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18、異端審問官


 扉を開ければ、部屋がある。

 ソファーに本棚、机や壺、絵がバランス良く並べられた、とてもそれらしい部屋だ。

 家具やインテリアの一つ一つは、貴族専門で取引を行える大型商会から調達した一級品ばかりであり、どれだけここの主が裕福かが分かる。

 

 十人居れば十人が、普通の部屋だと答えるだろう。

 いや、高級感は別にして、それ以外はなんの変哲もない部屋のはずだ。

 これに違和感を覚える人間は少ない。

 それだけ上手く隠してある。


 

「…………」



 そこに、男が入ってきた。

 かなり身なりの良い男だ。

 歳は五十を回っているだろう。老人、と呼ばれそうだが、まだ腰は曲がっていない。その茶髪に、目立つくらいに白髪が混ざっているが、年齢相応だろう。

 そして、良い生地、良い仕立ての高そうな服を着ている。身に付けた装飾品も、ただの庶民では手が出ない代物で、男が貴族である事を思わせた。

 この男も一見おかしな所は無い。

 無いが、一見というだけだ。


 男は何やら重そうな鞄を大切そうに持ち運んでいる。

 人一人は入りそうな大きさで、ただ黒く、大きいだけのもの。男の身なりにまったく合っておらず、おそらく値段もそう高くはない。

 輝くような高級品しか身に着けていない男が、だ。

 それに、男がやけに重そうに運んでいるのに、それを運ばせる使用人は居ない。

 本来なら、こういった荷物は自分で運ぶものではないのに。

 

 部屋に入った途端、男は窓を見た。

 ざっと見て、外に誰も居ない事を確認してから、カーテンを閉める。

 とても怪しい。

 完全に人目を避けようとしている。

 わざわざ窓の外にまで気をやる神経質ぶりだ。


 そして、彼は自分だけの空間で、目を瞑る。

 祈るように、願うように。

 あとは、罪悪感から逃げるように。




「…………」


 


 ガコ、と乾いた音がした。

 見れば、男は部屋に飾ってあった絵が外されている。

 そして絵のあった場所には凹みができており、男はそこに手を押し付けていたのだ。

 まるでボタンのように、というか、実際にボタンだったのだろう。

 音の鳴った数秒後、壁の一部が扉のように開いた。

 それが合図だったに違いない。


 壁の奥は、深く、暗い。

 ずっと下へ下へ、階段が広がっていた。


 男は一瞬だけ躊躇するが、重そうな鞄を引きずるように、一歩一歩と歩いていく。

 どんよりと重い雰囲気だ。

 それはきっと、そこが暗いからでも、男が気乗りしなそうだからでもないだろう。

 カツン、カツンと音がする。

 男はそれ以外の音を立てたりしない。

 


 下へ下へ

 より深く、より暗く



 一番したへ着く頃には、男は少し疲れていた。

 服の一部が微かな匂いとともに濡れて、息も浅く、多くなっている。

 けれども重い荷物を、ずっと下まで運んだのだ。

 汗の一つも出るだろう。

 まあ、ただの冷や汗だったのかもしれないが……


 そして、下にはまたもや扉がある。

 大きくて、分厚い扉だ。

 この鉄の塊を、ただの貴族でしかない男が開けるには少し骨だろう。

 ここまで来るのに、それなりに時間はかかった。そして、男の目的地は間違いなく、扉の奥だ。鞄を持って長い階段を降りた後に、さらに時間がかかるかと思われた。

 だが、扉はひとりでに開かれる。

 男を歓迎するように。



「……来たぞ、ヴゥイエン」


 

 男は部屋を見る。

 暗い部屋のはずだが、不気味な灯りに照らされた場所だった。

 紫の光が地面から漏れ出ている。

 ただでさえ不思議な光景であったが、よく見ればその光は規則性を持っているように見えた。

 

 そして、男が呼ぶ名前。

 部屋の中には、光以外には何もないように見える。

 だが、



「よく来た、カシル」



 急に宙から声が出る。

 とびきりの親しみと、信頼を込めた『よく来た』だ。

 男、カシルの事をよく知り、関わってきたのだろうと容易に想像できてしまう。

 これで浅い間柄と言うことはないだろう。


 カシルは声の方に顔を向ける。

 すると、声と同じく、宙から突然人影が現れた。

 そこには何も無かったというのに、いきなりだ。

 

 それは、カシルにヴゥイエンと呼ばれた者。

 黒い服に、黒い髪、浅黒い肌を持つ男だ。

 カシルのように、貴族らしいという訳ではなく、これといった特徴はない。

 その頭以外には。


 ヴゥイエンの頭部には、角が生えている。

 山羊のような、捻れた黒い角だ。

 そこ以外はまったく人間と同じだというのに、そこだけでヴゥイエンが人間ではないと分かる。

 


「それが、最後の生贄か?」


「ああ。実に苦労したよ」



 カシルは鞄を広げる。

 無骨で、飾り気のない、大きいだけのものだ。

 けれども、見るものが見れば分かる。それは魔術が込められた魔道具であると。

 中身を隠蔽し、外からは決して感知できないようにするための物であると。

 そしてその中には、何と少女が入っていた。

 メイド服に見を包んだ、まだ成人少し前に見える少女。

 彼女は手足を投げ出し動かない。昏倒させられていたのだ。目を閉じ、グッタリとして動かない。



「この魔道具が反応する、魔力の高い者だけを集めねばならんから、骨が折れた。奴隷で買えたらどれだけ楽か。貴族の子女を誘拐せねばならなんだよ」


「それはすまないね。でも、仕方がない事なんだ」



 鞄は、ヴゥイエンが作った魔道具だ。

 中身を隠蔽する魔術、中から外への干渉を封じる魔術に、一定以上の魔力に反応する魔術。

 三つが絶妙なバランスで同時に鞄に込められている。

 並みの腕前の魔術師なら、上手くいかずに、効果のどれか一つを削る所だ。

 

 それを使って、カシルは人を集めていた。

 誰にも知られてはいけなかったのだ。

 彼の妻や子どもはもちろんの事、友人や使用人に至るまで、すべて。

 これまで、彼がすべて秘密裏に遂行してきた。

 時には一人で、時にはヴゥイエンの手を借りて。


 計画は完璧だった。

 もう誰にも止められない所まで来たのだ。



「さあ、その娘をそこに置け。我らの願いは、これでようやく一歩前に進めるんだ」



 感慨深そうに言うヴゥイエン。

 それに同意する言葉は無いが、カシルは内心はヴゥイエンの言葉に賛同していた。

 

 ここまで来るのに、五年かかったのだ。

 人材を厳選し、計画を立て、調整を重ねる。

 魔力量が十分な生贄候補、二十人を誘拐するのには本当に途方も無い労力を払った。

 ターゲットが貴族の子となれば、捜索は必ずされる。

 その捜索でバレるよりも前に儀式を行う事にしたのだ。半年で十二人の子を誘拐している。

 もうそろそろ勘付かれるタイミングだが、もう遅い。

 もう遅い、と言えるように目標数まで連続で誘拐した。


 

「…………」


「? どうした?」


「いや、この娘の事だよ。少し前は目を付けていた生贄候補が突然居なくなって肝が冷えたが、こうして別の相手が見つかった。これが、神の思し召しかと思ってね」



 ヴゥイエンは、神の思し召し、という言葉に顔をしかめる。

 それにカシルは苦笑いだ。

 きっと次には『笑えない冗談だ』とでも言うつもりだろう、と笑う。


 だが、カシルは本心から思った事だった。

 五年の間で捕まえられる生贄候補は出来る時には捕まえたが、最後の最後は一気に誘拐しなければならなかった。チマチマ捕まえては余計に時間がかかるし、そうなれば目的を達成される前に邪魔されるから。

 本当に、ギリギリのバランスの上で成り立っていた計画なのだ。

 だから、最後のターゲットの令嬢がカシルたちとは別の所で行方不明になったと聞いた時、二人は、特にカシルは眼の前が真っ暗になった。


 五年かけて丁度二十人しか見つからなかったのだ。

 そう簡単にクリアできるほど、条件は甘いものではない。

 もうダメか、と諦めかけていた。

 しかし、本当にギリギリで、運は彼らの方へ向いたのだ。


 黒い髪をした少女が、メイドとしてカシルの屋敷に転がり込んで来た。

 出稼ぎに来た田舎者だ。普段なら、そんな輩は追い返しているのだが、今回ばかりは事情が違う。

 その少女は、条件を満たしていたのだ。  

 

 

『ご主人様のお陰で、家族に楽をさせられそうです!』



 少女の笑顔が、カシルの頭に浮かぶ。

 あまり頭が良い少女ではなかったが、他の使用人にそれなりに可愛がられていた。

 十五歳(成人)には届かないほどの年齢にしか見えなかったが、それを言うと憤慨するのだ。

 自分は十七歳だと、訴える姿はとても子どもっぽい。

 カシルですら頬を綻ばせる事があった、明るい子だった。


 だから、こうなるまでに一週間かけられなかった。

 逆転劇に興奮したのと、あまりにも少女が簡単に騙されたためだ。

 彼女は最後の最後まで、カシルを優しい貴族だと信じていた。

 


「早くそこへ置け。そして、儀式を始める」



 パチン、とヴゥイエンが指を鳴らす。

 すると瞬きの間に、十九人の男女が現れる。

 薄汚れた者、そこそこの服を着ている者が居るが、ほとんどはカシルと同じく高級品を身に纏っていた。

 

 ヴゥイエンの空間を操る魔術だ。

 こことは異なる小規模の亜空間を作り、そこの時を止め、誘拐した後の状態のままに保存していた。

 世界でもほんの一握りしか使えない、超上級の魔術。

 ヴゥイエンの実力の一端が垣間見える。


 そして、ヴゥイエンは何かの呪文を唱え始めた。

 そうすると、紫の光は蛇のように蠢き、意識のない十九人の生贄たちの体に絡み付いていく。

 生贄たちは苦しそうに表情を歪めるが、それだけだ。

 何もできないし、させない。

 あと一人の生贄を待つのみとなった。



「すまないね。すぐに……」



 カシルはそれを見て、少女を出そうとする。

 あとは何の心配もない。

 引き摺り、並べて、友の報告を待つだけのこと。


 そして、ハタと気付いた。

 

 居ない


 少し目を離しただけのはずだ。

 いや、そもそも気を失っていたはずだ。

 ここにきて、そんな馬鹿なイレギュラーが起こったのか、とカシルは焦る。


 あり得ない、あり得ない、あり得ない、あり得ない、あり得ない


 とにかく、この場でもっとも力を持つ者、友であるヴゥイエンに警告と救援の内容を叫ぼうとした。

 異常に敏感な男だ。

 何よりもそういう感覚に優れていたから、無茶な誘拐計画を完遂できた。

 恐ろしい結果になるだろう要因は一つ一つ潰していき、失敗の種はすぐにほじくり返すを続けたのだ。

 慎重にと、大胆に、を両立できる男だからこその判断の早さだった。

 

 だが、



「残念だったね」


 

 カシルは見えた。

 部屋の天井に、張り付いていたメイド服の少女。

 黒曜石のような黒髪を短く切りそろえた、可愛らしい少女。

 先ほどまでは持っていなかったメイスを握り、殺気も、敵意も、何も写していない瞳でカシルを見ていた。

 少し前の、芋臭く、優しい田舎者の少女は存在しない。


 そこで、ようやく自分が騙されていた事に気が付いた。

 これまで見せた可愛らしい仕草も、態度も、笑顔もすべて嘘だったのだ。

 衝撃と予想外の儚さが、カシルの胸に広がる。

 次いで、自分の間抜けさへの怒りと、騙し通されたという事実への悔い、友への懺悔が浮かんだ。

 何もかもが、想定を破壊する。

 一瞬だが、呆けてしまうのは当たり前だ。 


 だが、すぐに嗤った。


 こんな最期が自分にはお似合いだ、と。



 

 それが、カシルの最期だった。




 ※※※※※※※※※



「カシル!」



 ヴゥイエンはカシルの元へ駆け出した。

 構築していた術を途中で投げ出し、五年間、共に同じ道を歩んで来た友を優先したのだ。

 

 だが、既に手遅れ。

 下手人が振り下ろしたメイスは、カシルの体を壊した後だった。

 間違いなく、即死。

 メイスは鈍器のはずだが、カシルの体は右の肩口から袈裟斬りに切り裂かれている。



「…………!」



 ヴゥイエンはその場から後ろへ飛んだ。

 駆け付けたい気持ちを抑え、全力で、いっそ無様に回避を選択する。

 すべては生存本能に身を委ねた結果。

 半歩でも踏めば死ぬ、という明確な未来を感知したからだ。


 そして、それは正解だったと悟る。

 下手人である少女は、既にメイスの二度目を振るった後だった。

 ヴゥイエンは、それが見えなかった。

 完全に彼の知覚可能な速度を上回り、その頭蓋を砕き割るつもりだったのだ。


 確信する。

 コレは、危険だと。下手をすれば、自分の主の喉元にも刃を届かせ得る存在だと。




「はあ……今ので終わってればよかったのに。面倒くさいなぁ……」



 少女が声を漏らした。

 気だるげな顔を浮かべる少女は、敵であるヴゥイエンに対して何の感慨もない目で見つめるだけだった。

 心底どうでも良さそうに、本当に羽虫か何かとしか思われていないような。


 だが、それを憤る事はできない。

 なまじ実力があるために、理解してしまうのだ。眼の前の、まだ幼さが垣間見える少女の圧倒的な実力を。

 もしも一瞬でも気を抜けば、その瞬間に殺されるという確信があった。

 


「潜入とはいえ、こんな格好しないといけないんだ。恥ずかしいったらありゃしない。ホントもう、あの性悪はやたらとボクにスカートを履かせたがるんだ。人の嫌がる所を見たいなんて、性格悪いよねぇ?」



 雑談をするように少女は言う。

 だが、ヴゥイエンは少女の言葉は右から左だった。

 少女にとって、それは余裕だろうが、ヴゥイエンにとっては彼の集中を乱すための作戦だ。

 注意深く観察する。

 隙を見て、全力で逃げられるように。

 


「あ〜あ、恥かいた。一週間も頭ふわふわの馬鹿を演じないといけなかったんだ。こんな指示出した奴もそうだけど、なかなか飛びつかない、この臆病者も同罪だよね?」 



 ヴゥイエンの表情が、固まる。

 少女は、なんの遠慮もなくカシルの亡骸を踏んだ。

 その頭を踏みつけ、カシルをあらん限りの侮蔑をもって蔑んでいる。

 変わらない、何も灯っていない目で。

 ゾッとするほど、恐ろしい目で。



「それに、君らってどういう関係なの? さっきこのクズに駆け寄ろうとしたけど、もしかしてアレ? 友達ごっこ? 馬鹿だねぇ。魔物は魔物で、人は人なのに。くだらない」


「…………」


「人の姿を模した魔族ならって思った? もしかしたらって期待した? でも残念。お前らの役割はそんなんじゃない。お前らは、人間と戦って、殺して、最後に死ぬのが全部なんだ」



 ヴゥイエンを、カシルを、二人のこれまでを無慈悲に否定する言葉だ。

 そして、これ以上なく二人を侮辱する言葉だ。

 これには、ヴゥイエンは顔を歪める。

 気付いていないが、集中が途切れた。



「おや、怒った()()かい? 別に、相手が死んだ後も続ける必要はないだろう?」


「……取り消せ」


「まあ、こんな雑な計画が本気で上手くいくと思ってた馬鹿なら仕方がないか。これで『魔王』をここに召喚したとして、あの性悪は何も困らないよ?」


「取り消せ!」



 ヴゥイエンの目は血走っている。

 声を荒らげ、今にも詰め寄らんばかりだ。

 確実に激怒している。

 目に付いたものは何でも全部壊すような怒気が、その目に宿っていた。

 けれども、



「何を取り消す必要がある? ただの事実だ」


「貴様!」


「お前らは生物として、そんな機能は備えていない」



 睨む。

 憎悪と、怒りしか感じられない()()()()()()

 視線はそれだけで殺せるほど鋭く、声色はドス黒いという表現が何よりも似合った。悔しさで強く握られた手からは、青い血が滴っている。

 だが、それだけだ。

 それ以上は、なかった。



「これだけ言われても、お前はボクと戦えない。お前は冷静に判断しているんだ。所詮、人間が一人死んだだけ、とな。取り消せ、なんて笑わせる。心の底では何とも思っていないくせに」



 何も言えなくなる。  

 ヴゥイエンは変わらずに少女を睨むが、どこか悲しそうに眉を下げていた。

 そして、怒りの態度が弱まったようにも見える。

 だが、黙るという事は、あの侮辱を否定しないという事だった。

 そら見たことか、と少女はヴゥイエンを見下ろす。

 身長で言えば少女の方がずっと低いのだが、それでもヴゥイエンは見下されたとしか思えなかったのだ。

 少女からの侮蔑の感情は分かっていたが、この時の侮蔑だけはどうにも堪えがたかった。錆びついた刃に抉るように心が痛み、その苦しみから逃れようとしたのだ。

 つまり、ヴゥイエンが少女の放つ見えない刃に怖気づいて、小さくなったのだった。



「…………」


「ほら、否定しない。お前は、お前らは所詮、その程度だったって事だよ」



 少女は薄く笑った。

 変えなかった気だるげな表情を歪め、滑稽な道化を遠くから眺めるように。

 少女からすれば、ただの気狂いが喚いていただけだ。

 ありもしない事をあると必死に主張し、否定されれば逆上するという滑稽な様を嘲笑った。

 少し詰めれば否定の言葉すら出ないなど、馬鹿らしいなんてものではない。滑稽も滑稽で、思わず毒気を抜かれるほどだ。

 

 

「偶に居るらしいよ。お前みたいな道化は」


「…………」


「は〜あ、バカらし。早く殺そう」



 少女は歩き出す。

 戦う気もなくした魔物など、さっさと殺すに限るから。

 早く服を着替えたい、とどうでもいい事を考えながら、歩いて行く。

 そこに敵への警戒など無い。あるのは作業をさっさとこなしてしまおうという、気だるげな義務感だけだ。

 メイスをずるずると引き摺り、無造作に、無慈悲に、ヴゥイエンの事を殺すために、ゆっくりと距離を詰めていった。

 

 それを、ヴゥイエンは見ているだけだ。

 少しでも少女が動いたならば、逃げようとしていたのに。そのための作戦を立て、秘密裏にいくつもの魔術を構築していたのに。

 やる気など微塵も感じない。

 意志はなく、殺気はなく、戦意もなかった。

 けれども、意地はほんの少しだけ、残っていた。



「お前たちが言うな……」


「あ?」


「お前たち、異端審問官が、それを言うな……神専属の、道化が……」



 少女は一瞬、虚を突かれたような顔をする。

 ズカズカと進んでいた歩みが、何をどうしてもヴゥイエンの実力では止められなかったであろう歩みが、言葉によって止まった。

 そうしてできた僅かな時間をもって、ヴゥイエンはさらに続けた。どこか苦しげに、絞り出すような声で。



「確かに、私に刻まれた本能はそう言っている。所詮、死んだのは他人で、人間だ。どうという事はないと。だが、私がこれまで培ってきた理性が怒りを訴えている! 貴様如きに、そんな下らぬ事を言われる筋合いはない!」



 だが、言葉を続ける毎に振り切れていったようだった。

 声色もそうだが、態度も、活力も、次第に溢れていく。

 呪いのような少女への恐怖があったはずなのに、それも時とともに外れていった。



「魔物の本能を持つ事も、私自身の理性を持つ事も、やましいことなど何もない! 人間の友を持つ事も、積み上げた私の価値観に従った結果だ! 本能など、関係ない!」



 ヴゥイエンは初めて構えた。

 これまでは本能に従い、強敵から逃げ、生き残る事ばかりを考えていたというのに。

 


「貴様ら、異端審問官とは違う……!」


「ふ、ふふふ……いいや、同じだ。お前もボクも、神とかいう性悪の手の平の上だ」



 構えた。

 これまでメイスは無造作にを引き摺るだけだったが、初めてヴゥイエンへ向ける。

 隙はない。

 どこから、誰が、どう襲いかかろうとも、完璧に対応できるように気を払っていた。 



「私は魔族。絶対にして唯一の王である『魔王』様の配下の一人。ヴゥイエンだ……!」


「神の下僕だ。異端審問官の、クララ・ランフェルス」



 チリチリと火花が散るようだった。

 凄まじい緊張が張り詰めている。

 ヴゥイエンにとっては。




「……殺す!」




 ヴゥイエンの最高速度の魔術だ。

 彼は歴戦の魔族であり、経験も鍛錬も積み続けた男である。

 一呼吸の間に同時に六の魔術を操る。威力も、大岩程度なら無造作に放った魔術一つで粉々だ。

 並みの傭兵や冒険者が束になって襲ってきても、傷一つ負わずに完封する事ができるだろう。

 だが、今回はその手数を捨てた。

 たった一つの魔術を、一瞬で発動させるために全神経をそそいだ。

 それは、ヴゥイエンが使える魔術の中で最も高位の魔術。

 第一階梯から第十階梯まである魔術の内、上から四番目の第七階梯の魔術である。


『獄炎』


 異界からあらゆる物を焼き尽くす、黒い炎を呼び出す魔術だ。

 最速で、最高の魔術。

 命の危機に直面したヴゥイエンは、過去最高のパフォーマンスで魔術を発動する事ができた。










 


「やっぱり、残念だったね」




 

 ヴゥイエンの真後ろで声がする。

 だが、彼が後ろを振り向く事はなかった。

 

 死んでいた


 自分が死んだ事にも気付けず、こと切れていた。

 腹は引き裂かれ、内臓と血を辺りに撒き散らしている。

 そしてその後ろには、メイスを振り抜いた少女、クララが居た。




「異端は殺したし、帰るか……」




 誰にも認知される事はなく、戦いは終わった。

 クララの呟きは、どこか呆れているかのようだった。

 

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― 新着の感想 ―
[良い点] なかなか良い感じにキチってるキャラが良いですね! [気になる点] ガコ、と乾いた音がした。  見れば、男は部屋に飾ってあった絵が外されている。  そして絵のあった場所には凹みができており、…
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