過去 自由なキャンバス
風が穏やかに吹いていた。
緑輝く屋敷の庭、広大な裾野が遠くに見えている。
幼いエフリールは椅子に座り、目の前に用意された白いキャンバスをただぼんやりと眺めていた。
「どうされたのです、坊ちゃん。好きに描いていいのですよ?」
壮齢の執事が柔和に微笑む。
彼の温かく大きな手がそっと背中に添えられるのを感じながら、エフリールは思ったままのことを口にした。
「絵を描くってどうすればいいの?」
何を描く、という話ではない。
そもそも絵筆を握ることすらエフリールには思いつかない。
まるで知らないからだ。
執事は少し困った顔をして、順番に、根気よく描き方を教えていく。
かつて執事は画家を目指していた時期があった。
もっとも芽は出ず、志半ばで筆を折った。
絵の描き方を知っているのはその名残だ。
執事に導かれるまま、エフリールは拙い筆致でキャンバスに色を重ねていく。
父に不必要なことを教えられなかった幼子は、この行為をとても楽しんだ。
「……旦那様にもお考えあってのことでしょうが、せめてひとつくらいは、何か学ばせて差し上げなければ」
それからエフリールは、事あるごとに執事を連れ、、屋敷の様々な場所を絵に描いた。
所詮、精緻な筆使いも出来ない子供の落書きに過ぎなかったが、執事はその絵を莞爾と笑んで誉めそやした。
エフリールもまた、執事が喜ぶのを嬉しがった。
そして父にも絵を見せに行った。
数日後、執事は屋敷のどこにも姿を現さなくなった。
父に聞いても、彼は仕事を辞めたと言うだけだった。
そして渡した絵も、それまでに描いた絵も全て破り捨てられ、画材も廃棄された。
「お前は私の言うこと以外、何も覚える必要はない」
執事の失踪が何を意味しているのか、エフリールが知るのは、ずっと後になってからだ。




