第1話 思いがけない出会い
朝の空は、雲ひとつない青だった。
ゴルフ場のクラブハウス前には、まだ冷たい風が残っている。受付を済ませた参加者たちが、組み合わせ表を手に、互いに名刺を交換していた。
森咲夏美は、少し離れたところでグローブをはめていた。
「森咲さん、今日はよろしくお願いします」
声をかけてきたのは、夏美と同じ会社の営業担当、田辺だった。田辺は取引先との窓口を担当している。今日はその取引先が主催するゴルフコンペで、先方の役員も参加するとあって、いつもより緊張した様子だった。
「こちらこそ。田辺さん、ゴルフはよく行かれるんですか?」
「いやあ、年に一、二回くらいです。今日は取引先の黒田役員もいらっしゃるので、失礼のないようにしないと」
「それなら、失礼をしないことより、まずはボールをなくさないことを目標にしましょう」
田辺が一瞬目を丸くし、それから笑った。
「森咲さん、意外と冗談を言うんですね」
「意外と、は余計です」
夏美はグローブを引っ張り、手首の部分を留めた。
夏美はシステムエンジニアとして、取引先に常駐している。インフラと開発の両方に関わり、システムを使う人の困りごとを聞きながら、運用の見直しや機能の改善、開発側との調整を行っていた。
ただ、今日のコンペの参加者に、夏美の仕事内容を知る人はほとんどいない。田辺は同じ会社の人間だから知っているが、取引先の人たちとは、仕事を通じて直接関わったことがなかった。
「森咲さんって、ゴルフはどのくらいなんです?」
「最近はあまり行けていないですけど、お荷物にならないくらいには回れます」
「それなら十分ですね」
「そうだといいんですけど」
組み合わせ表によると、夏美は田辺と、取引先の役員である黒田、そして黒田と同じ会社の部長と同じ組だった。
黒田は取引先の役員で、システム関連部門を統括している。夏美は名前を聞いたことがあったが、直接話したことはない。田辺から聞く限り、落ち着いた物腰の人物らしい。
その黒田が、組み合わせ表を確認しながらこちらへ歩いてきた。
「田辺さん、おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「黒田さん、おはようございます。こちらこそよろしくお願いします」
田辺が少し背筋を伸ばす。夏美も軽く会釈した。
「森咲さんですね。今日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします、黒田さん」
黒田は一瞬、夏美の顔を見た。きちんとした身だしなみと自然な笑顔。田辺の隣にいることもあり、取引先との関係を担当する営業職なのだろう、と黒田は思ったらしい。
「田辺さんと同じ会社で、取引先を担当されているんですか?」
「ええ、まあ。今日は仕事抜きで、楽しく回りましょう」
夏美は細かい仕事の話を始めるより、まずはこの場を楽しむのがよさそうだと思い、そう答えて笑った。
「それが一番ですね。私も今日は、仕事の話は忘れて楽しみたいと思っています」
黒田も笑い、同じ組の部長を交えてコースや天気の話を始めた。夏美は誰かの話を遮らず、自然に相手へ質問を返す。黒田は、彼女の受け答えを見て、やはり営業の人なのだろうと感じていた。
スタートの時間が近づき、一行は一番ホールへ向かった。
ティーグラウンドに立った夏美は、コースを見渡した。フェアウェイは広く、右側に浅いバンカーがひとつ。奥には木立がある。風は左から吹いているが、強くはない。
黒田が先にティーショットを打つ。ボールはフェアウェイの中央より少し右へ飛んだ。続いて部長、田辺。田辺のボールは右へ曲がったものの、ぎりぎりラフに残った。
「残りましたね、田辺さん」
「はい。もう今日は、なくさなければ勝ちということで」
「その目標なら、かなりいいスタートです」
夏美はティーにボールを置いた。
ドライバーを構える。視線をボールに落とし、肩の力を抜く。いつものように、余計なことを考えない。
打球音が、朝の空気を切った。
白いボールは高く上がり、フェアウェイの中央へ伸びていく。落下したボールは軽く弾んでから止まった。
「おお……」
田辺が声を漏らした。
「見事ですね」
黒田も、少し感心したようにうなずいた。
「ありがとうございます。風が弱くて助かりました」
夏美はクラブを戻し、カートに乗り込んだ。
プレーが始まると、会話は途切れなかった。黒田が最近の出張の話をすれば、夏美は行き先や食べ物の話を返す。部長が家族の話をすれば、聞き役に回り、話の続きを促した。田辺が仕事での失敗談を話し始めたときも、夏美は笑いながら、ただ笑いものにしない言葉を添えた。
「それ、焦りますよね。でも、早めに気づいてよかったです」
「そうなんです。あのときは本当に肝が冷えました」
「次に同じことが起きないように、もう対策されたんですか?」
「一応、チェック項目を増やしました」
「いいですね。失敗を覚えているだけじゃなくて、仕組みにできたなら、もう一歩進んでます」
田辺は「ありがとうございます」と頭をかいた。
黒田が二人のやりとりを聞いていた。
「森咲さんは、話を引き出すのがお上手ですね」
「そうでしょうか」
「話を奪わないし、相手が話しやすいところで次の質問をする。営業の方らしいというか」
黒田は感心したように笑った。夏美の受け答えは自然で、相手の話を邪魔せず、それでいて会話を止めない。黒田には、経験のある営業担当のように見えていた。
「営業の方にはかないませんよ」
「ご謙遜を。田辺さんも頼りにされているんじゃないですか?」
「それは、どうでしょう」
田辺が苦笑する。
「田辺さんは、いつもお客様の事情をよく考えて動いてくれていますよ」
夏美がそう言うと、田辺は少し照れたように目を伏せた。
「お二人は息が合っていますね」
「同じ会社ですから」
「それだけではなさそうですが」
黒田が冗談めかして言うと、田辺は「そんなことないですよ」と慌てて返した。夏美は楽しそうに笑った。
午前のラウンドが進むにつれて、黒田も部長もすっかり打ち解けていった。会話は仕事から離れ、若いころの失敗や最近始めた趣味の話に移っていく。
昼食を挟んで午後のラウンドに入るころ、黒田がふと思い出したように尋ねた。
「森咲さんは、営業のお仕事を長くされているんですか?」
「営業ではないんです」
「そうなんですか。失礼しました。話し方がとても自然なので、てっきり」
「いえ、よく言われます」
「では、どんなお仕事を?」
「システムエンジニアです。今は、こちらの会社に常駐しています」
黒田が、意外そうに目を瞬かせた。
「うちに、ですか?」
「はい。黒田さんの会社のシステムを担当しています。ただ、黒田さんと直接お会いする機会はなかったので、ご存じなくて当然です」
「そうでしたか。私はてっきり、田辺さんと同じ営業の方かと」
「田辺さんの隣にいると、そう見えることもあるみたいです」
黒田は驚いた表情のまま、何度かうなずいた。
「システムエンジニアというと、開発をされているんですか?」
「開発にも関わりますし、インフラにも関わっています。システムの基盤や運用を見ながら、必要に応じて機能の改善や開発側との調整もします」
「インフラも開発も、両方ですか」
「はい。どちらか一方だけでは解決できないこともありますから。たとえば、画面の使いにくさに見える問題でも、実は運用の流れやシステムの構成が関係していることがあります」
「なるほど……」
「まずは、実際に使っている方の話を聞いて、どこで何が起きているのかを整理します。要望どおりに作れば解決するとは限らないので」
黒田はフェアウェイの先を見た。少し考え込んでいるようだった。
「森咲さんがうちに常駐しているとは知りませんでした」
「私は現場にいることが多いので、役員の方とお話しする機会はあまりありません」
「現場の方とは、普段からよく話をするんですか?」
「はい。問い合わせに対応したり、困っていることを聞いたりします。インフラと開発の両面から状況を見て、どこを変えればよくなるのかを考えるのも仕事です」
「その考え方は、うちの現場にも必要かもしれません」
「必要なら、現場の人たちの話を聞くところからですね。答えは、会議室だけでは見つからないことがあります」
「ぜひ、一度相談させてください」
「田辺さんを通していただければ。現場の方にも同席してもらえると、実際の状況がわかりやすいです」
「わかりました。そうします」
そこへ田辺が、少し離れたところから声をかけた。
「黒田さん、次は黒田さんの番ですよ」
「ああ、失礼しました。つい話し込んでしまいました」
「仕事の話は、ゴルフのあとでもできますよ」
夏美が言うと、黒田は笑った。
「そうですね。今日はまず、ゴルフに集中します」
その後も、夏美は安定したプレーを続けた。無理な場面では確実なクラブを選び、パットを外しても表情を変えず、次の一打に気持ちを切り替える。
田辺は何度かボールを曲げたものの、宣言どおり、ひとつもなくさずに回り切った。
ホールアウトしたとき、夏美のスコアは黒田を少し上回っていた。黒田もそれを知ると、感心したように笑った。
「森咲さん、やっぱりお上手ですね。今日は私の完敗です」
「黒田さんも安定していましたよ。ご一緒できて楽しかったです」
「私もです。またラウンドをご一緒したいですね」
「ぜひ。コンペじゃなくても」
夏美がそう答えると、黒田はうれしそうにうなずいた。
「では、次はコンペではなく、ゆっくり回れる日にお誘いします」
「楽しみにしています」
クラブハウスに戻ると、参加者およそ七十人のコンペの表彰式が始まった。順位は、実際のスコアにハンディキャップを加味したネットスコアで決まる。
名前が呼ばれ、夏美は三位に入賞した。田辺が隣で小さく拍手する。
「森咲さん、三位ですよ。すごいですね」
「運がよかったんだと思いますよ」
賞品を受け取って席に戻ると、黒田が笑顔で声をかけた。
「三位入賞、おめでとうございます。スコアも私よりよかったですし、参りました」
「ありがとうございます。今日は黒田さんとご一緒できて、楽しかったです」
「私もです。またラウンドをご一緒したいですね」
「ぜひ。コンペじゃなくても」
夏美がそう答えると、黒田はうれしそうにうなずいた。
「では、次はコンペではなく、ゆっくり回れる日にお誘いします」
「楽しみにしています」
表彰式のあと、黒田は帰り際に夏美へ向き直った。
「今日はありがとうございました。森咲さんがうちに常駐していると知って、驚きました」
「私も、黒田さんとこうしてお話しするのは初めてでした」
「現場の業務について、改めて相談させてください。現場の方にも同席してもらいます」
「はい。インフラと開発の両方から状況を見ながら、まずは現場の方のお話を聞かせてもらえればと思います」
「お願いします」
黒田は握手を求めた。夏美はそれに応じた。手を離すと、黒田は同じ会社の部長と一緒に出口へ向かっていった。
田辺が、少し遅れて夏美の隣に並ぶ。
「黒田さん、驚いていましたね」
「私が営業だと思われていたみたい」
「そう見えたんでしょうね。話し方も上手だし、雰囲気も営業っぽいですから」
「田辺さんの隣にいたからじゃない?」
「それもあるかもしれません」
田辺は少し考えてから続けた。
「でも、黒田さんから現場の相談をもらえたのは、森咲さんがちゃんと話を聞いたからだと思います」
「まずは、現場の方の話を聞いてからですね。何が問題なのか、まだわからないんだから」
「そうですね。現場の方も同席できるよう、田辺から黒田さんに調整します」
「お願いします」
駐車場までの道を歩きながら、田辺は今日のラウンドの話を続けた。夏美は相づちを打ちながら、夕方の空を見上げた。朝と同じように、雲はほとんどない。
翌朝、いつものように出社した夏美のもとへ、田辺からメッセージが届いた。
『昨日はありがとうございました。黒田役員から、現場の業務について相談したいと連絡がありました。現場の方にも同席してもらう方向で調整します』
夏美は短く返信した。
『ありがとうございます。まずは現場の方の話を聞かせてもらいましょう』
返事を送って、彼女はノートパソコンを開いた。
画面には、未処理の問い合わせが並んでいる。
夏美は一番上の項目をクリックした。
いつもの仕事が、始まる。




