣食住は用意されていたし、殺される事はなかった。

 最悪の生活ではなかったが、それでも良い生活な訳ではない。

 

 奴隷同士で足を引っ張り合うのだ。

 より良い人間に買ってもらおう、そのために媚を売ろう、よりよい環境に身を置くために頑張ろう。

 誰しもが奴隷になどなりたくなかったのだ。そして奴隷は、主に相応の年数働けば開放される契約の元に行われる合法の商売。

 少しでもマシな方へ行きたい。

 誰かに譲るなど馬鹿のすること。

 それは相手が子どもだろうと関係はない。


 大体、子どもはそういうセオリーを教えられないのだ。

 自分からライバルを増やす真似はしない。我が身可愛い大人たちは当然ながら、子どもを見捨てる選択を取る。

 誘い方も、魅せ方も、取り入り方も、何も分からない。

 奴隷商もわざわざそれを教えるほど親切ではないし、なんならウブな方が子どもを買う変態にウケる。

 一部の頭が良い子どもは他の奴隷の真似をして、あたかも使えるかのように見せるが、ラフィーニアにそれほど賢くはなかった。


 何をすれば良いのか分からない。

 だが、悪意に触れない方へ触れない方へと動く彼女は、奴隷の中でも目立たない存在になっていった。

 目立たず、客の目にも止まらない。

 箸にも棒にもかからない売れ残りは、あるタイミングで鉱山へ労働奴隷として売り飛ばされる。

 

 それは男女関係ない。

 男であれば当然ながら働かされ、女ならば労働もしつつ溜まった男たちの性処理のために使われる。

 子どもだろうと関係ない。大人と同じように使い、その内野垂れ死ぬのを待つだけだ。

 地獄への片道切符を掴んだラフィーニア。

 何も分からない子どもではあったが、これから死ぬだろうとは分かっていた。周りの奴隷たちの絶望を見ていれば、何となくでも分かることだ。


 悲しくはなかった。   

 苦しくもなかった。


 ああ、終わるんだな

 

 そう思っていただけだった。

 怖くもなかったし、悲しくもなかった。いつか起こるだろう現象がこれから起こるだけのこと。

 死に損なった彼女が死ぬのは、この時なのだと思えた。

 だから、馬車に揺られながら、ゆったりと死を待ち続けた。

 今度はもう生き残れないと確信して。


 

 だが、やはり死ななかった。



 これまでと同じように生き延びた。

 絶対にこんな事は起きないと思っていた事が起こった。


 森を運ばれる中で、彼女らは助けられたのだ。

 いわゆる『精霊信仰』という異端グループに。



『お前たちを助けたい』



 なんと響く言葉だったのだろうか。


 彼らは奴隷たちにとっては憎き奴隷商たちを皆殺しにして、奴隷の解放を行ったのだ。

 ラフィーニアの人生で初めての幸運だったかもしれない。

 それに、助けたいなどと言われたこともだ。

 これまで強者に振り回され続け、同じ弱者からは貶められ続け、ろくでもない人生を送ってきた彼女。それが初めて、彼女の常識に合わない事が起こった。



『助かって、いいんですか……?』


『当たり前だ』



 死ぬよりも、凄まじかった。

 死ぬよりも、ずっと嬉しかった。


 こんな幸福があっていいのか、と。

 いや、幸福なんてものがあっても良いのか、と。


 これまでラフィーニアは、ありもしない幻想に浸ろうとした事はないのだ。誰かが助けてくれるかもしれない、都合の良いことなど起こらないという確信があった。

 俗に言う英雄やヒーローなんてものは存在しない。仮に居たとしても、意地汚くて、浅ましくて、愚かで醜い、ちっぽけな自分など気にかけないに違いないと思っていた。

 

 自分には資格がないと理解している。

 無知で無垢な子どもではなく、汚れきった子どもだと自分を評価する。それも、彼女が自分を客観視すれば至極とうぜんの事だ。

 父親は魔物だった。彼女に毒を注ぎ込んで手を叩く、最低最悪の男だ。その血が半分、彼女の体には流れている。

 母親や兄弟は居ないも同然だった。居るのに、居ないのと同じだったのだ。どれほど助けを求めても、手を取って引っ張り上げるなどしてくれない最低よりは少しマシな最低だった。当然、彼ら彼女らとはラフィーニアは血を分けている。

 血族全員がクズなら、その血まですべてが汚れきった結果だと信じるしかない。


 だからというべきか、自分も同類のロクでなしだった。居ないも同然が良いと思っていたし、助けられないという結果は自分が招いた結末なのだと察していた。

 これまで助けてこなかった人間が、助けられる訳がない。

 頭が良い訳ではなかったが、多くを知った子どもだ。あらゆる事象に無償はない。種を蒔いていないのに、収穫を見込むなどという間抜けは彼女はしない。

 

 然るべくして、事は運ばれる。

 ならば、死ぬまでの道のりは悲惨なのだろう。

 苦しんで、苦しんで、その末に無に帰るという結末を望んでいた。

 さっさと終わってほしかったのだ。


 それは、自分に助けられる資格がないという覚悟ではない。それほど重いものではない。ただ、自分に都合の良いことは起こらないと知っているだけのことだ。

 しかし、それを裏切られる。



『助かっていいんだ』


 

 その幸運を、罰が当たりそうなほどの幸運を、当たり前と言われた時は衝撃だった。

 それを言った大人の顔はもう覚えていない。しかし、その言葉と衝撃だけは未だに彼女は覚えている。最悪の環境の中で、ほんの一筋の光を見たのだ。

 絶対の価値観をひっくり返された。覆すことのできない、死ぬまで変わらない人生が、変化を迎えたのである。

 これがどれほどの衝撃か、彼女にだって分からない。

 天変地異が目の前で巻き起こったとしても、ここまで驚くことはなかっただろう。足元から世界の概念が崩れ去ったと言えるほど、凄まじいものだった。



 その時、ラフィーニアは泣いた。

 これ以上のない幸福を受けて、涙を我慢出来なかった。

 子どもらしく、声をあげて、みっともなく。

 

 死んでも良かったはずなのだ。

 なんならさっさと死にたかったはずなのだ。

 ラフィーニアにとって生きるということは、ただ起こる苦痛に耐えるだけの時間だった。そして、生まれた時点で立場と価値は変わらず、死ぬまで受ける苦痛の量は決まっている。自分はその中でも質の悪い場所に生まれついて、人生不利なまま、有利な人間の喰い物にされると思った。


 だが、暖かいものを知った。

 これまでとは違う、不利でも、苦痛でもないものだ。

 優しさという名の薬である。

 醜い悪意に晒されて、理不尽に虐げられて、自身の生を切り捨てるほどの諦念に支配された少女にとって、その薬は何よりも効いた。



『我らは分かり合えるのだ』



 それから、沢山の事を語った。

 無知な少女へ多くを教えた。


 彼ら『精霊信仰』が理不尽にも神に虐げられていること

 それに何とか抗っていること

 平和と平穏を望んでいること

 助けたのもその一環であること

 苦しむ人を助けたかったということ

 きっと最後には分かり合えるということ


 ただラフィーニアは納得した。

 政治や歴史など関係なく、分かり合いたいから、そのための一歩を踏み出しているのだと捉えた。

 ならば、それは努力だ。

 彼女が散々してこなかった、人を救うという努力。その形として現れるのは、ラフィーニアとは真逆の結末なのだろう。


 歴史など関係ない。軋轢など関係ない。

 それを覆すためにこんなにも積み重ねている人たちを、いったいどうして拒む事が出来るのだろうか?


 ラフィーニアは、彼らに協力したかった。

 命の恩がある。暗いままだった人生に光があるとも教えてくれた。底辺から変わる努力もあるのだと知らしめてくれた。

 そして何よりも、興味があった。

 自分とは真逆の彼らが、どんな明るい未来を作り上げるのかを知りたかった。


 これまでの価値観をひっくり返す人間だ。

 それはきっと、幸福な結末が待っているはず。努力は報われ、長い軋轢は解消され、愛が満ちたものになるはず。

 ある種の盲目的な信仰に近かったかもしれない。

 多くの言葉で言い表す事が出来るだろうが、あえて一つ選ぶのならば、ラフィーニアは彼らを愛したのだ。

 

 これから救われる命を見たい。

 これから変わっていく命を見たい。

 これから変えていく命を見たい。

 見たくて、聞きたくて、知りたくて。何でもすべてに関わってしまいたくて。

 これまでの絶望の裏返しで、ラフィーニアは抱えきれないほどの愛をその身に秘める事になった。


 トロンの教会の孤児院に入ったのも、彼らの役に立ちたかったからだ。

 彼女が教会に潜り込み、その内情を多少なりとも教えられれば、彼らにとってどれだけ有益なことか。

 さらにラフィーニアの凄まじい所は、神と精霊という二つの信仰を知りながらも、両方を強く信じられたことだ。簡単なものでしかないが、神聖術も、精霊術も、ラフィーニアは使用可能なのである。

 それもひとえに、愛だ。

 恩人たちが信じて願う精霊を愛した。それと同時に、彼らが和解したいと思う神をも愛せた。

 何故なら、ラフィーニアは無償の愛を知ったからである。それと同時に、無償ではない愛も分かっている。

 だから彼女にとっては、救いたいと、救われたいは表裏一体なのだ。神も精霊も、彼女は救いたい対象であり、救われたい願いの対象。

 奇跡の存在だ。

 愛という概念が生んだ、稀有な神童。

 

 それがラフィーニアだ。


 まあ、彼女自身はそれを知らない。

 彼女は毎日同じことを続けただけだ。


 融和を願った。平和を祈った。

 二つの信仰は仲良くなれると、お互いを許容出来ると信じていた。

 助けてくれた人たちへの努力が報われますようにと、神にも精霊にも祈った。

 ラフィーニアの心は愛で満ちている。

 人が彼女を心地よく感じてしまうのも、その愛だ。

 愛らしさ、愛くるしさ、親愛と友愛を前に、大概の人間は絆される。よほどでなければ、普通の人ならば、彼女にとっては愛し愛されの対象なのだ。


 八つで孤児院に入ってから、皆に愛されるラフィーニアが出来上がる。

 そこで重要だったのは無償であることだ。振り撒く愛を煙たがる人間も居るが、やはり貰って嫌がらない人間も多い。人間を多く知ったからこそ、ラフィーニアは間違えない。

 数年という短い期間の中で、彼女が失敗しなかったのは、人間の善の気質が多い者が相手であればこそだ。


 ラフィーニアは善人に囲まれ、幸せな人生を送る。これまで受けてきた不幸を帳消しにするくらいの幸福を、たくさん受けるのだ。

 生きがいを持ち、憧れに手を伸ばし、自分の全力を尽くす。彼女の最大の目標は、彼女の人生の中で終わることはないが、別の誰かに意志を継がせる。

 そうやって、なんの悔いもなく幸せに生きる。


 はずだった。


 

 ※※※※※※※※※



「ラフィーニアちゃん!」



 ラフィーニアは呆けた顔でクララを見ていた。赤くなり、ジンジンと痛む頬を思わず押さえて、腰を地面に付けながら。

 後ろから駆け寄るリーザを見向きもしない。

 ただ、視線を釘付けにされたのだ。

 ゾッとするほど冷たい、ラフィーニアが向けられた事のないほど恐ろしい瞳に震えた。



「貴女! いったい何を!?」


「君が異端ってことは分かってる。異端審問官として、君を見逃す訳にはいかない」



 クララは割って入ったリーザを完全に無視した。

 その目はただ、ラフィーニアにのみ注がれている。

 一般人で、戦闘能力のない、修羅場など潜ってきたことのないリーザでも分かる。クララの眼中にはラフィーニアしかないのだ。それに、眼中にない理由が、自分のことなど簡単に殺せるからだと分かってしまう。

 圧倒的すぎる威圧感だったのだ。

 以前に見た時とは比べ物にならないほど、クララの気配は人間を殺せる人間のものだった。


 庇いながらも恐れ、そして引かないリーザ。

 クララはそれに触れず、ただラフィーニアへ語りかける。

 


「異端の中でも一番立場が高いだろう人間の頭の中を見てきた。おそらくだけど、もう全部の情報を見たはずだ。かなり隠れた異端を殺すのにかなり役立ったよ」


「……………」



 ただ、黙る。

 こんなクララを見たことがなかった。

 冷酷という言葉が似合う、まさしく異端を情け容赦なく殺す人間。ラフィーニアのちょっとした行動で目を回していた少女は居ない。



「その隠れた異端っていうのは、この街に紛れ込んでる異端のことだ。身分を隠して、上手く情報を本体に流してたネズミだよ」


「……わ、わたし、」


「君は、その一人だ。異端の仲間だったんだね……」



 失望に近い言葉であったかもしれない。

 だが、クララの表情にはそれは見られない。というより、一切の感情が見られない。

 口で語った事と、見える印象とがまったく違う。

 

 ラフィーニアは何も言えない。

 きっと、恐怖で無言になったように見えただろう。少なくとも、彼女と仲の良かった人間にとっては。

 話せない彼女を前にして、リーザは怯えながらも立ちはだかる。

 

 

「何を、何を馬鹿な! この娘が異端? 言いがかりも大概にして!」


「黙ってたら、何も分からないよ。言い訳くらいしたらどうだい?」



 クララはリーザの存在を徹底して無視している。

 リーザは屈辱に顔を歪めながら喚くが、どれもクララには通じない。

 ラフィーニアだけを見ているという状況は変わらない。クララの意志を言葉で曲げる事は出来ない。


 悲しいことに、この状況の意味を理解出来たのは、クララだけだ。

 リーザもラフィーニアも、ただ危機感に駆られて各々で慌てている。



「異端はあと一人、君だけさ」


「うそ……」


「本当。もう他は全員殺してる」



 殺してる


 そんなはずはないと否定したい。

 ラフィーニアの中のクララは、そんなことをする人間ではない。殺すなど、悪逆の極みのはずだ。異端審問官が人を殺すとはずっと彼女自身から聞いてきたことだが、それを信じられるはずもない。

 自身の中の彼女は、優しい人なのだ。

 悪そうにしているだけで、その奥底には悪意など欠片もない。仮面を被って顔を隠そうとしているのに、その仮面にヒビが入っている事など気付かずにいるような人間である。

 

 目の前の冷たい目をしたクララも、普段のクララとは別人のようだ。まるで双子の姉妹が来たかのようで、けれどもそんな馬鹿はないと分かってしまう。

 変わらずにずっと見下ろすクララと、未だに立てないラフィーニア。

 少しずつ、何か騒ぎがあったのかと人が集まりつつあった。



「クララ、様……」


「残念だよ。仲良くなれるかも、なんて人並みのことを考えたのに」



 裏切ってしまったのか


 ラフィーニアの脳裏に浮かぶのは、裏切りの文字。これまでやってきたことが裏目に出ていたのかという微かな疑問。

 しかし、彼女の人生にそんな経験はない。他人のためにしてきたことが、別の誰かにとっては邪魔でしかないことだなんて思えない。

 彼女の目標は、もっとずっと遠いところにあるのだ。そしてそれは、誰もが笑いあえるもののはずなのだ。

 そんなことは、あってはならない。

 許されない。



「クララ、様、は、そんなこと、しません……」


「あ?」


「わ、私の知ってる、クララ様が、そんなことするわけないじゃないですか! だってクララ様は、優しくて、不器用で、なのにそんないい所を隠そうとする変な人なんです! 人なんて殺すはずない! 全部、全部嘘なんですよね?」



 その使命感や義務感に逆らうために、逃げるしかなかった。

 事実を曲解し、捻じ曲げる。そうすることで、自分の中のものと外とで折り合いをつけたかった。

 もちろん、それで現実の状況が改善される訳がない。


 クララはさらに温度を下げた目でラフィーニアを見た。

 それは威圧でも恐ろしさでもなく、分かりやすく込められた怒りと、微かな失望だった。

 


「ボクがそれを、出来ないとでも?」

 


 説得力があったのかもしれない。

 ただ、人を殺せる人間が淡々と言ったのだ。出来ないわけがないと。誰もが彼女は殺人を経験したのだと分かってしまう。

 その異常さは、彼女らの周りに集まりかけた人間にも響いた。騒ぎ見たさに来た調子の軽い者は、感じた危機感から即座に踵を返す。



「逃げるな」


「…………」



 脅迫の言葉だったのだろう。

 手間をかけさせる事をせずに、おとなしくそのまま居てくれという命令に聞こえた。

 クララはそのつもりであったし、周りもそう言っているようにしか思えなかった。

  

 だが、ラフィーニアは別の捉え方をしていた。

 まるで責められているかのような。逃げてしまう弱いラフィーニアの見苦しさを見ていられないと嘆くかのような。

 どちらにしても、ラフィーニアにとっては胸を締め付ける鎖のようだ。

 下手な言葉を吐いてしまったのだと、ラフィーニアは後悔する。自分の価値だけでなく、冷たい表情を保つクララを傷つけてしまったようにも思えたのだ。

 人の機微に察しがいい彼女は、クララという少女が被っていた仮面を見破ってしまった。


 それと同時に、頭を殴られたような衝撃を覚える。

 凄まじい衝撃だ。

 これまでの価値観がひっくり返ったあの時と同じ、泣きたくなるほどの攻撃だった。

 これを聞いて逃げようだなんて思えない。


 

 だが、それをその他の人間には分からない。

 



「ラフィーニアちゃん! 逃げて!」


 

 はじめに動いたのは、リーザだった。

 明らかな不審人物であるクララの狙いは、見知った少女のラフィーニアなのだ。

 それで自然と体を動かせたのは、幸か不幸か。

 クララの異様さやおぞましさにも負けず、恐怖心を押さえつける事が出来た。ラフィーニアを大切に想うからこそ、リーザを動かす。


 だが、意地でクララは止まらない。

 足を取り、転ばせようと掴みかかるリーザは、ピクリとも動かないクララと巨大な岩を重ねた。

 必死の抵抗も相手にされず、悔しさに震えた。だが、リーザはそれを続けるしかない。それくらいしか、彼女に出来ることがなかった。


 その間もずっと、クララはラフィーニアだけを見ている。



「言ったはずだよ。異端なら、赤ん坊でも殺すって。森に居た奴らは全員殺したんだ。一人残らずね」


「待て!」「ラフィーニアちゃん! 走るんだ!」「リーザに続け! コイツはヤバい!」



 次に動いたのは、集まった人間たちだ。

 彼ら彼女らも、ラフィーニアの事を強く想う者たちである。娘のように、妹のように彼女を思っていた彼ら彼女らは、クララへ体をぶつけた。

 蒔いた種が実を結んだ瞬間と言えるだろう。

 ラフィーニアが善意を他人に送り続けたからこそ、善意を返そうと動く人間が現れたのだ。

 胸が熱くなる状況だった。人と人とが分かり合えると思える理由がここにあるのだ。

 だが、



「君を、殺すよ」


「…………」



 何度でも言うが、意地でクララは止められない。

 踏み出したクララには既に何人も大人たちが止めようとまとわり付いている。しかし、クララの一歩はとても軽かった。邪魔をする者たちなどまるで居ないかのように。

 徹底して無視する姿勢は変わらない。

 

 

「ラフィーニア! こっち!」



 動かないラフィーニアの手を引こうと、同じ歳頃の子どもが集まってくる。

 大人でも状況が分からない中で、友人を助けるために動いた。クララという巨悪を前に、引かない姿は他の大人たちと同じくらい頼もしかったかもしれない。

 少なくとも、ラフィーニアはそう思った。

 けれども、それでは駄目なのだ。


 クララの言葉はラフィーニアに深く刺さっていた。

 逃げるな、という言葉に、価値を見出した。

 ここで何も語らずに逃げ出せば、それは自らの信念を否定されたまま終わってしまうということ。

 だから、



「ラフィーニア! 早く! コイツ絶対ヤバいよ!」


「逃げないとダメ!」


「…………」



 焦った様子で迫る彼らを無視して、ラフィーニアは立ち上がる。

 ただ立ち上がる。引かれる手に従うことはなく、その場でクララを待つかのように。



「ぎゃっ!」「ぐあ!」



 クララはまとわり付く者たちを振り払っていた。

 動いてすらいない。少しだけ、神聖力を暴走させただけだ。いつも纏っている量よりも、もっとずっと少ない量だ。

 だが、一般人相手ならそれだけで十分だった。

 壁に叩きつけられ、地面を転がり、動ける者は居なくなる。ただ対象だけを見ているクララは、真っ直ぐに歩く。



「うわあ!」「あああ!」



 逃げようとしないラフィーニアに埒が明かないと、子どもたちはクララへ向かう。できるできないではなく、やらないとと決心したのだ。

 戦おうと誓い、立ち向かう子どもたち。大人たちがクララに吹き飛ばされる所は見ていた。だが、力がないなりに全力を尽くそうとした彼らには、そんなことは些細なものだ。

 けれども、結果は変わらない。

 クララに指一本触れられる事なく、簡単に弾かれた。


 守れる人間はもう居ない。

 クララにとっては、ほんの一瞬で終わることだった。

 ゆっくりと歩くクララだったが、もう手を伸ばせばラフィーニアの体に届くほど近付いている。

 ラフィーニアは俯き、暗い顔のままクララに語りかけた。

 


「私は、ただ仲良くしてほしかったんです……精霊を信じる人も、神様を信じる人も、皆が笑ってほしくて……」


「その考えが異端なんだよ」


「人の幸せを願う事が、そんなにいけないんですか? クララ様も、分かるはずです。『聖女』様の話をしていた貴女が、それを知らない訳がない」


「願う人間がいけないんだ」



 疑問ではない。

 反感、自分の考えが間違っているはずがないという確信。

 それはラフィーニアがずっと溜め込んで、隠し通していたものだ。

 クララを相手にして、引きはしなかった。



「いけないなんて事は絶対にありません。私みたいに救われた人は居るんです。悪い人たちじゃないんです」


「…………」


「出来るはずなんです。私が助けられたみたいに、違う人間を知る機会さえあれば誰だって……」


「…………」


「間違いなはずがないんです……きっと、皆で仲良くなれる未来は素晴らしいから」



 ラフィーニアの理想は素晴らしかったし、正しいものだとクララは思う。

 異端とて生きているのだ。話をすれば分かり合えるだろうし、人間として関係を築くことも出来るだろう。

 もしもがあるのならば、ラフィーニアが語るような世界もあるだろう。精霊を信じる者も、神を信じる者も、互いが手を取り合えるような、今よりももう少しだけ優しい世界だ。

 

 志の高さにクララは感服する。

 ラフィーニアは、本気でそれを実現しようとしているのだ。異端は世界の鼻つまみモノで、関わりたいなど考える人間など皆無に近いというのに。人間はもっとずっと冷たいというのに。

 


「でも、この世界ではそれは間違いなんだよ……」



 だから、残念で仕方がない。

 神の考え方がもう少し違えば、神が居なければ、魔力など人間が使えなければ。そんなつまらない想像をクララがしてしまうほど、惜しかった。

 ラフィーニアは良い人なのだ。

 言うは易く行うは難しの、言うも行うも同時にやろうとする。男の記憶を見たクララからして、異端たちもラフィーニアを嫌っていないのは何となく分かった。

 

 だが、何よりも世界が悪かった。

 ラフィーニアがこんなつまらない世界に生まれてしまった事を、クララは嘆いた。

 誰にも伝える気はないし、表には出さないけれども、確かにそれだけは……



「異端は死なないとダメなんだ」


「…………! なんで、ですか……?」


「神が、そう決めたからだよ」



 分かり合えるはずだと思うのは、駄目ではない。

 だが、それを求めるのは明確に悪と定められる。

 ラフィーニアが悪い訳ではないし、悪いのは絶対に世界の方だ。しかし、ラフィーニアが悪いことになってしまう。

 神がそう決めたから。



「神様がそう決めたなら、何をしてもいいんですか?」


「いい」


「殺して、壊して! それで終わりなんですか!? 皆で協力して、愛し合えた方がずっと良いに決まってます! クララ様だって殺したい訳じゃないんでしょ? 分かりますもん! 貴女は絶対に……!」


「いいんだ」



 有無を言わせない言葉であった。

 ラフィーニアの想いをすべて切り捨てた。

 


「確かに、好きで人を殺すんじゃない。むしろ嫌いだし、それをさせる神もどうかと思う。君の言い分も理解できるし、応援したいとも思う」


「なんでなんですか!? そこまでして、なんで?」


「神に従うと決めた。『聖女』のために」



 全部を切り捨てられるから。



「……愛のため、ですか?」


「そうだね」


「『聖女』様以外は、大切じゃありませんか?」


「大切な人は居るよ。でも、優先順位がある。一番のために二番を捨てる事を迷っちゃいけない」



 話にならない。

 崇高な信念も、他人の命も、神からの使命もすべてがどうでもいい事なのだろう。

 ラフィーニアにとって、こんなにも悲しいことはない。

 


(こんなに、良い人なのに……)



 人を殺す事を嫌がっている。

 クララは赤ん坊でも殺せる狂人であることには違いない。だが、人を殺すことへの忌避感も存在する。

 だから、他の異端審問官が嫌いなのだ。平気で殺して、大義を語る彼らを心から軽蔑している。

 自分がそこまで墜ちることを恐れている。

 その末に、『聖女』に対して……


 だが、クララは他人を殺す。

 それもこれも全てはたったの一人のため。赤ん坊でも殺すことも躊躇わない。ありとあらゆる存在を贄にしてでも、目的を達するために全力を尽くす。

 けれども、躊躇わないのは覚悟があるからだ。



「でも、」


「全員を殺した。これからも殺す。だから、君も殺す」



 どこか言い聞かせるような言い方だった。


 クララにも、殺すためには覚悟が必要なのだ。

 息をするようには殺せない。

 殺しに必要なのは、必要性と覚悟と勢いだ。

 そして、今足りていないのは覚悟だった。



「私は、死にたくないです……」


「皆そうだよ。ボクだってそうだ」


「それと同じくらい、クララ様を傷付けたくないです」



 それは、狂人なりのこだわりだ。

 今この瞬間にも、メイスを振り上げて、そのまま下ろせば任務は達成。一人も残さず異端を狩ったと報告して、それでトロンとはおさらば。

 そしてもう二度と、トロンでの出来事を思い出す事はないだろう。クララは過去のことに目を向けない。目を向ければ、縁を持ちすぎれば、鈍ってしまうから。


 ラフィーニアはそれを多少なりとも察して、クララを不憫に思っていたのである。

 クララの行動に迷いはない。ない事にしなければならない。邪悪そのものでなければ、やってられない。けれども、心からそれに染まるのは嫌だと否定する。

 ずっと続けてきたのだろう。ずっとずっと、続けていくのだろう。

 過去も今も未来も、その心には傷が絶えないのだろう。

 それがラフィーニアには不憫でたまらない。


 救いたい。

 けれども、能力が足りない。



「殺さないでください。貴女のために」


「殺す。自分のために」



 言葉は届かず、想いは届かず。

 これでは意固地で頭が固くて、頑固なクララは曲がらない。

 失敗は、理不尽に抗える強さを手に入れようとしなかったこと。そして、悪意もなしに悪事を為せる人間を、知らなかったことだ。


 どうしようもなかった。

 何をしても、クララの殺人という選択肢を変えられない。他の道があるのか考えさせることができない。

 時間もない。

 覚悟を決めるために必要なものは、時間だ。

 殺しを続けてきたクララなら、ほんの少し時間があればその覚悟も出来てしまう。今まで殺されなかったのが不思議なくらいなのだ。


 この状況にラフィーニアは、泣いた。

 泣くほど、悔しかった。

 これにクララを止めるほどの力はない。だが、一歩だけ引かせることが出来た。

 その一歩で、ラフィーニアの最期にやりたいことは出来てしまった。

 


「……泣いたところでもう、」


「ごめん、なさい……」



 悲しくて、悔しくて。

 滂沱の涙を流しながら、ラフィーニアはクララへ抱きつく。

 強く強く抱きしめる。 

 


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


「なんの、つもりだ……?」


「ごめんなさい……殺させて、ごめんなさい……」   



 甘い香りがした、気がした。

 クララの鼻孔にフワリと入り込み、脳を痺れさせたのかと思うほどの刺激を与えた、ように思えた。それから、柔らかくて暖かい感触が全体に貼り付いていく。

 クララにとって、口から心臓が飛び出そうなほど刺激的だった。

 引き剥がすことは出来ない。する気が起こらない。

 ただずっと、このままで居たいという欲求が湧いて出る。


 クララは目を瞑った。

 そして、



 ラフィーニアの心臓を抉った。



「かふ……!」


「…………」



 ただ、虚しかった。

 ラフィーニアという少女の全体重がクララへとかかるが、クララにとっては羽よりも軽い。

 軽すぎて、存在自体が怪しくなる。

 だから、クララはそっと抱きしめ返した。



「ラフィーニアちゃん……!」



 動けなかった者たちが、ショックから目覚めて少しずつ動き出した頃だ。

 ラフィーニアの力が弱まり、それに反比例してクララの力が強くなっていく中で、またもやリーザが一番はじめに動き出す。

 重い体を引きずるように、ゆるりと走る。


 

「クラ……さ、プレ、ゼ……アレ……」


「…………」



 ラフィーニアの言葉にただ耳を傾ける。

 クララは愛おしそうに髪を撫でながら、感覚が無くなりつつある彼女へ伝わるように強く抱きしめた。



「ごめ、さい……もっと、はなし……ごめんなさい……」


「君はよくやったよ、ラフィーニア……」



 感情がごっそりと抜け落ちたようだった。

 いつも無表情でいるクララでも、今だけは違った。

 顔は変わっていないのだが、どこか悲しそうに見えたのだ。堪えるような、そんな別の何かがあった。

 これまで呼ぼうとしなかった名前を呼ぶくらいには、いいかもしれないと思っていた。



「やっと、名前……嗚呼、クララ、様、あい、してます……」



 逝った

 

 愛に満ちた少女は、その愛を最期に言葉で表した。

 もう少しで友だちになれたかもしれない少女を、殺した。


 クララは丁寧に床に寝かせる。

 それから溢れる涙を指で拭き、まだ輝く瞳を閉じさせた。

 これで終わりだ。

 全ての異端は、死に絶えた。



「ラフィーニア、ちゃん……! ラフィーニアちゃん!」



 それから何となく、彼女が持っていた袋を拾った。

 別に意味はない。

 クララにとって、意味を考えるまでもない。



「なんで、殺されなきゃ、いけなかったの? なんで、死なないといけないの!?」



 歩いた。

 ただ、惰性で歩き続けた。



「ふざけるな! 恨むぞ、ずっと恨むぞ、異端審問官! お前は、人間じゃない! この化け物め!」



 怨嗟の声も、もう何も響かない。

 クララはただ歩いた。

 その足取りは重くも、軽くもない。



「嗚呼、神よ。憐れな魂を救い給え……」



 何よりも虚しく、意味のない祈りであったことは、誰よりもクララ自身が知るところだった。


クララは必要以上に関わる相手以外の名前を呼びません。関わりを持てば持つほど、その人物をもしも殺すことになった時に動きが鈍るからです。

クララが名前を呼ぶのは、異端審問官とアイリスくらいでした。

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― 新着の感想 ―
[一言] ラフィーニアちゃん…ほんとうに良い子だったのに… これからも楽しみにしてます…!
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