二十五「家族」
「――メイリー様ぁ」
庭先で空を見上げていたメイリーに、下働きの娘、ホンファの大声が聞こえた。メイリーよりも三つほど年若いせいか、妹のように可愛らしく思える娘だ。だから、メイリーが嫁いできた時に『奥様』と呼ぶのではなく名前で呼んでほしいと頼んだのだった。
それにしても今日は特に落ち着きがない声で、他の使用人に見つかったらまた怒られてしまいそうだ。それでは可哀想だと、メイリーは軽く手を振って居場所を知らせた。
「ここよ、ホンファ」
すると、ホンファは頬を紅潮させながらメイリーのもとへ駆け寄った。そうして、感極まった様子で言った。
「あ、あ、あの! 旦那様が!」
そのひと言にどくりと胸が鳴った。
メイリーの夫は武官である。若くして昇進し、今は将軍として軍を率いている。そう、今は北の風狼国との戦線の只中にいるのだ。メイリーが嫁いでから二年が経ったけれど、今まで何度も戦地に駆り出されてきた。
夫は品のある穏やかな顔立ちが武人らしからぬけれど、優美な外見に似合わず武科挙の武状元(主席)であるのだ。そんな優秀な夫であるから、皇帝陛下が大層お気に召され、本来ならば後宮にいたメイリーを下賜したのである。
メイリー自身は後宮に入るべく故郷からやってきたその後のことを、実はよく覚えていなかった。高熱に浮かされながら寝込んだ時に、後宮にいた頃の記憶を失くしてしまったのだという。
ただし、実家の家族のことや過ごした思い出はきちんと覚えている。新しい記憶だけ少しばかり失ったようだけれど、それはメイリーにとってあまり重要なものではなかったようだ。
後宮にいたとはいえ、皇帝はメイリーにその尊顔すら見せてくれなかったらしい。メイリーに限らず、ほとんどの妃がそうなのだ。皇帝の寵愛は今のところ貴妃ただ一人にあるという。だからあっさりとメイリーは外へ出されたのだ。
しかしながら、メイリーは後宮に未練などない。そもそも後宮など入りたいとも思わなかった。それなのに、親類たちがメイリーならきっと皇帝の目に留まると推奨し、断りようがなかったのである。だから、メイリーは物のように下賜されたことに憤りもなかった。
後宮から出されたことで実家とも気軽にやり取りができる。両親、兄と姪にも再会できた。そうしたら、兄は後妻をもらっていて、男児を儲けていた。兄嫁は控えめで優しい素敵な女性であったから、メイリーも素直に祝福できた。
兄は昔から優秀で、兄以上の男性がこの世にいるとは思えずに育ったメイリーであった。けれど、驚くことにそんなメイリーが嫁ぐことになった夫がそれであったのだ。
夫は家柄、容姿、能力、すべてに恵まれた人であった。不満など出ようはずもない。
むしろ、メイリーではとても釣り合わぬような夫である。初めて会った日から恐縮してしまっていたメイリーを、夫は甘い微笑をたたえながら迎え入れてくれた。そうして、それはそれは大事にしてくれている。
皇帝から下賜されたのだから、蔑ろにできないのはわかる。それを差し引いても、夫は優しかった。出会った瞬間からメイリーに愛情を感じてくれているのかと錯覚するほど、熱い眼差しで見つめられた。
あれだけの男性なのだから、女性の扱いには慣れていたのだろう。そう思いつつも、自分だけが特別なのだと相手に思わせるだけの力がある。メイリーはすぐに夫の虜になった。
愛しい愛しい良人。
その夫が戦地にいる。天に無事を祈らずにはいられなかった。
ホンファはその夫に関する情報を持ってやってきたのだ。メイリーは思わず身を乗り出してしまう。
「旦那様がどうされたのっ?」
不安と戦うメイリーに、ホンファは目に涙を浮かべて笑った。
「旦那様が戦を終結へ導かれたとのことです!」
「戦を?」
「風狼国の将と言葉を交わし、休戦の提案を申し出たのだと言います。陛下がそれを、休戦ではなく終戦にするよう申しつけられたそうで、北との戦いはもう――」
終戦。そんなことがあるのだろうか。
風狼国との小競り合いは長い歳月繰り返されてきた。皇帝陛下は穏やかな方であるとは聞く。終戦を願ってはいただろうけれど、相手がそれを呑んだことが意外であった。
戦などなければいい。何度そう願ったか知れない。その願いがようやく叶ったのだ。細かいことなどもうどうだっていい。
「じゃあ、旦那様ももうすぐお戻りね」
感極まって声が震える。ホンファも涙ぐんでうなずいた。
「ええ、ええ。旦那様も早くメイリー様にお会いしたいはずです」
「そうだといいわね」
笑って返したものの、本当は苦しかった。夫はメイリーをとても大切に扱ってくれるけれど、メイリーは夫の心に別の女性が住むことを知っている。
以前、寝言で別の女性の名を呼んでメイリーを抱き締めたことがあった。それは本当に愛しげで、メイリーをその女性の代わりに大切にしてくれているのだと気づいてしまった。
その時は苦しくて泣いたけれど、それでもメイリーは夫を愛していた。それは今も変わらない。
添い遂げられなかった誰かの分まで夫を支え、寄り添っていたいと思う。
終戦が、この城市を離れた地にも聞こえてきたというのに、それから十日を過ぎても夫はまだ帰らなかった。事後処理が色々とあるのだろう。皇帝陛下からお褒めのお言葉もあり、宴席に引っ張りだこになっているのかもしれない。それを妻であるメイリーはただ待つより他ないのだ。
今日こそはと、毎日夫のために粥を炊いた。
使用人にさせればいいことである。けれど、嫁いできてからすぐに夫が、メイリーの炊いた粥が食べたいと言ったのだ。粥など炊いたことのないメイリーは困ったけれど、皆に助けられつつなんとか炊き上げた。それからというもの、朝の粥だけはメイリーが自ら炊くようにしている。
今日もまた、優しい甘い香りを漂わせ、粥をコトコトと煮る。
夫はいつも、メイリーの炊いた粥を嬉しそうに食べてくれる。だからこそ、メイリーは厨に立つことが嫌いではなくなった。
愛しい。早く会いたい。
ギュッと胸に手を当てる。あの笑顔を思い出すだけで胸がトクトクと高鳴る。
その時ふと、夫の声が耳元で蘇るようであった。
『レイレイ様』
――違う。その名前を呼ばないで。
身分違いの報われない恋だったのだろうか?
メイリーは夫の一番にはなれないのか。
『レイレイ様』
どうして。
どうして何度もその声が蘇る。
『レイレイ様』
違う。呼んでほしい名前はそれではないのに。
「わたしは……っ」
パァン――と、メイリーの中で何かが弾けた。花の香を纏った春の風が窓から吹き抜ける。
『――どうか私の妻になってくださいませ』
『うん、なりたい。約束よ?』
そう答えたのは、誰だ。
「あ……」
メイリーの喉からかすれた声が漏れた。
『今の私はあなたを心から愛しいとお慕いしています』
心を開いてくれなかった、自分から逃げていったルーシュイがくれた言葉。
『あなた様は咲き誇る前の蕾のように初々しいお姿をされていますので、『蕾々』様と。これでいかがですか?』
――レイレイ。
ルーシュイは、何度その名で呼んでくれただろうか。
メイリーの目から熱い涙が零れた。
「わ、わたし……」
欠片を手にした途端、洪水のように記憶がなだれ込む。
二人で過ごした日々、色々なことがあった。色々なことを二人で乗り越えた。
あんなにも愛しい記憶を今まで忘れてしまっていたのだ。嗚咽と涙が堪えきれない。
そんな時、バタバタ、とホンファの落ち着きのない足音が厨に響く。
「メイリー様! 旦那様がお戻りです!」
顔を輝かせていたホンファが、メイリーの泣き顔に驚いた。
「メ、メイリー様?」
けれど、メイリーはホンファに答えるゆとりがなかった。はしたないなんてことも考えられず、ただ走った。門を越えた先で馬を引いているメイリーの夫の姿を認めると、一も二もなくメイリーはその胸に飛び込んだ。甲冑の硬さが恨めしい。
使用人たちの前でやめなさいなどと言うこともなく、夫は馬の手綱を馬丁に預けると甘く微笑んだ。
「メイリー? すまない、心配をかけたね」
使用人たちは見てはならぬものを見たような気になるのか、そそくさと去っていく。
メイリーは夫の首に腕を回し、そうして夫の名を呼んだ。
「ルーシュイ」
「え?」
メイリーは、夫を呼び捨てになどしない。夫に頼まれたことがあったけれど、恐れ多いと名前を呼ぶことはなかった。だから、これで気づいたはずだ。
「まさか……」
愕然としたルーシュイに、メイリーことレイレイは泣きながら言った。
「心配要らないなんて大嘘! 思い出すのにこんなにかかっちゃったじゃない!」
「レイレイ様……ですか?」
恐る恐る、ルーシュイは問う。その顔は鸞和宮で過ごした頃よりも精悍さが増していた。戦地で研ぎ澄まされた鋭気がみなぎる。けれど、ルーシュイはルーシュイだ。
「そうよ」
と、レイレイは泣きながら笑った。そんなレイレイをルーシュイは力強く抱き締める。
「記憶が戻るなんて、そんなことはもうないと思っておりました。それでも、私は……」
声を詰まらせるルーシュイを、レイレイは心から愛しく思う。
「うん、思い出すのが遅くてごめんなさい。寂しかった?」
「そりゃあ……。レイレイ様がよそよそしくて、名前を呼んでほしいと頼んでも呼んでくれませんし」
ギュ、と腕の力が強まる。
「だ、だって……」
「すみません、責めているのではないのです。一生戻らないと覚悟はしていましたから」
寂しさを飲み込んで、それでもルーシュイはいつもメイリーに優しくしてくれていた。そのことを今、ひしひしと感じる。その寂しさをこれから埋めていきたい。まだ間に合うはずだ。
「ねぇ、もうわたしに敬語を使うのはおかしいわよ。ルーシュイはわたしの旦那様なんだからね」
「そうでしたね。でも、つい……」
「戦、やっと終わったのね。陛下やユヤン様もお喜びでしたでしょう?」
ルーシュイがうなずく。
「ええ。あれは本当に運がよかったんです」
「そうなの?」
「はい。相手の将がフェオンの父親でした」
「え!」
フェオン――この朋皇国に攫われてきた草原の少女。あれから四年も経つのだ。今はさぞ美しく育ったことだろう。
「フェオンと、その婿にも会いましたよ。私にいくらかの恩義を感じてくれていたようで、話をさせてもらえました。私が半分向こうの血を引いていたのも考えようによってはよかったんでしょうね」
巡り巡って、こんなことが起こる。世界は不思議だ。
レイレイは誇らしい気持ちで夫に寄り添った。
「お疲れ様、ルーシュイ」
すると、ルーシュイは一度レイレイの肩を押して体を離し、その手をレイレイの頬に添えて口づけた。それは再会を確かめ合うような懐かしいものに思えた。
「以前の私なら、あれほど真剣に人と向き合うことをしなかったでしょう。けれど今は、帰るべき場所、守るべき家がありますので、なんとしても戦を終わらせたかった。この功績もあなたのおかげですよ」
そう言って、ルーシュイは再びレイレイを抱き締めた。レイレイはただ胸がいっぱいになる。
「ルーシュイがわたしのために頑張ろうって思ってくれるなら、わたしはこれからも全力でルーシュイを支えるから」
顔をは見えないけれど、ルーシュイが優しく微笑んだような気がした。
「……ええと、メイリー。それとも、レイレイ様とお呼びしますか?」
「メイリーでいいわ。でも、二人きりの時は時々レイレイって呼んで。ルーシュイがつけてくれた大事な名前だもの」
「わかりました。じゃあ、閨の時に」
耳元でそんなことを言うから、思わず赤面してしまった。そんな妻の様子に、ルーシュイはクスクスと笑っている。その幸せそうな顔にぽつりと告げる。
「大好きよ、ルーシュイ」
「私もだ。メイリー」
――それは輝かしい国の片隅にいた二人の出来事。
《 完 》
こちらで本編は完結になります。
長らくお付き合い頂き、ありがとうございました!!




