第3章 対極 ~冥王と英雄~ ①
春日井学園は、混乱の真っ只中にあった。
「『小椋総合病院』が、政治家『桃井富太郎』に不正な献金を行っていた!」
そんな衝撃的な事実が週刊誌にすっぱ抜かれ、生徒の間で話題になっている。
桃井富太郎の「娘」こと、桃井彩女。そして、小椋総合病院の「跡取り」こと、小椋怜奈。彼女らは、学校中の生徒の好奇と軽蔑の目に晒されることとなった。
学校内で一番大切にするべき生徒、「桃井彩女」の窮地に、7月いっぱいあるはずだった一学期は突然の夏休みを迎えた。保護者からは抗議の電話が殺到し、学校側の大人たちの精神状態は限界を迎えていた。
学校側は、すべての元凶である女子生徒「小椋実咲」を排除することに決めた。
◇ ◇ ◇
速水 司は、高揚していた。
かつて小椋実咲と来たカフェで人を待ちながら、身震いするほどの興奮を抑えきれない。
計画の第一段階が、まるで難解なパズルのピースが嵌っていくかのようにうまく事が運んだのだ。
泉美を痛めつけた小椋怜奈の「妹」に近づき、その弱みにつけ込んで自分に依存させる。そして、その依存心を利用し、小椋怜奈と桃井彩女に制裁を加える。
そんな今回の計画は、大成功、というよりほか無い。司は自分で自分を褒めたたえたい気分だった。とくに、小椋実咲という駒。彼女は本当によくやってくれた。司の想像以上の働きをしたのだ。
(大病院育ちの『お嬢様』……。これからもフル活用できそうだったけどな。ただ、あれを使い続けるのはリスクが伴う)
司に陶酔しきっていた小椋実咲。彼女は、司――そして、泉美――に償いをするために、身内の黒い情報を週刊誌に売ったのだ。それが今、学園内で、そして世間で混乱を引き起こしている。
司の言いなり状態だった小椋実咲。司は、できれば彼女をずっと手元に置いておきたかった。ただ彼女は、必要以上に司の過去を知っている。それが危ないといえば危ない。それに、小椋実咲の、香取 茜のこととなると途端にしつこくなる奇妙なカンの良さも、司にとっては邪魔だった。
実際、司は、香取 茜とは1年ほど前からの知り合いなのだ。それも単なる「知り合い」関係なんかじゃない。司にとって茜との出会いは、幸運中の幸運だった。今では、茜なくして「計画」の達成などありえない……
「速水くん」
名前を呼ばれてはっとした。待ち人が来たようだ。
「茜ちゃん」
香取 茜は、小さく笑いながら司と向かい合って座った。
「ずいぶん機嫌がいいみたいね」
「まあね。でも半分は、茜ちゃんのおかげ」
「感謝してよね〜」
茜は、いわば司の「諜報員」だろうか。こちらもよく動いてくれている。
「桃井彩女も小椋怜奈も、いたるところで悪者扱いされてるみたい」
「うん。小椋実咲がよくやってくれたからね。ネットとか、そういう場所に公表してくれればそれで良かったのに、まさか週刊誌とは。斜め上をいかれたね」
「それもぜんぶ、速水くんのためでしょ。あの子の『愛の力』ってやつよ」
ふふっ、と含み笑いをする茜に、司は露骨に嫌そうな顔をした。
「でも、速水くんもなんだかんだ楽しんでたじゃない。あの子との恋愛ごっこ」
あまりにも笑えない冗談だったので、司は茜を睨めつけた。
しかし正直なところ、司は、小椋実咲の「彼氏」として演技をする日々を送りながら、自分の本性を見失いかけているときが多々あった。もっとも司自身、自分の「本性」がなんなのか、はっきり掴めていないところはあるが。
「……それにしても小椋実咲、ほんとやるね。『イジメ』に関しては、一言も週刊誌側に明かしてない」
茜が、机に置いてあった週刊誌のページをパラパラとめくる。
「明かせば確実に、記者たちが被害者を探し出そうとするもんね」
「そうなんだ。そこが俺のいちばん危惧してたところ」
「だけど彼女はしっかりわかってる。『絶対に速水くんに迷惑をかけてはいけない』って。……やっぱり、速水くんに心酔しまくってたのね」
芸能界に精通している茜は、小椋家と桃井家の黒い事情を知っていた。だからそれらの情報はずっと前に司に流されている。
しかし。
「小椋実咲が、身内のどの『黒い噂』をばら撒くか」
これは司にとってほとんどギャンブルだった。場合によっては泉美を傷つけてしまうかもしれない、と警戒していたのだ。
「本当に俺は、運がいい」
「運も実力のうち、って言うじゃない。これで一つ、私達の目的に近づいたね」
「私達の」と、茜は強調した。にこにこ微笑みながらも、司はそれを鬱陶しく思った。
(勘違いしないでくれるかな。茜ちゃんと協力してるのは、利害関係が一致してるからだ)
利用できるものはすべて利用する。たとえ他人を欺いても、傷つけても。
茜という存在も例外ではない。今は「諜報員」としてめざましい活躍をしていようとも、最終的には司の「駒」でしかない。そういう意味で、司は、茜にもある種の「演技」をしている。
そんなことを知るよしもない茜が、さらに話を続けた。
「小椋実咲は停学処分になるみたい。だけど噂じゃ、小椋姉妹は二人とも転校を考えてるらしいよ」
「そりゃ、このまま春日井でのうのうと暮らせるわけないからね」
「うん。小椋怜奈にはちょっとした嫌がらせみたいなのも起きたんだって」
それを聞いた瞬間、司が、喉の奥でくっと笑った。
「うわ、速水くん、こっわ……」
「茜ちゃんにだけは言われたくないね」
そう言いながらも司は、愉快な気持ちが止まらなかった。泉美と同じ苦しみを、小椋怜奈が味わっている。それは、司が望んた「制裁」そのものであった。
「茜ちゃん、たまにテレビ出てるの見るけど、なにあのキャラ。さすがに偽りすぎ。こわいよ」
「そんなこと言ったら、学校での速水くんなんて全部偽りでしょ」
茜の言う通りだった。完璧に構築された「速水 司」の虚像は誰にも見破れない。それはおそらく茜にも――、……泉美にも。
司の中に潜む、サイコパスとも呼べる「残忍な自分」。それらはすべて姉である泉美のために存在するが、司は、そんなもう一人の自分が泉美に露見してしまうことを、何よりも恐れていた。
(泉美にこんな自分を知られたら、きっと軽蔑される)
だから司は、演じている。「いい弟」を――
「じゃあ私、行くね」
思考中に突然そう言われ、司ははっと顔を上げた。
見ると、茜が荷物をまとめながら席を立とうとしている。確か、これから仕事があると言っていた。
「うん。忙しい中、ありがとう」
茜は頷き、そしてふと、声のトーンを低く落とした。
「……次は、いつ頃始めるつもり?」
その目の奥が怪しく光る。
「二学期には」
司の言葉を聞くと、茜はニコッと笑った。
「また連絡してね」
◇ ◇ ◇
いろいろあって忘れかけていたけれど、明日からは夏休みなのだ。帰り道に思い出したようにそう気づいた司は、鼻歌でも歌いたい気分になる。とにかく激動の一学期だったから、少しのんびりしよう、と思った。
アパートのドアを開ける。泉美はまだ帰ってきていない。テレビをつけると、ニュース番組で、桃井富太郎議員がマスコミからたくさんのバッシングを浴びていた。
泉美もすでにこのニュースを知っているに違いない。だけど泉美はそれをわざわざ話題にすることはしないだろう。泉美にとって、イジメに関連することはすべて、消し去りたい過去のはずだから。
(この男と学校側の繋がりは強いからな
……)
ぼんやり画面を見ながら、司は思案する。
春日井の人間は誰も、桃井彩女に逆らうことができない。それらはすべて、この男の後ろ盾によるものだ。かつて泉美に対する「イジメ」を隠蔽したのも、ほとんどこの男の力だろう。
ふとその時、玄関でドアの開く音がして、司は慌ててテレビを消した。
「ただいま〜」
「おかえり、泉美」
司はソファに座ったまま、泉美を振り向く。泉美は困ったような表情をして、司に近づいてその髪の毛をくしゃっとした。
「も〜、『お姉ちゃん』って呼べって、ずっと言ってるでしょ〜!?」
乱れた髪を整えながら、司は目を細めて笑う。
愛しい人。姉と思ったことなんて一度も無い。今すぐにでもこの胸にかき抱いて、ぐちゃぐちゃに壊してしまいたい。けれど、泉美がそれを望むことは永遠にない。
「あ! そういえば今週末、お母さん帰ってこれるんだって! だからさ、土曜日に秀明くんも呼んで、ちょっとしたパーティーでも開かない? おいしいご飯いっぱい作って、みんなで食べようよ!」
泉美が、エプロンを着けながら満面の笑みで提案した。
「え、すごい、いいね! 今から楽しみだよ」
司も嬉しそうに返す。母親が帰ってくるのは久しぶりだ。「秀明くん」こと、更科秀明に会うのも久々だった。司は、土曜日が待ち遠しくなる。
「秀明くんとは学校で会う?」
「たまに、かな。2年と3年は校舎が遠いから」
「司の話、秀明くんからよく聞くの。司、学校内でも有名なんだって? 『かっこよくて運動もできて、しかも学年トップ』だなんて。私、本当に鼻が高いわ」
司は、恥ずかしくなって頭を掻いた。
「秀明さんこそ有名だよ……。体育大会の時、クラスの女子が写真撮ってもらってはしゃいでたよ」
陸上部で活躍していた更科秀明は、かっこいいことで有名だった。とくに、「先輩マジック」にかけられた下級生たちにモテている様子で、あちこちでキャーキャー騒がれているのは司も知っていた。
そして、おそらく春日井の生徒のほとんどが知らない、更科秀明のとある秘密も知っている。
――更科秀明は、泉美の「彼氏」なのだ。