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龍之介の怪談  作者: 橋平 礼
『漆黒の荷(しっこくのに)』

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第一章:夜半(よわ)の追走、あるいは漆黒の髪

挿絵(By みてみん)

 あれは、大正も終わりの頃の、ある酷暑の夏であった。


 当時、私は神田かんだ荷受問屋にうけどんや荷車にぐるまを操る御者ぎょしゃとして働いていた。その日は、急ぎの荷を信濃しなのの長野まで運ぶことになり、私は相棒の駄馬を連れて、東京を夜半に発ったのである。


 その年の夏と云うのは、例年にない猛暑で、夜になっても大気が熱をはらみ、まるで温い泥水の中を歩いているような心地がした。街の燈火ともしびが遠ざかり、山道へ差し掛かる頃には、辺りは墨を流したような闇に包まれ、聞こえるのは馬のひづめの音と、私の荒い呼吸ばかりであった。


 深夜零時を回った頃、私はようやく長野の国境くにざかいへ辿り着いた。


 眠気を払うために、私は手桶の水を飲み、風を通そうと荷台のおおいを少しばかりまくり上げた。その時、ふと、馬車に備え付けた手燭てしょくが、背後の荷台を不自然に照らし出したのである。


 私は何気なく、振り返った。


 荷台を覆っているはずの藍染あいぞめの布が、風に煽られてバタバタと波打っている。しかし、その色が妙であった。本来、月明かりの下では淡く青むはずの布が、そこでは光を一切吸い込み、底知れぬ「黒」に変色している。


(おや、布を掛け違えたか)


 そう思い、目を凝らした瞬間、私の心臓は肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がった。


 それは布ではなかった。


 それは――女の髪であった。


 おどろに乱れた、濡れたように光る無数の黒髪が、荷台から溢れ出し、蛇のようにのたうち回っているのである。そして、その髪の奔流の中から、全身を漆黒の衣に包んだ女が、音もなく這い出してきた。


 女は、重力を無視するように車体の横側に張り付き、四つんいの姿勢で、じりじりと、私の方へにじり寄ってくる。


 私は悲鳴を上げようとしたが、喉が引きれて声にならない。


 女の顔は、長い髪の隙間から、片眼だけが爛々(らんらん)と輝いていた。その眼は、慈悲など微塵みじんも感じさせぬ、飢えた獣のそれであった。  女が、ひらりと手を伸ばした。


 冷たい。あまりに冷たい。氷というよりは、死者の骨を直接押し当てられたような感覚が、私の右手首を貫いた。


 女の指が、私の腕に深く食い込む。


「うわああッ!」


 私は夢中で手綱たづなを引き、馬を急停止させた。馬がいななき、前足を高く上げた衝撃で、私はその冷たい手をどうにか振り払ったのである。


 辺りは再び、静寂に包まれた。


 私は震える手で提灯を掲げ、荷台の隅から路傍ろぼうの茂みまで、狂ったように探し回った。しかし、あの真っ黒な女の姿は、影も形も消え失せていた。ただ、夜の風が、嘲笑あざわらうように私の頬をなでるばかりであった。


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