137、屍王の迷宮(14)
ある日突然、というべきだろうか?
どこかのタイミング、どこかの日から、ずっとラトルカは心がザワついていた。
何ともなかったというのに、いきなりである。
父親が旅立ってから数ヶ月といったところだ。気が付けば夜に眠れなくなり、父親の事が瞼に浮かぶ。気が付けば、何故か不安で胸が満たされた。
父親が居なくなったところで、そんな事は一度も思う事はなかったのに、しばらくしてから急に考えるようになった。
ラトルカは、実は一つの事に集中する、という経験は少ない。
彼女は一つに熱中などという非効率な事はしないのだ。同時に二つ三つは当たり前に、物事を処理する事が出来る。だから、一つの事しか考えないなど、まずあり得ない事だった。
常に父親について考えてきた時間。
過去の思い出に浸る事もあれば、帰ってきたらどんな言葉をかけるか、なんて事も考える。とにかく、これまで出来た事に手が付かなくなって、かつてないほどフワフワした時を過ごしただろう。
静かで、忙しくなくて、そして不穏な日々。
人の流れなど気にした事がなかったのに、家を出入りする人間の顔を見ていた。
けれども、ある日、決定的な報告がやって来る。
『■■■■■様が、亡くなられました』
愕然、呆然、呆然。
彼女は、彼女の祖父と共に絶望を感じた。
彼女らは、彼の力をよく知っていた。
その力を無比なるものだと信じていた。
天才と呼ばれた男の一人息子に恥ずかしくない力は持っていたのだ。彼女の祖父たるルーメンも、戦線の魔物如きに殺されるとは思っていなかった。
人並み外れた戦力を有していたのだ。
かつて発生した魔物たちの異常発生、まさしく天災と呼ぶべき事態。約二千五百という魔物をたった一人で鎮めてみせた、国の英雄と呼ぶべき男。
それが、戦線に旅立って一年経たずに。
『…………』
心にポッカリ穴が空く。
何も手が付かず、ショックで動く事が出来ない。
空虚な日々をただ過ごし、驚くほど退廃的な時間を過ごしてきた。
何度も何度も思考を巡らせて、その度に出口は見えずに振り出しに戻る。鏡張りの迷宮の中で取り残されたように、自然と自分の姿と、現状を眺め続けた。
無為な時間を過ごす己を軽蔑し、嫌悪し、それでも彼女は動けない。電池が切れた機械のように、まともな動作を期待する事は出来なかった。
『…………』
当時、ラトルカは僅か九歳。
十年も生きていない少女だった。
父が死に、祖父と二人きりになった彼女は、人並みに落ち込んでいたのだ。
『…………』
だが、そんな『普通』も続かなかった。
続ける事を、他が許さなかった。
あまりに醜いやり方が、ラトルカを襲った。
「…………」
国の情報というものは、案外簡単に入ってくる。
新聞を読めば情勢やらが分かる。街に繰り出せば世論の一部くらいは分かる。祖父に聞けば、もっと込み入った事情も分かるだろう。
不幸な事に、彼女は知る事が出来た。
存外、環境に恵まれていたのである。
ラトルカは、父について知りたかったのだ。
国の英雄として戦線に送り出された事もあって、彼はかなりの数の人命を救い上げた。だから、感謝されてきただろうし、敬われ、崇められたと考えていた。
娘の立場から見て、父は、父の功績はそうされるべきものだと信じていた。
賢しいラトルカは、人よりも頭を働かせる事が出来たのだ。歳を考えれば異常すぎるくらいに、彼女は考える事に長けていただろう。
だが、幼いラトルカは、人の心を知らない。
こうあるはずだと信じていたから、それ以外の結果など想定していなかった。
それに、願望もあったのだろう。
他の誰かが父の死を悼む所を見て、密かに心の中で共有していたかった。自分の父が知らない誰かに悲しまれる立派な人だと確認したかった。せめてその死後だけは、侵される事のない穏やかなものであって欲しかった。
ただ、それだけの願いだった。
しかし、
『■■■■■様が亡くなられたか……』
『残念だ……』『この国の宝が』
『信じられない』『まさか、そんな』
『惜しい人を亡くしたな』
『その魂が、無事に主の元に運ばれますように』
しかし、
『だが、これほどの戦果を残すとは』
『■■■■■様は、やっぱり凄いなあ』
『他の誰にこんな事が出来るだろう?』
『凄い』『雲の上の人だった』『憧れる』
『ああ、まったく、誇らしい』
しかし、だ。
『■■■■■様を讃えよ!』
『素晴らしい、素晴らしい!』
『あの方は我らの誇りである!』『あの方は我らの反抗の象徴である!』
『あの方の武勇は、世界に轟くだろう!』
『声をあげよ!』『謳い上げよ!』
『死してこそ、さらに輝く!』
『嗚呼、死んでよかった!!』
概ね、ラトルカが聞いた声はこんなものだ。
期待していた悲しみは、微かなもの。
彼らは、他人の父親が死んで喜んでいた。
■■■■■が英雄として死んだ事を、心の底から嬉しく思っていた。自国の人間が華々しく命を落としたという事実は、世間の人間からすれば吉報らしい。
いや、本来ならば悲報なのだが、それを吉報に仕立て上げる人間が居たのだろう。
死よりも、その前に積み上げた戦果に注目するように誘導された。多少は悲しみを覚えただろうが、所詮は知らない有名なだけの誰かが死んだというだけのことだ。
娯楽として消費した方が、国も民も都合が良い。
「気持ち悪いなあ」
ラトルカの心からの感想だ。
こんな歪みを、彼女は子どもながらに軽蔑する。
どこもかしこも、そんな意見ばかりだった。
彼女の望むような展開になどなるはずとなく、ついぞ彼女が悲しみに出会うことはなかった。
人が死んだというのに、喜ぶ世間を蔑んだ。
そして、最後に自分を吐くほど軽蔑した。
「気持ち悪い、なあ……」
本当に何故なのか、分からない。
けれども、彼女は嫌悪した。
こんな自分が嫌なのだと、耐えられなくなった。
余計に何も出来なくなった。
目が回って、何がなんだか分からなくなって、気が付けば自宅のベッドの上で泣いていた。
声を殺して、唇から血が流れるまで噛み締めた。
何がいけなかったのか分からない。
理屈も、理由も、意図も意義も分かるのに、それを受け入れられない己の心だけが理解出来ない。
こんな時に、慰めてくれる誰かが居れば、本当にどれだけ良かったことか。
家族は既に祖父しか居らず、気心の知れた友人はゼロ。こんな事を話せる人間など、その祖父しか居ない。しかし、今その時は祖父すら居なかったのだ。
何故なら、
『すまないな、ラトルカ。じぃはちょっと行かねばならん場所がある』
どこへ行くかを尋ねても教えてくれない。
ただ、優しく微笑んで誤魔化すだけだ。
なんて冷たい人なのか。
なんて薄情な人なのか。
ラトルカは、嫌味を言った。
敬愛する、何も悪くない祖父に対して、小さな悪意をぶつけてしまった。
彼女がするには、あまりにも感情的だ。
知識を蓄え、大人振ろうとしていた少女が、失態と言っても過言ではない行為。理不尽に対して、別の場所に理不尽を返すという愚を犯した。
ただ、ずっと側に居てほしかった。
隣だけは居てほしかった。
けれども、
『すまんの』
その時は、すぐに祖父から離れた。
それは自分の行動を顧みて、己を恥じたから。
こうしてはいけないと、すぐに悟った。自分を恥じて、すぐに止めたのだ。無様を晒す事だけは、流石にあってはならないと分別はついていた。
冷静な部分が、激情を呑み込んだ。
だから、とても正しい判断が出来た。
『すまんのぅ』
聞いたことがないくらい、底冷えしていた。
思い出しただけでも震えるくらいに、その時のルーメンは殺気立っていたのだ。
思わず『殺される』と感じるくらいに。
その時のゾッとするような感覚だけは、ラトルカは忘れたくても忘れる事が出来ない。
ただ一度だけ、ラトルカは祖父を怖いと心から本気で思ったのだ。
『少し、待っていてくれ。ワシがきっと……』
ルーメンは、すぐに帰ってきた。
すぐに帰ってきて、何かを研究する。
ラトルカの教育も続けていたが、それと同じくらいに、いつ寝ているのか疑問なくらいに、ずっとずっとずっとずっと研究を続けていた。
ラトルカもそんな彼には触れられず、半ば黙認する形で『普通』の生活を送る。何年も、ルーメンの鬼気迫る姿に気圧されて、何も触れる事が出来ずにいた。
何をしていたのか、彼女が知る由もない。
ラトルカは当時の事情は何一つ分からずら既にルーメンは物言わぬ屍となった。
師の背中を追い続ける、五年の時間。
しばらく、具体的にはあと二、三年すれば、この生活が終わる事は知っている。
ルーメンはどんな事をしているか、どんな研究を行っているかは、本当に分からない。どうでもいいと切り捨てて、そんな事実を忘れるしかなかったのかもしれない。
それだけ、触れるのが恐ろしかった。
とんでもない事になってしまうのではないか、という漠然とした予感だけが、彼女を師から遠ざける。
「…………」
だから、その後に後悔が残った。
まともに共にする事のなかった五年。
たった一人の家族を相手に、一体どうしてあんなに冷たくなれたのだろうか?
まだまだ話し合える事はあったし、一緒に出来る事もあったはずだ。なのに、自分は一体何をしていたのだろうか、と自問自答していた。
積もるものは後悔ばかりで、思い出すだけで胸が苦しくなっていく。
それに、今度は昔とは違うのだ。
家族を殺されて、何も出来なかった無力で憐れな子どもではない。
真相を知るための行動力と、実力がある。
そして、歪みに抵抗する義務がある。
『歪みを、』
祖父の死を知らされ、その屍を目の当たりにした時、真っ先に所属する国に釘を刺した。この事を適当に広めるつもりなら、自分はこの国を滅ぼしてやる、と。
国の上層部の人間程度、ラトルカの力があればいくらでも殺す事が出来る。
彼らにはそれぞれ、実力者の護衛が居たのだろうが、そんな事は関係ない。国王の護衛たちをまとめて半殺しにした所を見せれば、彼らは顔を真っ青にしてラトルカの要求に頷いた。
『歪みを、直さなきゃ』
勇者一行に入る事は確定事項だ。
だから、それまでに力を高めなければならない。
祖父の蔵書を漁り、研究のほぼ全てを解き明かし、多くの魔術を自力で身に付けた。
勇者一行の裏には教会の影がある。
まだ見ぬ彼らを利用し、祖父を消した者たちに報いを受けさせてやろうと心に決めた。
『私は、もう……』
あるべき形へ、より美しい方へ。
謀略や誅殺の何が良いというのか?
こんな腐った在り方が許されていいはずがない。
この世界を変えなければならない。
その手始めが、教会だ。
『失いたく、ない……なにも……』
臆病なラトルカは、大義で己の心を塗り潰さなければ、自分で自分の目的を保てない。
知りたかっただけかもしれない、そっとしておいて欲しかっただけかもしれない、ただひたすら人を遠ざけたかっただけなのかもしれない。
虚飾に塗れた臆病者の少女には、もう己の心根すらも分からないだろうが。
『苦しい……』
屍王への返答など、あるはずがない。
自分の事を見失った彼女には、そんな質問に答えられる訳がない。
導いて欲しいのはラトルカの方だ。
助けて欲しいのは、ラトルカの方だ。
迷って道を見失ったのは、屍王だけではない。
★とブクマをください。




