第二節 閉ざされた楽園 ―執念の家族会議―
或る夕暮れ時、私は久しぶりにその屋敷の前を通りかかった。黄昏――「誰そ彼」と問いたくなるような、境界の曖昧な時間である。ふと前方に、一人の少年の背中が見えた。少し猫背で、地に足の着かぬような独特の歩き方。……佐々木君であった。彼は迷いのない足取りで、荒れ果てた死の家へと近づき、懐かしい鍵を取り出す仕草をした。
「ただいま」
はっきりと、その声が聞こえた。少年の透明な声。すると、厚い雨戸の向こう側から、この世のものとは思えぬほど優しげな女性の声が、慈しみを持って応えたのである。
「お帰り」
バタン、と。
朽ち果てたはずの木製のドアが、重厚な響きを立てて閉まった。私は、足の先から氷付くような戦慄を覚えた。目の前の家は、どこをどう見ても人が住める状態ではない。電気は止まり、水は枯れ、鼠と蜘蛛の巣が支配する空間であるはずだ。それなのに、今のやり取りは、あまりに自然で、あまりに温かな「家族の日常」そのものであった。生者が立ち入る隙など微塵もない、完成された地獄の幸福がそこにはあった。
数年後、帰省の折に再会した旧友は、酒の席でポツリと、その屋敷の続報を漏らした。
「ねえ、あの空き家の噂、知ってる? 深夜に通ると、中から楽しそうな笑い声が聞こえるんだって。お父さんとお母さんと、佐々木君の三人で、夕食の卓を囲んでいるような賑やかな声。隙間からは、決して灯るはずのない、黄金色の明かりが漏れていると」
私は翌日、導かれるようにその家の様子を見に行った。紫色の空の下、その廃墟は周囲の風景を拒絶するように立っていた。連れていた飼い犬が、突如として毛を逆立て、狂ったように家に向かって吠え始めた。それは未知の害獣に対するものではなく、何か「絶対的な恐怖」から主人を遠ざけようとする、必死の警告であった。
その時、私は肌で感じたのだ。閉ざされた雨戸の、わずかな隙間の向こう側から。凄まじいまでの、無数の「視線」の束が、私を射抜いているのを。
それは悲しみでもなければ、怒りでもない。 ――「見るな。邪魔をするな。我々は、ようやく手に入れたのだ」 外部の人間を一切拒絶し、自分たちだけの閉じた幸福、自分たちだけの密室の楽園を守り抜こうとする、異様なまでの執念の塊であった。
あの一家は、肉体という不自由な枷を脱ぎ捨てて初めて、誰にも、死にさえも邪魔されない「理想の家庭」を、あの廃墟の中に築き上げたのかもしれない。壁の向こうでは、永遠に冷めることのない夕食が供され、永遠に終わることのない談笑が続いているのだ。
私は、逃げるようにその坂を駆け下りた。今でも、その坂道を通る勇気は私にはない。
もし、あの雨戸の隙間から中を覗き見てしまったら。「お帰りなさい、貴方も入りなさい」という、あの恐ろしくも優しい声に、永遠に絡め取られてしまうような気がしてならないからだ。
人生は地獄よりも地獄的である――芥川はかつてそう書いたが、あの廃墟の家族にとっては、死こそが唯一の、至福の天国であったのだろう。私は今でも、風の止まった凪の午後、あの空き家の静寂を思い出すたびに、指先が凍えるような感覚に襲われるのである。




