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嵐の予感!頑張れナブリオ!

この作品は史実を基にしたフィクションです。

できる限り当時の情報を調べて執筆していますが、時代考証にミスがあった場合はご容赦ください。

私はナポレオン時代が大好きで、特に長谷川哲也先生のナポレオンシリーズがお気に入りです。

殺伐とした日々の中でこのような出来事があったらいいなと思い、執筆しました。実在の人物とは思えないほどナポレオンの周囲には個性豊かな人々が勢ぞろいしていますが、私はベルナドット将軍がお気に入りなので、今回は彼の息子をメインキャラにしました。

二歳児が繰り広げるお留守番の日々をどうぞお楽しみください。

 1801年、パリ。

 フランス共和国の頂点である「第一執政」の座に就いたナポレオン・ボナパルトの日常は、おびただしい数の書類と、常にどこかで起きている陰謀の処理で埋め尽くされていた。

 その日もチュイルリー宮殿の執務室で、彼は世界地図を睨みつけながら、いかにしてヨーロッパを我が手中に収めるかという壮大な軍事作戦に脳をフル回転させていた。

「失礼します、第一執政。……その、緊急の来客でございます。」

 秘書官が、なぜか戦々恐々とした面持ちで報告に現れた。ナポレオンは眉をひそめる。

「イギリスの密偵か? それとも王党派の暗殺者か?」

「いえ……レティツィア様です。」

「……母さんが!?」

 ナポレオンは思わず立ち上がった。

 厳格で現実主義者の実母レティツィアが、わざわざ息子の職場にアポなしでやってくるなど、天変地異の前触れに違いない。ナポレオンは慌てて書類を机の引き出しに押し込み、隣の応接間へと急いだ。

 そこには、相変わらずコルシカの肝っ玉母ちゃんとしての威厳を放つレティツィアが、優雅にソファーに腰掛けていた。


「母さん、どうしたんだい? こんなところまで来るなんて珍しいじゃないか。何か不吉な予感でも……」

 ナポレオンが恐る恐る尋ねると、レティツィアは事も無げに言った。

「ジョゼフから聞いたんだけどね。ベルナドットご夫妻がお仕事で、二ヶ月ほどマインツ県に行くそうじゃない。」

「そうだよ。マインツ県からの要請でベルナドットが行くことになったんだ。」

 天敵であるジャン=バティスト・ベルナドットの顔を思い浮かべ、ナポレオンの口元がわずかに歪む。

「それでね、あのご一家、使用人もみんな連れて行くらしいのよ。だから、息子のオスカルちゃんをマルセイユのデジレさんのご実家に預ける予定だったの。だけど、ご実家のお兄さん夫婦は仕事で多忙でしょう。そうなるとご高齢のお祖母様一人でオスカルちゃんをつきっきりでお世話しなくちゃならないのよ。」

 ナポレオンの背筋に、冷たい汗が伝わった。戦場での直感が、彼に最大級の警戒信号を鳴り響かせる。

「まっ……まさか母さん……。そのオスカルを、うちで預かるっていうんじゃ……」

「あら、もうわかったの! 流石ねえ、私のナブリオ。」

 レティツィアはポンと手を叩いた。

「お祖母様お1人だと、体調を崩したり、万が一にでも賊に襲われたりしたら大変でしょう? だから私、『ボナパルト家が責任を持って預かるわ。安心して行ってらっしゃい!』って言っておいたから。」

 ナポレオンの脳内で、何かが音を立てて弾け飛んだ。アルコレ橋の戦いも、エジプト遠征も、これに比べればただのお遊びだった。

「なんで勝手に決めちゃうのおおおお~~!!」

 数々の激戦をくぐり抜けてきたフランス軍最高司令官の口から、およそ三十一歳の成人男性とは思えない、奇妙な絶叫が飛び出した。ショックのあまり、彼の精神年齢は一瞬にして十歳ほど巻き戻り、ただの「駄々をこねるナブリオ君」と化していた。

「やだ! やだやだ! なんでベルナドットの子供を僕んちでみなくちゃいけないのさ! あいつ、いつも僕の悪口言ってるんだぞ! 意地悪なんだぞ! ぼく、ぜったい、いやだーーー!!」

 床をジタバタと踏み鳴らしそうな勢いで抗議する第一執政。しかし、オカンの壁はアルプス山脈よりも高かった。

 レティツィアは、息子の十歳児並みの抗議を完全にスルーし、今から楽しみで仕方がないといった様子でウキウキと目を輝かせた。

「大丈夫よ。ご家族にはね、『いつでも遠慮なくチュイルリー宮殿に遊びにいらしてください』って言ってあるから何の心配もいらないわ!」

「いや、そういうことじゃなくてぇ! オスカルはボナパルト家の一族じゃないんだよ!? なんでうちが面倒みなきゃいけないのさあ!」

 ナブリオは涙目で必死に食い下がる。

「ジョゼフの友人の息子さんなんだから、いいじゃないの。細かいことを気にしちゃダメよ、ナブリオ。」

 レティツィアは立ち上がり、ドレスの裾をパタパタとはためかせながら、楽しそうに歩き出した。

「さあて、オスカルちゃんは私が責任を持って連れてくるからね。ナブリオは、大広間のどこかに楽しく遊べる場所を作っておいてちょうだい。おもちゃもたくさん用意するのよ。じゃあね!」

 嵐のようなウキウキ感を残し、レティツィアは鼻歌混じりで帰っていった。残されたのは、執務室の真ん中で魂が抜けかけた、哀れな第一執政だけであった。

 ナポレオンが机にしがみつきながら、ようやく精神年齢を三十一歳に戻した頃、彼は冷静に状況を分析し始めた。

(……ベルナドットめ)

 ジャン=バティスト・ベルナドット。ナポレオンとは事あるごとに衝突する、文字通りの犬猿の仲だ。しかしタチの悪いことに、彼はナポレオンの実兄ジョゼフとは大の仲良しだった。その縁で、ベルナドット一家は母レティツィアとも家族同然の付き合いをしており、オスカルが生まれた時、レティツィアは「私の初孫よ!」と言わんばかりに大喜びしていたのだ。

「オスカルは……たしかまだ二歳だったな。」

 ナポレオンは頭を抱えた。二歳児。それは、国家の法律(ナポレオン法典)も、大砲の脅し(軍事力)も一切通じない、地上最強にして最凶のプレデターである。

「料理にも気をつけないと……喉に詰まらせたら大変だ。……そうだ、ジョゼフィーヌ! 彼女に協力してもらおう。」

 恐る恐る妻のジョゼフィーヌにこの件を相談すると、意外なことに彼女は「あら、可愛いじゃない。私、大歓迎よ!」と快諾してくれた。彼女自身、すでに二人の子供を育て上げたベテランの母親である。

「よかった……。ジョゼフィーヌがいてくれれば、なんとかなるか。」

 ナポレオンは胸をなでおろした。彼女の母性があれば、二歳のオスカルもすぐに懐くだろう。フランスの未来は、まだ絶望に染まってはいないはずだ。


 ――数日後。

 その日、フランスの最高権力者は、国家の全貌を揺るがしかねない重大な決断を下した。

 ――仕事を休んだのである。

「いいかい、ジョゼフィーヌ。今日、我が家に来るのは、ただの子供ではない。ベルナドットの血を引く、いわば仮想敵国の尖兵のようなものだ。油断は禁物だよ。」

 ナポレオンは邸宅の玄関ホールで、どこか大げさに身構えていた。隣に立つ妻のジョゼフィーヌは、「はいはい、そうね」と上品に微笑みながら、夫の肩の力を抜くようにパタパタと扇子を動かしている。

 やがて、カンカンと小気味よい音を立てて馬車が到着した。

 扉が開き、ウキウキ顔のレティツィアに抱っこされて小さな男の子が降りてくる。

「あら、いらっしゃい、オスカルちゃん。」

 ジョゼフィーヌが優しく声をかけると、オスカルはトコトコと歩き、くりっとした大きな丸い目でナポレオンをじっと見つめた。しかし、よく見るとその目は少し腫れており、うっすらと赤くなっている。

「母さん、オスカルの目が赤いようだけど……。道中、何かあったのかい?」

 ナポレオンが眉をひそめると、レティツィアが困ったように、けれど愛おしそうに笑った。

「ベルナドットご夫妻の出発をね、みんなで一緒に見送ったのよ。そうしたら、馬車が動き出した途端に、この子が『パパ!ママ!』って大泣きしちゃってねえ。家に着く直前で、やっと泣き止んでくれたのよ。」

「……そうか。」

 ナポレオンは、胸の奥が少しチクリとした。いくら天敵ベルナドットの息子とはいえ、二歳の子供にとって、両親と離れることがどれほど寂しいことか。フランス軍を率いる英雄も、これには同情せざるを得なかった。

 一同に連れられ、オスカルが大広間に足を踏み入れた。そして、その大きな瞳をこれ以上ないほど見開いて、キョロキョロと周囲を見回し始めたのだ。

「う、あ……?」

 オスカルの口が、ぽかんと開く。そこは、まさしく別世界だった。

 一般の家庭よりも遥かに広く、高い天井を見上げれば、まばゆいばかりの巨大なクリスタルのシャンデリアが輝き、壁には金箔で彩られた歴史ある豪華絢爛な装飾がこれでもかと施されているだけでなく、歴代の王たちが集めた最高級の絵画や、職人が命を削って作ったような豪奢な調度品が、どこまでも続く広い空間を埋め尽くしていた。

 オスカルが普段暮らしているベルナドット邸は、パリ郊外にあるプレヴォテ城である。十四世紀に要塞として作られたが改修され、今はベルナドットの質素堅実な性格を反映した小さめだが上品な城だ。家の中はシンプルで実用的な調度品ばかり。オスカルが日常的に目にするのは、温かみのある木の色、つまり明るい茶系がほとんどだった。無駄な装飾など一切ない環境で育ったオスカルにとって、歴史あるチュイルリー宮殿は刺激的すぎた。

(……えほん?)

 オスカルの脳内で、ひとつの誤解が生まれた。

 パパやママに読んでもらっていた、おとぎ話の絵本。自分は今、その絵本のページの中にすっぽりと入り込んでしまったのだ、と。

 オスカルは驚きと興奮で胸を膨らませ、黄金に輝く迷宮を、おっかなびっくりトトト……と歩き回った。

「さあ、オスカルちゃん。あなたのお部屋はここよ。」

 ナポレオンが事前に指示し、大広間の一角に作らせた特設プレイスペース。そこには、ベルナドット邸からあらかじめ運んでおいた、オスカルが愛用している木馬や、使い古された絵本、おもちゃの兵隊たちが綺麗に並べられていた。

「あっ……!」

 見慣れた茶色いおもちゃと絵本を見つけた瞬間、さっきまで不安げだったオスカルの顔に、ぱぁっとひまわりが咲いたような笑顔が広がった。

「うあー!」

 短い足を一生懸命に動かして、おもちゃの元へと駆け寄るオスカル。

「きゅー! ぶーぶー!」

 おもちゃを抱きしめ、お気に入りの絵本のページを開くオスカルの無邪気な後ろ姿を見て、ナポレオンもジョゼフィーヌも、張り詰めていた空気がふっと緩むのを感じた。


 それから、二週間が瞬く間に過ぎ去った。

 ナポレオンは、何とかしてこの小さな同居人と仲良くなろうと、政務の合間に「やあ、オスカル、調子はどうだい?」と、彼なりの最高に優しい微笑み(部下が見たら恐怖で震え上がるレベルの笑顔)で近づいてみた。

 しかし、結果は惨敗。オスカルは、ナポレオンが近づくと、サッと身を翻してレティツィアのドレスの裾に隠れてしまう。ジョゼフィーヌが「お菓子をあげるわよ?」と誘っても、やはりレティツィアの背後から警戒の視線を送るだけだった。

 オスカルは一歩も、レティツィアの側を離れようとしなかったのだ。

「あらあら、やっぱり私じゃなきゃダメねえ。オスカル、ご飯にしようねえ。コルシカ仕込みの美味いスープを仕込んであるんだ。」

「あーうー、もぐもぐ!」

 レティツィアはこれ以上ないほど満足そうに、毎日を最高に楽しんでいた。

 朝の着替えから、細かな好みに合わせた食事の世話、そして夜、ベッドに入って小さな頭を撫でながらの子守唄まで、すべての育児をレティツィアが一人で完璧にこなした。オスカルもレティツィアにすっかり懐き、常にキャッキャと喜んでいる。

 そして、この状況に、誰よりも胸をなでおろしていたのはジョゼフィーヌだった。

(本当によかったわ……!)

 実は彼女、貴族社会の人間として、自分の子供たちの育児はすべて乳母に任せきりだったのだ。オムツの替え方も、二歳児を寝かしつける特別なテクニックも、何一つ知らなかった。もし「あなたが面倒を見てね」と言われていたら、フランス宮廷一のファッショニスタである彼女のプライドは初日で崩壊していただろう。

「お義母様、本当に頭が下がりますわ。オスカルちゃんも、お義母様が世界で一番大好きなのね。」

 ジョゼフィーヌの世辞に、レティツィアは「当然よ!」と言わんばかりに胸を張るのだった。

「ナポレオン。お義母さまがそれほど張り切ってくださるなら、私は安心して任せきりにできるわ。ねえ、これから最新の帽子を選びにサロンへ行ってきてもよろしくて?」

「お前というやつは……!」

 こうして、宮殿内には奇妙な勢力図が出来上がった。育児の全権を握る最高権力者レティツィアと、完全に任せきって優雅に過ごすジョゼフィーヌ、そして自分の家なのに蚊帳の外に置かれたツッコミ役のナポレオンであった。


(続く)

オスカルちゃんのおうち、プレヴォテ城は今でもフランス、サヴィニー=ルー=タンプル市に実在しています。何度か改修工事され、現在も一般公開されています。

「ジャン=バティスト・ベルナドットの間」というお部屋もあるそうですよ!

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