第3章 対極 ~冥王と英雄~ ③
「司。この前は……本当に、ごめんね」
母が帰ってくる日の朝のこと。泉美が用意してくれた朝ごはんを食べながら、司は首を傾げる。泉美が何に対して謝罪をしているのか見当がつかなかったのだ。
「え……何が?」
「初めて司が『彼女』の話をしてくれて、家にも連れてきてくれたのに。私のせいで……」
司はそこでようやく話の焦点が見えてきた。おそらく小椋実咲のことだろう。いずれはこの話になるだろうと思っていたのだ。
ここからは、「演技」。そう思って司は、気合いを入れる。
「……そんなの、仕方ないことだよ。それにもう、別れたし」
「…………別れたのも、私のせいでしょ? 司の『好きな人』まで制限するなんて、私……」
泉美はどうも、家族のことに関して責任感を感じすぎるきらいがある。これまでの家庭の状況を考えて当然といえば当然だが、それにしても必要以上ではないだろうか。司は、そんな泉美を宥めたいといつも思っている。
「泉美。俺はね、たとえ彼女ができても、泉美がすごく大切なんだ」
「でも……」
「どちらにせよ、別れてたよ。……今、凄いことになってるし」
泉美の前で持ち出していい話なのかどうかわからない。だけど、こうでも言わないと泉美は納得しないと思った。
泉美はしばらく逡巡し、小椋実咲のことに関してはとりあえず何も言わなくなった。だけど彼女の表情はまだ曇っていて、泉美は次なる不安を吐露した。
「……私、自分が許せない。初めてあのニュースをテレビで観たとき、ひどいことを思ったのよ。『ざまあみろ』って思ったの。許せないの、こんな自分……」
泉美の大きな瞳が、潤んでいく。
司は、はっとした。
「計画」は自分の感情が最優先で。泉美がどう思うかなんて考えたことがなかったのだ。
苦しそうな泉美の表情に、司の瞳が一瞬、揺れた。
「……むしろ、そう思わないほうがおかしいよ。泉美は、普通だ。憎い相手の不幸を素直に悲しめる人間なんて、この世のどこにいると思う?」
泉美の涙は見たくない。司はいつの間にか必死になっていた。
諭すように司に言われ、小さくお礼を言って、泉美は目を伏せた。もう何年も見つめているのに、彼女の長いまつげに、涙の溜まった瞳に、こんな状況でも司はどきりとさせられてしまう。
「……この前、秀明さんが家に来たときなんだけど。うっかりしちゃってて、傷、見られたんだ」
脈絡なくそう言った司に、泉美はすごい勢いで顔を上げた。
「……交通事故って言っておいたから。泉美もできれば、そう話を合わせておいてほしい。秀明さんに嘘をつくのは心苦しいけど」
「うん、わかった」
泉美は首を縦に振る。しばらく沈黙が続いた。
重たい雰囲気に耐えかねて、司が何か喋ろうと思った、その時。
「ただいま!」
母の声がして、司も泉美もハッと顔を上げた。
「おかえりなさいっ!」
泉美は涙を拭い捨てると、リビングに入ってきた母親に駆け寄って飛びかかるように抱きついた。
「ただいま。なかなか帰ることができなくてごめんね。勉強は順調?」
「うん! 司も、勉強教えてくれるから」
泉美は母の胸の中で朗らかに答える。母――透子は泉美の髪をひと撫でし、そして司を見た。
「おかえり」
司が微笑みかけると、透子はゆっくり頷いた。
◇ ◇ ◇
とある大手の出版社に勤めていた、志野透子。彼女は美人でサバサバしていて仕事ぶりも良く、会社でも目立つ存在だった。
透子には、婚約者がいた。相手の家の事情で入籍はまだだったが、ほとんど結婚しているも同然で、その男との間に子どもを身ごもった。――それが、泉美だった。
美人な透子は、いつも男たちの欲望の的だった。セクハラは日常茶飯事。とはいえ、そういうことには慣れ――というか一種の「諦め」がついてきた透子は、セクハラが理由で会社を辞めたいとまでは思わなかった。彼女は働くことが好きなのだ。産休もギリギリまで取ろうとしなかった。
産休からの復帰後、いよいよ婚約者との入籍が現実的になってきた。
そんな折、転勤してきた社長クラスの上司に、透子は目をつけられる。
交際相手がいて、子供もいる。そう何度も主張したのに男はしつこい。無理やり酒を飲まされ男の性のはけ口にされ、気づいた時には子どもを身ごもっていた。
それが「速水 司」だった。
透子は恋人に婚約破棄され、仕方なく泉美を連れて速水と暮らすようになる。しかし速水はどうしようもない男で、財力があるとはいえ「人間の屑」という言葉がうってつけだった。速水のそばから逃げだしたい。しかし、逃げだせば子供たちに経済的な窮屈を与えてしまう。透子は長い間葛藤した。
そして、司が中学に入学してから間もない頃。ついに透子は、愛するわが子2人と、知らない土地で暮らすことを決意する。
◇ ◇ ◇
望まれて生まれた子ではないのに。透子は、泉美にも司にも等しい愛情を注いでくれる。司は彼女に大きな感謝の念を抱いていた。
「俺、大学入ったらバイトするから」
夕ご飯は奮発すると宣言した泉美は、キッチンに篭っている。手伝おうとした司と透子はアパートから追い出されてしまった。だからのんびり散歩をしながら、司と透子は互いの近況を報告しあった。
本当は今すぐにでもバイトを始めたい。だけど、勉強に「計画」に、そしてバイトにまで頭を回す時間と精神的な余裕はさすがの司にも無かった。
「お母さんにも泉美にも……楽してほしい」
司がそう言うと、透子は困ったような顔をして立ち止まる。
「家族思いなのもいいけど、もっと自分のための投資もしなさい。今だって、三者懇談で先生はあれだけ褒めてくださったけど、夏休みくらい勉強から離れなさいね。まだ2年生なのだし」
透子の優しさはときどき、司をどうしていいかわからなくさせる。
「……苗字だって、いつでも変えていいのよ。司もいろいろ辛いでしょう?」
司が高校に合格したとき、透子は彼に「苗字を『志野』に変えないか」と提案した。だけど司はそれを拒否した。「計画」が、滞りなく達成されるために。
「いや、そうでもないよ。確かに心理的には辛いところもあるけど、正直助かってる部分もあるんだ。学校側に『志野泉美』の家族だって知られたら、マークされるのは確実だから。それに、中学の時だってやり易かったよ。自分で言うのもなんだけど、泉美も俺も学校内で有名だったから。姉弟ってバレて騒がれるのは、うるさくてたまったもんじゃない」
言いながら司は、自分で自分に違和感を覚えた。
優しい透子の気遣いを、どす黒い計画のために無下にしたこと。そんな自分の心が、とてつもなく空虚に思えたこと。
珍しい感情に、司は首を捻った。