025 帰還
カイルの容態は瀕死の重傷だった。
どう考えても助かる見込みがないことをカイル自身悟っていた。
「しっかりして!」
「……大丈夫だ。エフリール、早く先へ行け……俺のことなんか構わずに」
「ダメだよ! 治さなくちゃ……何か、何か方法はないの?」
エフリールは必死に治療を試みようとする。
今さら傷口を縛り、また魔術で回復を施せないか何度も試している。
だがエフリールの魔術の方向性はあくまで自身の変性であり、また鍵として影響を及ぼせるのは悪夢に対してである。
他者の生き死にまで左右するのは不可能だった。
「死んじゃダメだよ……お願いだよ、いなくならないで」
「泣くなよ……」
「泣いてないっ!」
言いながらもエフリールの両目からは涙がこぼれている。
なんだ、ちゃんと泣けるんじゃないか。
カイルは安心した。
初めに会った時、エフリールの表情はまるで仮面のように貼りついたものに感じられた。
それは記憶がないこともそうだが、根底に抱えた歪みが本来あるはずの心を覆い隠そうとしているように映った。
悪夢の中心に近づき異形を倒すことで少しずつ感情を取り戻している。
それはきっと希望のある変化に違いない。
「僕が、僕が『一緒に行こう』って言ったのが悪いんだ。そうじゃなかったらカイルは」
「……お前のせいじゃない」
カイルは泣きじゃくるエフリールの顔にそっと自身の帽子を被せた。
隠れた顔からも涙はとめどなく溢れている。
大げさだな、とカイルは苦笑した。
「エフリール、これを……」
カイルは懐から琥珀色の平たい帽子を取り出した。
自身の血によって汚れてしまっているが、幸いぼろ切れにはなっていなかった。
「これは……?」
「弟の……外に、出……墓……」
声が出ない。視界が暗く閉じていく。
「分かった、届けるよ! 必ず届ける、だから……だから、ねえ!」
聞こえなくなる前にその返事だけが伝わった。
カイルは、良かった、と思った。
心残りを託せたからではない。
先のことなど考えていなかった自分に、誰かを助けるという役目が最後に果たせたからだ。
もう一度目を開けたらエフリールはまだ泣いているのだろう。
自分一人の死にそこまで悲しむ必要はない。
この先もまだ悪夢は続くのだ。それを思えばたかだか一人の犠牲に嘆き立ち止まっている暇はない。
負けるなよ。
声にならない声でそっと勇気づけるように言った。
◆◆◆◆◆◆◆◆
エフリールの目の前でカイルの体から力が抜ける。熱が失われていく。
「あああああ……」
受け取ったハンチング帽を握り締めながら、被された帽子の下で声を漏らす。
痛みが走る。苦しさに悶える。
ついさっきまで、そんなことは大して感じなかったはずなのに。
心が苦しくてたまらない。内側から溢れ出るやり場のない感情に自分自身が押し潰されそうだった。
「嫌だ……嫌だよ……」
失われていく命を見て、死んでいくカイルの姿を目の当たりにして、エフリールは記憶の中から猛烈に飛び出しそうになる何かがあるのを感じた。
また誰かがいなくなる。
思い出してはいけないものを呼び覚ましそうになる。
余計なことは考えるな。
誰かの言葉が一瞬自身を堰き止める。
だがそれだけでは終わらない。言葉は呪いに変じ、エフリールを蝕む。
痛みを感じるなら失くしてしまえばいい。
人と同じように考える心など無くしてしまえばいい。
全ての終着の果てに降り立つ人ならざる身ならば、飽くなき獣性と弱く脆い人間性を超克する身ならば、心など必要ない。
「あ、ぐ、あっ、あああああっ!」
衝動が駆け抜ける。
痛みから逃れようとするエフリールと、頂へ促進しようとする何者かの思惑が合致し、自身を変成していく。
苦し紛れに仰いだ曇天が恐ろしい勢いで加速し、渦を巻いている。
水路周辺の空間が再び張りつめたように膨れ上がっていく。
エフリールに影響されるように、辺りにも変貌が及んでいた。
心を掻き消せ。
激しい苦痛に、思わず誘惑に手をかけようとし。
――風が、頬をなでる。
エフリールは咄嗟に我を取り戻した。
渦を巻いていた曇天も、湖に回帰しようとしていた水路も、全て動きを止めた。
喘ぎながら、倒れ伏したままのカイルへ視線を戻す。
カイルは穏やかに目を閉じている。
自分と同行したせいで死に陥ったというのに、そんな恨み言はまるで感じさせない寝顔だった。
この痛みを消すことは出来ない。無かったことにしてはならない。
「泣くな……泣くなよ……!」
自身を叱咤するように呟きながら、エフリールは被されていたカイルの帽子を上げ、涙に濡れた顔を腕で拭う。
改めて行く先へ目を向ける。
城塞はエフリールが来るのを今か今かと待ち受けて生き物の如く蠢動している。
あの中へ行けば街の最奥、つまりは悪夢の終焉まで辿り着くだろう。
本来なら今すぐにでも乗り込むべきだった。
だがまだ行けない。
カイルをこのままここに置いていけない。
エフリールは受け取った方の帽子をしまい込み、今一度カイルを起こして肩で支えると来た道を振り返った。
水路の端々と霧の迷路から異形が姿を現してくる。
悪夢の中で死した人間の亡骸とその魂を狙い続々と集結している。
エフリールは、またぞろ怒りに似た感情が湧き上がってくるのを感じた。
「どけよ」
異形たちに言い聞かせるように低く声を響き渡らせた。
ほんのわずかたじろぐような姿勢になる者もいたが、ほとんどはなおもカイルを見定めて襲い掛かろうとしてくる。
「邪魔をするな!」
異形たちの動きが固まる。戻る方向に充満してい霧さえも畏怖するように退散した。
獣性しか残っていないはずの異形がまるで命令に従うように後退り道を譲った。
その奇妙さを気にすることもなく、エフリールはカイルと共に屋敷へ向け引き返していった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
予感はあった。
次第に朽ちていくだけの屋敷を、意味がないと分かっていても習慣づいた動きで手入れしていたグレースは、その日やけにベロニカの花がざわめいているのを感じ取った。
街の方にも変化があった。生き物の如く全体がどくん、と大きく脈動し、曇天しか広がらないはずの空が凄まじい勢いで雲を動かして渦を描く。
主の身に何かが起きた。
分かっていてもグレースにはどうしようもなかった。
エフリールたちの安否を気遣い必死に祈り続ける。
そしてまたしばらく経った頃――憔悴し切った様子で主人が、カイルを連れて戻ってきた。
どちらもぼろぼろの状態だった。
エフリールに傷自体は残っていないが、目に見えて落ち込んでいる。
頭には何故かカイルのテンガロンハットを被っていた。
グレースは急いで駆け寄ると同時に少なくとも一つ、何があったのかを、カイルを見て悟った。
エフリールは何も言わなかった。
グレースもまたそのことを深くは尋ねず、カイルを運ぶのを手伝う。
「どうぞこちらへ。彼を休ませたら、エフリール様もお休みくださいませ」
屋敷へ案内する。
エフリールは、ゆっくりと小さく頷いた。




