9 輝子先生の答え
「このアールの壁はね。」
輝子先生は沙華井さんの描いた間取り図のコピーの、例のベッドルームのカーブした壁を指で押さえた。
「胎内回帰願望なのよ。ベッドの頭の方を包み込むように配置されてるでしょ。そしてベッドルームが建物全体の中で異様に大きい。」
そう言われれば、たしかに。大きさはアンバランスだ。でも、これは素人の手描きなんだから・・・。
「素人の描く間取り図ってね、たいてい自分が一番重視しているものを大きく描くの。キッチンは小さいでしょ?」
「そうですね。どうでもいい感じですね。」
わたしは笑いそうになりながら応じる。
「これは、奥様と相談することなく、義文さんが1人で描いたっていう証拠よ。むしろ、小春さんの思いは今義文さんと住んでいる住宅の方に表れていたわ。義文さんは、インテリアは全部奥様がやっているって仰ってたでしょ?」
たしかに。
素敵なインテリアで、緑も上手に飾ってあった。
「入口のアーチ以外、アールのものなんてなかったでしょ? でも義文さんは何の不満もなさそうだった。あの空間で義文さんは満足してるのよ。つまり、義文さんはアールが好きなわけじゃないの。」
輝子先生の目が少しだけ鋭くなる。
「一方、ご実家の方で見た義文さんの『元勉強部屋』には、当時の勉強机や本棚やタンスがまだそのまま置いてあった。それが当時のままなのは、絨毯の凹みが他にないことで分かるわ。つまり、義文さんの勉強部屋はお母さんのクロゼットでもあったのよ。」
輝子先生はカップのティーをもうひと口飲んで、わたしの顔を見つめた。
「ねぇえ、輪兎ちゃん。ここから推察できることは、お母様の須賀代さんは義文さんを子どもの頃から自分のモノとして扱ってきた傾向があるってこと。
まあ、子どもが小さいうちはそれでもいいんだけどね。でも、子どもは成長する。成長するにつれて子どもは母親のものではなくなっていかなければならないのに、あの部屋が当時のままなのは、須賀代さんは未だ義文さんを小さなよっちゃんのままで掴まえておきたがってる——ってことなの。」
それが・・・、絨毯の凹みの意味・・・。
「義文さんは、そこから逃げたがっている。それを邪魔しているのは『家族』という抽象的な概念ね。この・・・」
と先生は例の鍵のかかるドアのついた2世帯の境界の壁を指でなぞる。
「一直線の壁は拒絶を表しているわ。」
「義文さんがアールの壁を必要とするのは、逃げ出すためになの。あの壁は理想のお母さん像の暗喩なのよ。そこで所有されるのではなく包まれることによって、安心して成長して大人になりたいのよ。」
「大人になりたい・・・て・・・。だって、十分大人じゃないですか・・・。」
立ち居振る舞いだってしっかりしてるし、しかも社長・・・。
「いくつになっても、人間、子どもの頃に満たされなかった心は子どものままなのよ。」
輝子先生はそう言って、優しげに微笑んだ。
「小春さんを見てて分かると思うけど、義文さんは小春さんに『お母さん』を求めてるのよ。でも小春さんは『お母さん』ではなく、1人の女性として『妻』になりたいのよね。」
そ・・・それが、あの一瞬の呟きか・・・。
なんで、先生は間取りだけでここまで分かるの?
「義文さんが『父親と暮らす二世帯住宅を作りたい』と言いながら、お母さんの話ばかりでお父さんの話が出てこないのは、見えないからよ。お母さんの陰に隠れてしまって——。
義文さんは、父親と大人の男同士として付き合ってみたいんだと思うわ。乗り越える対象じゃなく——。乗り越えはもう、やっちゃってるもんねぇ。(笑)
アールの壁も、満足できるものを一度作ってしまえば、それでもうよくなると思うわ。だからそんなにたくさん要らないのよ。このベッドルームのだけあれば。」
「もちろん・・・」
と輝子先生は続けた。
「誰もそれを明確に意識しているわけではないわ。だから、わたしたちの答えも、明確にではなく舞台背景としてそっと置きましょう。」
* * *
輝子先生が作った住宅のプランは、2つの住宅が敷地の中にVの字型に斜めになって玄関部分で交わったような配置のものだった。
玄関は1つで、大きな土間のホールがある。そこからそれぞれの住戸への入り口があって、それ以外ではつながっていない。
それぞれの居間は住戸に挟まれた中庭のデッキを挟んでV字型に向き合っていて、互いの気配は分かるけど、デッキに出てからでないと行き来はできないようになっている。
デッキの広さは、天気の良い日は皆で外で食事でもできるくらいの広さにしてあった。
「敷地が広くて助かったわぁ。」
輝子先生はそう言って笑った。
「親世帯と義文さんの世帯は、間に一度『外』を挟んだ方がいいと思うの。近すぎず、遠すぎず。」
もちろん、ベッドルームのアールの壁は素敵な形で配置されている。アールの出窓も。でもそれ以外に輝子先生のプランにはアールはなかった。
ベッドルームは小さくなって、その代わり、2階にはフリースペースが設けられた。
「次のステージになれば、つまり小春さんが晴れて『妻』になれれば、きっと子供部屋にする空間も必要になると思うの。」
ご両親の方の住戸には、3畳ほどのお父さんの工房も作ってある。
「玄関ホールは、ギャラリーにもできるようにしようと思うの。輪兎ちゃん、展示棚のデザインよろしくね。」
輝子先生の提案したプランはほぼ一発で気に入ってもらえた。
特に、ずっと控えめだった小春さんと父親の義尚さんが、目を輝かせていろんな要望を話し始めたのは印象的だった。
「建築で全てを解決することなんかできないけどねぇ。」
工務店との工事契約も終わったある朝、沙華井さんの家族の中に澱んでいた何かを劇的に風通しのいいものに変えた先生のプランについて、わたしの言った感嘆の言葉に輝子先生はそんなふうに答えた。
「住宅はその家族のそれぞれの人生の舞台背景でしかないの。でも、時に背景が背中を押してくれたり、落ち込んだら慰めてくれたり・・・。少し道筋を示してくれたり。そんなことは、あるものよ。住宅建築は、そういうものであればいいの。決して『作品』なんかじゃないのよ、輪兎ちゃん。」
それからいつも通りカモミールティーをひと口すすって、思い出したようにわたしに訊いた。
「そういえば、輪兎ちゃん。あのミステリはどうだった?」
「あ、例の変な間取りの家ですね?」
輝子先生が実務者として投げかけた疑問には、1つは一応答えがあり、1つはスルーしていた。
「ただの推理小説でした。興味あるんでしたら、本お貸ししますよ? 元ネタはシャーロックホームズの『ノーウッドの建築業者』ですね。」
そんな会話をした朝から2年半ほど経った頃だった。
街の小さなギャラリーで小春さんの織物と義尚さんの金属作品を展示する二人展を開く、というハガキが来たのは。
了
最後までお付き合い、ありがとうございました。
間取り探偵=輝子先生、いかがでした?
「こんなの推理小説じゃない」という声もあるかもしれませんが・・・。(^^;)
この後も、シリーズとして少しずつ書いていこうと思っています。
よかったらまた読みにきてください。