22 出迎え
リュスが自ら囮となり、大型の魔物の脅威を退けた日。
彼が城に戻ってきたのは、空が白ばみ始めた頃だった。
「――リュス様!」
城の中庭で解散の号令を掛けていたリュスの後ろ姿を見た瞬間、シエルは堪らず駆け出す。
「シエル? こんな時間にどうして」
黒い鎖帷子を身に纏っているリュスが、眼帯で隠れていない左目を見開いた。
「お話を聞いたら、心配で居ても立っても居られず……!」
「……まさか、ずっと礼拝堂にいたのか?」
リュスは驚いた様子で、シエルが飛び出してきた礼拝堂とシエルを交互に見やる。
「それよりも……っ! お怪我はございませんかっ!?」
普段だったら、リュスの手が届く距離に近付くことはない。だがこの時のシエルは無我夢中で、そんなことにも気付かなかった。リュスの上半身を覆う鎖帷子に手を触れては、傷がないかを確認していく。
「シ、シエル……? 貴女は一体何を」
リュスの戸惑いの声が聞こえた気がしたが、今はそれどころではない。リュスの肩まわりや腕に着けた防具の隙間からも赤い色が見えないことを確認し終わると、安堵のあまり一気に身体の力が抜けていった。
「よかった……っ」
へなへなと膝から崩れ落ちそうになった瞬間。
「シエル!」
と、リュスが慌てた様子でシエルの両脇を持ち上げ、支えてくれた。
危険な任務にあたっていたのはリュスの方だというのに、これでは本末転倒だ。恥ずかしさに、カアアッと身体が火照る。
「も、申し訳ございません……! お怪我がないと分かった途端、つい力が抜けてしまいまして……っ」
自力で立とうとしたが、つま先が地面につかない。リュスの逞しい腕はシエルの枯れ枝のような細い身体を支えるのは大した苦ではないのか。子供を抱き上げるような体勢になっていることに、今更ながらに気付いた。
(わ、え、リュス様に持ち上げられている……!?)
ゴツゴツとした固い手が触れている箇所は、外は肌寒いくらいだというのにやけに熱く感じられる。リュスにこうして触れるのは婚姻の儀以来のことだと気付いた途端、あまりの恐れ多さにシエルは固まってしまった。
「……俺の心配をしていたのか?」
「えっ? あ、は、はい……っ」
声を裏返しながらも答えると、何故かリュスの眉毛が奇妙な形に歪む。一体どうしたのかと思ったが、目下シエルの中はこの触れ合いでいっぱいいっぱいになっている。冷静な判断は到底無理だった。
「さっ、差し出がましい真似でしたら申し訳ありません! で、ですが、私にできることと言ったら無事を祈ることくらいしか思いつかず……っ」
リュスが囮となった知らせを受けたのは、悪夢を見た翌日だ。状況は異なるとはいえ、すぐさま脳裏に浮かんだのは、血だらけで倒れ伏すリュスの姿。
一旦考えてしまうと振り払うことができず、シエルは己ができること――ただひたすらに彼の無事を祈ることを選んだ。
シエルはハッと気付き、何故かこちらに近付いて来ようとせず礼拝堂の前でエリザと並びながら微笑んでいるクラウスを振り返る。
「す、すみません!」
「は?」
「クラウス様には先にお休みになっていただくべきでしたね! リュス様の大切な右腕のお方を私の我儘に付き合わせてしまって、な、なんと謝ったらいいか……っ」
「……待て。まさか今の今まで、礼拝堂にいたのか?」
「え? ええ。他にお役に立てることが何も思いつかず……! も、申し訳ありません……っ」
呆れたように口を緩く開いたリュスを見て、呆れられてしまったのだ、とシエルは猛省し始めた。エリザはシエルの専属侍女だからいいとしても、クラウスまで付き合わせてしまった。
ここはもういいと早めに伝えておくべきだったのに、そんなことにすら気付かず逆に気を遣わせてしまったのだ。申し訳なさすぎて、穴があったら入りたい。
「……いや、あのお喋りが余計なことを言ったのが原因だ。シエルが謝ることではない」
「いえっ! クラウスさんは私がひとりで食事を取るからと気を遣われて、わざわざお知らせして下さったのです!」
「気を遣う? どういうことだ」
リュスの眉間に大きな溝ができた。
(怒っていらっしゃる……? やはり差し出がましいことだったのだわ! ど、どうしよう……!)
シエルが思わず目をぎゅっと瞑ると、しばらくしてリュスがハア、と溜息を吐く。
「……シエル、責めている訳ではない」
「で、ですが……っ」
「俺の無事を祈ってくれて、感謝している。お陰で無傷のまま帰ってこれた」
「リュス様……?」
恐る恐る瞼を開けると、片方だけの紫眼が所在なさげに彷徨っていた。
(あら? 困っていらっしゃるようだけど、確かに怒ってはいないみたい……?)
これまでは、人の顔色は窺っているようでその実殆ど見ていなかったシエルだ。リュスのこの態度が怒っていないのは理解したものの、何故困った様子なのかまでは理解が及ばない。圧倒的な経験不足のせいだった。
「……祈ってもよかったのですか?」
「当然だ。怒る奴がいたら、神罰が下る」
「……クラウスさんをこの時間まで連れ回してしまい……」
「気にしなくていい。あいつが好き好んで取った行動だ」
そうなのか、では何故? とシエルは心の中で首を傾げる。
リュスが、言いにくそうにボソリと低い声で呟くように言った。
「俺が言っているのは、その――この時間まで寒い礼拝堂にずっといたことに驚いたのと、クラウスが余計なことを喋ったことで貴女がこの時間まで起きていたことに、クラウスに対して苛立っただけだ。貴女には感謝している」
「そ、そうなのですか」
よく分からないが、とにかくシエルの取った行動を責められている訳ではないと知り、ホッとする。
すると、リュスが眉間の溝を更に深くしながら尋ねた。
「それで、ひとりで食事の時に気を遣うとはどういうことだ?」
「え……っ、いえ、その、大広間でひとりでお食事をいただくのは、その、どうしても慣れなくて……」
リュスがハッと息を呑む。
ブランデンブルグでは、いつも小さな部屋で固いパンや冷めたスープを飲んでいた。今思えば、子爵家であり事業も成功しているというのに、随分と粗末な食事を与えられていたものだと思う。
使用人の方がもっといい食事を与えられていたのも知っていたが、シエルは自分に価値がないと思い込んでいたので、当然の扱いだと思っていた。
家族の食事の輪に入ることは決して許されない。何故なら、シエルは家族ではなかったからだ。小さな部屋で巣に閉じこもる動物のように取った食事が、これまでのシエルの日常だった。
それがアルバインに来てから、広間でぽつんとひとりで食べることが増えてしまった。当然シエルが落ち着ける訳もなく、所在なさげに食べるシエルを見かねたクラウスが、リュスがいない時は部屋で食事はどうかと提案してくれたのだ。
「……分かった。詳しい話はクラウスから聞こう」
「えっ!? あの、クラウスさんは善意で……っ」
「別に叱りはしない」
「あ、よ、よかったです……」
それにしても、いつになったら下ろしてもらえるのか。ずっと脇の下を持ち上げられながらの会話に、リュスの筋力はすごいのだ、と感心する。
リュスがボソリと呟く。
「俺は聞いてないぞ……」
何を、とは尋ねられなかった。ギッと礼拝堂前にいるクラウスを睨むリュスの雰囲気があまりにも恐ろしかったからだ。
でもクラウスは負けていない。爽やかな笑顔でシエルたちの元に向かってくると、リュスに会釈をした。
「リュス様お帰りなさいませ」
「……ああ」
「一体いつまで物を持つようにシエル様を持ち上げているつもりですか?」
「あっ」
リュスは慌てたように視線を彷徨わせると、どうしたものかといった困った様子でシエルを見る。そこですかさずクラウスが囁いた。
「こんな時間までリュス様の為にお祈りしていたのですよ。きっととてもお疲れでしょうに、野良猫のように持たれてお労しい……」
「わ、分かっている!」
リュスはクラウスに向かって小さめな声で怒鳴ると、変な顔をしながら腕を引き寄せる。
(えっ!? な、何が起きてるの!?)
気が付けば、シエルの身体はリュスの鎖帷子を纏う固い胸板にぴったりとくっついていた。男性の腕に抱かれたことなど、幼い頃に父親にされた記憶が最後だ。
軽々と横抱きにされれば、リュスのスッとした顎の線がすぐ近くに見える。
(ち、近い……っ!)
心臓が口から飛び出しそうなくらいに激しい鼓動を打ち始めた。息苦しさを覚え、胸を手で押さえる。
「あ、あの……っ!?」
「……貴女の部屋までこのままで」
「ええっ!?」
もう何が何やら訳が分からない。しっかりとした足取りで居館の中に進むリュスの腕の中で、ただひたすらに目を白黒させていたシエルだった。
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