第3章 対極 ~冥王と英雄~ ②
血は、半分しかつながっていない。そう、「半分」のはずなのに。それでも、司のこの感情は「罪」となる。
姉弟として出会わなければ。――そんな夢みたいなことを、司は性懲りもなく考えてしまっていた。
司は、気づいていない。あるいは、本能的に気づくことを避けているのかもしれない。
泉美に対する支配欲。それがあまりに膨れ上がってしまえば……、その先にいる「敵」は、自ずと決定してしまう。
◇ ◇ ◇
夏休み開始から数日。空に、入道雲がそびえ立つように浮いているある日のこと。司は、駅の近くの本屋に参考書を買いに来ていた。その帰り道、ふと誰かから肩を叩かれる。
「司くん!」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこにいたのは更科秀明だった。
「秀明さん! お久しぶりです」
「久しぶり。元気にしてた? 泉美に会えても、司くんにはなかなか会えなかったから」
「はい、おかげさまで。姉もかなり回復してます。勉強のほうも順調みたいで」
泉美の恋人である秀明は、泉美に会うためにしばしば水々丘を訪れていた。しかし、お互いが受験生になってからその頻度は減ってきているようである。司が秀明に会うのは久々だった。
絵画の専門学校を受験する泉美は、高校を中退したため、高卒認定試験を受けなくてはならない。そちらの勉強は主に通信教材で行い、たまに司も勉強を教えていた。そしてこの春から、実技試験対策のために絵画の予備校に通っている。
「俺は勉強、全く順調じゃないんだよね〜」
「そこは頑張ってくださいよ!」
自転車を押しながら、司は秀明につっこみを入れる。秀明の成績はあまり芳しくない、と以前泉美から聞いたことがあった。これから勝負の時期だというのに、秀明には焦った様子もギラギラした様子も見受けられない。
「司くんと同じセンター試験受けることになるかも」
「そんなこと言わないでください……」
「まあ俺、部活人間だったし。しょうがないってことで」
交差点の横断歩道を渡りながら、秀明は欠伸をする。まだ午前中だからか眠そうな目をこすりながら、秀明はのんびりと歩を進める。相変わらず、入道雲がその質量を増しながら空を支配していた。
(掴めない人だ。本当に)
泉美の恩人ともいえる秀明。キリッとした外見とは裏腹、その飄々とした人格を、司はいまだに掴みきれない。
秀明は、何事にも執着を見せず流されるように生きているように見えて、実は誰よりも周りを見ている。観察力に長けていて、善悪の区別がある。
司は、秀明をとにかく不思議な人だと形容していた。
「そういえば司くん、なんで陸上部入らなかったの? 部活の友達が、司くんのこと相当勧誘したって言ってたけど」
ふと、秀明が思い出したように尋ねた。
「部活やったら、必然的にお金がかかりますから」
確かに司は、入学してからしばらく陸上部員に頻繁に声をかけられた。しかし彼はそれらの勧誘をすべて、「勉強に専念したいから」という理由で拒否していた。
――お金がかかるのは勿論だが、それよりも彼には、成し遂げなければならない「計画」が存在していたから……
「……あのさ、失礼だったらごめんね。司くんってもしかして、受験のとき公立の高校落ちた?」
絶妙なタイミングでそんな質問をされ、司の心臓が一瞬、ものすごく大きな振動をした。
「……え、どうしてですか?」
司はわざとらしくきょとんとしてみせた。表情も、感情もひた隠しにして。僅かながらも動揺し揺れ動く心を悟られないよう、万全の注意を払う。
「だって、お家の経済的な事情から考えて、司くんが私立の春日井を専願するなんてすごく不自然じゃない?」
(これは……、どういう意図で言っている?)
相変わらずのんびりゆっくり歩きながら、司の返事を待つ秀明。
その言葉に裏があるのか。それとも単純な興味による質問なのか。
更科秀明は、全然わからない。
「いえ。春日井に特待生として受かったんです。だから授業料やその他諸々が免除で。僕が受けた公立高校と春日井だったら春日井の方が偏差値が高くて、経済的な条件が一緒だし、だったら春日井にしよう、って思ったんです。ただ、常にいい成績維持して、欠席・遅刻も控えないとその資格を取り上げられてしまうんですけど」
とりあえず、どちらに転がっても無難な答えにしておいた。特待生として合格したのは紛れもない事実だし、「特待生」になれるよう努力したのも事実だった。その「目的」は不純なものだが……。
司は、気づかれないようにそっと、秀明に探るような視線を向ける。
「へえ〜! やっぱエリートって最初っから違うなぁ。俺なんて、公立落ちて特待取れなくて、でも今だにロクに勉強してないし。親に迷惑かけまくってるよ」
対する秀明の言葉に、司はなんだか脱力してしまう。
「やましいこと」が心の中にありまくる司は、秀明の掴みどころのない人格はどうにも居心地が悪い。他のどの人間も、操るのも取り入るのも容易なのに、秀明だけは例外だった。
そんな人が泉美の恋人なのだから……、司は何度も肝を冷やしてしまう。
空。雲向きが怪しくなってきていることに、司は気づいていなかった。
「……そう言えば、今日はどうして水々丘に? 今週の土曜日もお会いするのに」
司が話題を変えると、秀明は思い出したようにはっとした。
「そうそう、実は、その土曜日なんだけど。すっごく残念なんだけど俺、模試があって行けないんだ。だから、折角だし今週のうちに会っておこうと思って」
「そうなんですか」
「高認試験用の教材を寄付してくれた子もいて、それも預かってきたよ」
かつて1年A組で泉美に対して行われていたイジメ。桃井彩女という絶対権力者が中心となって行われていたそれは、誰も逆らえず、誰も止めることができなかった。彼女に反逆すれば「次は自分」だと、誰もが分かっていたのだ。
だから、1年A組でイジメを行っていたのは中心グループの数人。他のクラスメイト達の中には、イジメを傍観しながらも、密かにその心の中で泉美に味方をしている者もいたのだ。
泉美が不登校となって1年A組が解散すると、イジメも自然に収束した。
たったひとり、桃井彩女に反逆した「英雄」更科秀明だけが、その後の泉美と接触することを許された。
かつてのクラスメイトたちは泉美を不憫に思い、更科秀明を通じてこっそりと援助を行っていた。
「それは有難い」
「いま、世間も学校もすごいことになってるもんね。かつてのA組の子の中じゃ、小椋も桃井も『当然の報い』だってこっそり言われてるんだよ。俺もそう思うけど」
その「報い」を受けさせた当の本人こと、司。司は、やはり愉快な気持ちが止まらない。まるで、運命を司る神にでもなったような気分だった。
(気持ちいい。気持ちよすぎる……。……俺の手で、『制裁』を下すことが……)
ふと、額に水滴を感じて、司は空を見上げた。その時やっと、ぶ厚い雨雲が街を包んでいることに気がついのだ。
時すでに遅し。夕立ちが、降り注ぐ。
「うっわ、やばい!」
「秀明さん、走りましょう!」
滝のような勢いになる雨の中を駆け抜けて、司と秀明はようやくアパートにたどり着いた。
◇ ◇ ◇
「びしょ濡れですね……」
アパートのドアの前である程度服を絞ったものの、まだ水滴が滴り落ちて床を濡らしている。泉美はまだ帰ってきていないが、2人のこんな惨状を見たらきっと驚くに違いない。
司は洗面所からタオルを取ってきて、秀明と共に身体を拭いた。
「シャワー使ってください。服、貸しますから」
「司くんの方が身長高いから複雑だな……」
濡れた髪を鬱陶しそうにかき上げながら、秀明は微妙な表情をした。けれどそれ以外に取る術がない。しぶしぶながらも、脱衣場へ向かおうとした……けれど。
「司くん。左の肩、どうしたの?」
着替えようと服を脱いでいた司は、硬直した。
――うっかりしていた。
司の左肩から背中にかけて、おそらく切り傷であろう大きな傷跡が残っている。
これは司にとって、他人に隠しておきたいものの一つだった。小椋実咲にプールに誘われて断ったのも、これが理由だ。
「…………昔、事故に遭って。俺もよく覚えてないんですけど」
秀明に背中を向けたまま、司は掠れた声でなんとかそう言う。
秀明という要注意人物の前でぼろを出さないよう張り詰めていたから、家に到着したという安心感で油断しきっていた。まるで自分の弱点をわざわざ主張してしまったかのようだ。
そんな滑稽で単純なミスを犯す自分がにわかに信じられなくて、濡れたTシャツを握りしめていたことにその時ようやく気がついた。
「けっこうザックリ切ったんだね……辛かったでしょ」
「あんまり……覚えてないです」
急いでTシャツを着る。触れてほしくない話題なのだろうと悟ったのか、秀明はそれ以上何も追及してこなかった。司はほっと胸を撫で下ろす。
……何よりも、これまで一瞬たりとも忘れることのなかった傷のことを、秀明の前できれいに忘れ去っていたことが怖い。それほどまでに自分自身を緊張させる秀明という存在に、司は畏怖した。
この傷のことは、母と……泉美しか、知らないのだから。




