1月 失恋を癒す
ようこそおいでくださいました。
聖女がつくる和菓子店です。
今のあなたが求める一口をどうぞ。
クルスマスイブを目前に8年間付き合った恋人と別れた櫻子は、年季の入った焦茶の木製看板に書かれた黒い文字を目で追った。今日も泣き腫らした目は乾き、マスカラは落ちている。失恋から二週間以上経過しても心の傷は癒えず、独りで帰宅していると涙が止まらなくなる。
この怪しい扉を開けようかと悩んでいると、自動ドアのように音を立てずにすっと扉が開いた。
「どうぞ」
中から青年が現れた。黒髪に黒いシャツと黒いパンツ。片耳に銀色の鍵のモチーフのピアスが揺れる。アンティークの鍵のように見えるが、とても小さくて精巧な作りなので櫻子からは良く見えない。
「お入りください」
青年に促され、櫻子が狭い小さな扉をくぐって入ると、店内は真っ暗だった。目が慣れてくると、うっすらと奥に裸電球の照明に照らされたカウンターが見える。カウンターに近づくと、何も無い。
怪訝な顔で櫻子が和菓子店マスターの青年を見る。
青年は柔らかい笑みを浮かべる。
「今日は寒いですね。外は雪が降っていましたか?」
唐突に何だろうと思いながら、櫻子は答える。
「ええ。雪が降り始めました」
「そうですか」
カウンター前の一つしかない椅子に座る。暖かいおしぼりを渡される。
カウンター上部の電球がゆらゆらと揺れる灯を放つ。
目線を手元に戻すと、白い無地の懐紙の上に小さな丸い饅頭がある。
「召し上がってください。お代は既に頂いておりますので、お気になさらずに」
いつお代を払ったのだろうかと思いつつ、ぱくっと一口で食べる。
「雪輪まんじゅうです」
「雪輪?」
櫻子が咀嚼し終わると、青年の言葉を繰り返す。聞いたことがない言葉。
「雪が結晶した形です」
丸い饅頭だが、確かに雪の結晶を連想させる形状をしていた。
甘い餡が口に広がる。
走馬灯にように別れた恋人との思い出が巡る。今はとにかく悲しいけれど、楽しいことも沢山あった。涙がまた落ちるが、顔は穏やかである。
「美味しい……」
溜息をついて目を閉じる。
目を開ける。
櫻子は、東京下町の路地に立っていた。いつも帰り道に通る路地。朝は最短の大通りを選ぶが、帰りはうねうねとその日の気分で路地を曲がる。狭い間口の町屋が連なり、植木鉢が並ぶ。足元には雪が積もっている。
うおっ、寒い。
私はいま、何をしていたのだろう。口の中がほんのり甘い。心が軽くて、暖かい。
櫻子は路地の街灯に照らされた夜道を足早に帰る。
「ご苦労様です。マスター」
小柄な少女が、和菓子店マスターの青年に近づく。深くフードを被っているため、表情が見えない。三つ編みのお下げが両肩から見える。
「聖女こそお疲れ様。今日は閉店でいいかな?」
黒いダウンを来た青年はちらちら舞う雪の中、櫻子の背を目で追いながら白い息を吐く。ダウンのポケットに両手を入れ、ブルっと震える。
「うん、たぶん閉めて良いと思う。和菓子のストックないし」
「もっと作れよ」
大学3年生の青年は、砕けた口調で年下の聖女を諭す。
「そんなに働きたくないです」
「出た、聖女の怠け癖が」
「じゃ、帰るね」
聖女は黒いローブを引きずり歩き出す。魔女ような出立だが、一応聖女だ。
青年が片耳のピアスを外し手の平に載せると、小さな銀の鍵が通常の鍵の大きさになる。細かい彫刻が施されている。
路地の中央に立ち、宙に鍵を挿す。透明の扉が開き、聖女は扉の中に消えた。
ガチャリと見えない扉が閉まる音がし、鍵が青年の手に戻ると元のピアスに戻る。慣れた手つきで耳につける。
青年は路地を後にする。
路地には3人分の足跡が、雪の上にうっすらと残っていた。




