第30話 創設準備会員
翌朝、金獅子亭の入口には新しい木札が掛けられた。
【創設準備会員 少数募集】
文字は大きすぎず、小さすぎず。
普段の料理札や酒の値段札とは違い、少しだけ丁寧に削られた板を使っている。マルクが「そんな札に良い板を使うのか」と渋い顔をしたが、俺は譲らなかった。
未来を売るなら、最初に目に入るものから粗末にしてはいけない。
看板は約束だ。
客はその木札を見て、まだ存在しない店を想像する。なら、その想像の入口になる板が雑では困る。店がない今、俺たちが見せられるものは少ない。だからこそ、見せられるものは丁寧にする必要がある。
朝の光を受けて、木札の文字が静かに浮かび上がっていた。
通りを行く人々は、いつものように一度通り過ぎ、それから少し戻ってくる。
「創設準備会員?」
「何の会員だ?」
「また金獅子亭が変なことを始めたぞ」
「冷たい酒の次は何だ?」
噂になる。
それでいい。
むしろ、噂にならなければ失敗だ。
ただし、今回は酒の噂とは違う。商品名を聞けば分かるものではない。未来の店、会員、優先権。説明が必要な商売だ。だから今日の俺は、いつものようにカウンターの奥で酒だけ作っていればいいわけではなかった。
説明する。
納得してもらう。
疑問を受ける。
断るべき相手は断る。
その全部をやる日だった。
「顔が固いぞ」
店の中で、マルクが笑った。
「固くもなります」
「ビールを初めて出した時より緊張してるな」
「酒は飲めば分かります。でも会員は、飲んでも分からないので」
「未来を飲ませるわけにはいかねえからな」
「そういうことです」
マルクは腕を組み、少しだけ真面目な顔になった。
「無理に売るなよ」
「分かっています」
「少数募集って書いた以上、売れなくても焦るな」
「はい」
「あと、変な奴に売るな」
「それが一番大事です」
俺は深く頷いた。
創設準備会員。
それは資金調達であると同時に、最初の顧客選びでもある。
誰でもいいから金を集めるのではない。むしろ、最初に誰を入れるかで店の未来が決まる。金を持っていても、危険な客は入れない。乱暴な客も駄目だ。女の子を下に見る客も駄目だ。会員権を盾に特権を振りかざす客も駄目だ。
ここで間違えたら、俺の店は開く前から歪む。
その怖さがあった。
◇◇◇
昼営業が始まる前、俺はリリアと一緒に女性席の準備をした。
白い小花を新しいものに替え、テーブルの布を整え、蜂蜜果実焼きの小皿を並べる。冷やし果実酒用の氷は、昨日より少し小さく、光を受けた時に綺麗に見える形にした。
最近、俺は氷の形にもこだわるようになっている。
最初は冷やせればいいと思っていた。
だが今は違う。
氷は、見られる。
氷が入った瞬間の音。
カップの中で揺れる光。
客がそれを見て、少しだけ特別な気分になる。
それも商品だった。
リリアは席の横で、少し緊張した顔をしていた。
「今日、エミリアさん来るかな」
「来ると思う」
「第一号になるんだよね?」
「本人がそう言ってくれた。でも、正式に説明してからだ」
「断られることもある?」
「ある」
「……そっか」
リリアの声に、少し不安が混じる。
俺は彼女を見る。
「断られても失敗じゃない。むしろ、納得できない人に無理に入ってもらう方が失敗だ」
「うん」
「会員は、ただの客じゃない。店を作る最初の仲間に近い。だから、ちゃんと分かって入ってもらう」
「仲間……」
リリアはその言葉を繰り返した。
「私も、そういうふうに説明すればいい?」
「うん。ただし重く言いすぎなくていい。女性客には、安心して使える場所を作る準備をしている、と伝えてくれればいい」
「分かった」
彼女は深呼吸した。
「大丈夫。昨日よりは怖くない」
「いいね」
「でも、ちょっと怖い」
「それくらいでいい」
リリアは小さく笑った。
◇◇◇
昼の最初の客は、最近よく来る若い女性二人組だった。
リリアはすぐに顔を明るくした。
「いらっしゃいませ。今日も軽めにしますか?」
「今日は甘めも試してみようかしら」
「でしたら、蜂蜜果実焼きを小さめにして一緒に出せます。甘さが重なりすぎないようにできますよ」
自然な提案だった。
以前なら、ただ「甘めですか、軽めですか」と聞くだけだった。今は相手の好みと商品を組み合わせている。接客が少しずつ「作業」から「提案」へ変わっていた。
二人は嬉しそうに注文し、席へ座る。
少し落ち着いたところで、リリアが木札の話をした。
「今日から、レンが考えている新しいお店の創設準備会員を少しだけ募集することになったんです」
「新しいお店?」
「はい。まだ準備中なんですけど、女性だけでも入りやすくて、冷やし果実酒やお菓子をゆっくり楽しめる場所にしたいって」
「女性だけでも?」
「はい。席の場所や荷物置き、帰りの見送りも考えています」
二人の表情が変わった。
そこだ。
優先席や限定酒よりも、「女性だけでも入りやすい」の方が刺さる。
この世界の女性にとって、酒場はまだ男の場所という印象が強い。そこに入るには勇気がいる。だから、その不安を取り除く言葉が必要だった。
「詳しく聞ける?」
一人が言った。
リリアがこちらを見る。
俺は頷いて席へ向かった。
「レンです。まだ正式な開店前の準備ですが、少数だけ会員を募集します」
俺はゆっくり説明した。
昼会員は、女性客や落ち着いた利用をしたい客向けであること。
開店時に優先的に席を用意すること。
新しい冷やし果実酒や菓子の試食会へ招待すること。
会員であっても、店の規律を守る必要があること。
開店できなかった場合、一定期間内に返金すること。
話しながら、相手の顔を見る。
興味。
不安。
期待。
二人は真剣に聞いていた。
そして片方が少し遠慮がちに尋ねた。
「私たちみたいな普通の商家の娘でも、会員になれるんですか?」
その問いに、俺は少し胸が痛くなった。
彼女たちは、どこかで「自分たちは対象外かもしれない」と思っている。貴族や大商人だけのものではないか、と。
だから、俺ははっきり答えた。
「なれます。ただし、人数を絞るので、こちらでも確認はします。金額よりも、店を大事に使ってくれる方を優先します」
二人は顔を見合わせた。
その表情に、少し安心が広がる。
「考えてもいいですか?」
「もちろんです。今日決める必要はありません」
俺がそう言うと、彼女たちはほっとしたように笑った。
無理に即決させない。
これも大事だ。
未来を売る商売で焦らせると、不信感が残る。悩んで、納得して、入ってもらう。最初の会員ほど、その過程を丁寧にしなければならない。
リリアが小声で言った。
「押さないんだね」
「押さない」
「でも、ちょっと入りたそうだった」
「だからこそ押さない。自分で決めたと思ってもらう方が長く続く」
リリアは真剣に頷いた。
また一つ、接客の引き出しが増えた顔だった。
◇◇◇
昼の半ば、エミリアが来た。
今日は落ち着いた深い緑の外套を羽織っている。派手ではないが、布の質が良く、歩き方にも品があった。店へ入ると、木札を一度見て、少しだけ口元を緩める。
「始めたのね」
「はい」
俺は頭を下げた。
リリアが席へ案内する。
エミリアはいつもの女性席に座り、冷やし果実酒の軽めと蜂蜜果実焼きを注文した。すでに常連の風格がある。
俺は会員案を書いた羊皮紙を持って、席へ向かった。
「正式な説明をさせてください」
「聞きましょう」
エミリアは姿勢を正した。
俺は昼会員の内容を一つずつ説明した。
優先席。
試飲会。
菓子の試作会。
女性席の設計への意見反映。
荷物置き。
見送り。
店の規律。
返金条件。
人数制限。
エミリアは途中で何度か質問した。
「昼会員と夜会員は、席を共有するの?」
「時間帯で分けます。昼会員向けの席を夜に使う場合もありますが、女性席としての雰囲気は守ります」
「会員の家族や知人を連れて行ける?」
「同伴は可能にします。ただし人数制限を設けます。紹介客にも店の規律を守ってもらいます」
「会員証は?」
「木札を作る予定です。番号と名前を入れます」
「名前を表に出したくない人は?」
盲点だった。
俺はすぐにメモを取る。
「名簿は非公開にします。木札も本人が望む名前で作れます」
エミリアは満足そうに頷いた。
「大事よ。女性の中には、酒場の会員になったと知られたくない人もいるわ」
「ありがとうございます。修正します」
「なら、私は入るわ」
静かな言葉だった。
だが、その重みは大きかった。
昼会員第一号。
商家の女性たちに顔が広く、店の改善にも意見をくれるエミリア。
この人が第一号になってくれる意味は、かなり大きい。
「本当に、よろしいんですか?」
「ええ。ただし、条件は昨日言った通り。女性席の設計に意見を入れること。リリアさんをきちんと育てること。あともう一つ」
「何でしょう」
「女性客の安全を、売り文句ではなく実際に守ること」
俺は背筋を伸ばした。
「約束します」
「なら、応援するわ」
エミリアは小さな革袋を取り出し、机に置いた。
会費だった。
俺は一瞬、それを受け取る手が止まった。
金だ。
未来の店のための、最初の金。
ただの売上ではない。
信用の形だ。
俺は両手で革袋を受け取った。
「ありがとうございます。必ず、形にします」
「期待しているわ」
エミリアは冷やし果実酒を一口飲み、静かに微笑んだ。
その瞬間、俺の店はまだ存在しないまま、最初の会員を得た。
胸の奥が熱くなる。
怖さもある。
だが、それ以上に進んだ実感があった。
◇◇◇
夜営業が始まる頃には、木札の噂はすでに冒険者たちの間にも広がっていた。
「レン、未来の店を売ってるんだって?」
「俺にも一口乗らせろよ」
「限定酒が飲めるなら考える」
「女の子と話す店って本当にやるのか?」
荒い声が飛び交う。
昼の女性客とは反応が違う。
興味の表し方が直接的で、雑で、少し危ない。だが、それも客層の違いだ。夜会員はこちらの熱を扱わなければならない。
ガイルはいつもの席で腕を組んでいた。
「で、俺は第一号になれるのか?」
「審査中です」
「まだかよ」
周囲の冒険者たちが笑う。
ガイルはむっとした顔をするが、本気で怒ってはいない。
俺は夜会員の案を持って、彼の席へ向かった。
「説明します」
「おう」
「夜会員は、開店時の優先入店、限定酒の先行提供、氷入り酒の専用席利用、ボトル保管の権利を予定しています」
「ぼとるほかん?」
「自分の酒を店に預けて、次に来た時も飲める仕組みです」
「そんなことできるのか?」
「できます。酒を毎回買い切るのではなく、自分の酒として店に置く。客は特別感を持てますし、店は継続来店につながる」
ガイルは目を丸くした。
周囲の冒険者たちもざわつく。
「自分の酒が店に置いてあるって、なんか偉くなった気分だな」
「そこが狙いです」
「正直だな」
「嘘をつく必要がないので」
ガイルは笑った。
「面白い。入る」
「まだ最後まで説明してません」
「規律の話だろ?」
「はい。会員であっても、女の子への暴言、無理な接触、泥酔しての迷惑行為、暴力、未払いは退店または除名です」
「問題ねえ」
「紹介客が問題を起こした場合、紹介した会員にも責任が発生します」
ガイルの表情が少し真面目になった。
「なるほど。変な奴を連れてくるなってことか」
「はい」
「いい仕組みだ。俺は賛成だ」
周囲の冒険者たちの中には、少し気まずそうな顔をする者もいた。おそらく、自分は入れないかもしれないと思ったのだろう。
それでいい。
最初から全員を歓迎する必要はない。
店の規律に合う客だけを選ぶ。
ガイルは革袋を出した。
「払うぞ」
俺はそれをすぐには受け取らなかった。
「一つ確認します」
「何だ?」
「リリアが将来この店で働くとして、彼女が嫌がることをする客がいたら、あなたは止められますか?」
ガイルの目が鋭くなった。
「当たり前だ」
「リリア以外の子でも?」
「ああ」
「なら、夜会員第一号としてお願いします」
ガイルは一瞬だけ驚いた顔をした。
それから、照れくさそうに鼻を鳴らした。
「最初からそう言え」
「審査です」
「偉そうになりやがって」
周囲から笑いが起こる。
だが、その笑いは温かかった。
ガイルは革袋を机に置いた。
俺はそれを受け取る。
夜会員第一号。
冒険者の顔役であり、リリアを守る意志を持つ男。
悪くない。
いや、かなり良い。
この男が最初なら、夜の空気も作りやすい。
◇◇◇
だが、すべてが順調というわけではなかった。
夜の中盤、一人の商人風の男が木札を見て声をかけてきた。
身なりは良い。
指には高そうな指輪。
腹の出た体に、香の匂いが強い外套。
金はありそうだった。
だが、近づいてきた瞬間、俺の胸に嫌な感覚が走った。
全鑑定。
――――――――
名前:モリス
年齢:41
職業:交易商
状態:軽度酩酊
性格傾向:支配欲が強い/女性軽視/見栄っ張り
現在の目的:特別会員権の取得/優越感の獲得/女性接客への過度な期待
警戒度:高
推奨対応:販売非推奨
――――――――
来た。
金はあるが、入れてはいけない客。
モリスは笑いながら言った。
「特別会員というのは、いくらだ? 私は払えるぞ」
周囲の視線が集まる。
ガイルもこちらを見た。
バルドは少し離れた席で静かに観察している。
ここが試される場面だと分かった。
金を出す客を断れるか。
規律を守れるか。
俺は営業スマイルを浮かべた。
「ありがとうございます。ただ、特別会員は金額だけではなく、店の規律に同意していただける方に限っています」
「規律?」
モリスは鼻で笑った。
「金を払う客に規律を求めるのか?」
その一言で、俺の中の警戒が確信に変わった。
駄目だ。
この客は入れてはいけない。
「はい。うちはそういう店にする予定です」
「面白い。なら、その規律とやらを守るから売りなさい」
「申し訳ありません。特別会員は本日即決では販売していません」
「なぜだ?」
「審査があります」
店内が少し静かになった。
モリスの笑顔が消える。
「私を審査すると?」
「はい」
「身元不明の若造が?」
嫌な空気が流れる。
だが引けない。
ここで売れば、全部が崩れる。
「店の安全を守るためです」
俺は静かに答えた。
「金額に関係なく、全員に同じ確認をしています」
「私は金を出すと言っている」
「ありがとうございます。ですが、今ここで販売はできません」
モリスの顔が赤くなる。
彼は周囲の目を気にしている。
自分が断られたと見られるのが不快なのだろう。
「後悔するぞ」
低い声だった。
前世でも何度も聞いた種類の声だ。
金を使う客が、断られた時に見せる圧。
だが俺は、笑顔を崩さなかった。
「ご期待に沿えず申し訳ありません」
モリスは舌打ちし、乱暴に外套を翻して店を出ていった。
扉が閉まる。
店内に沈黙が残った。
数秒後、ガイルが大きく笑った。
「審査落ち第一号だな!」
店内に笑いが広がる。
空気が戻った。
俺は内心で深く息を吐いた。
助かった。
ガイルが笑いに変えてくれたことで、場の重さが消えた。夜会員第一号として、さっそく役に立っている。
マルクがカウンターの奥から小さく頷いた。
バルドも、満足そうに目を細めていた。
金を断った。
それは今日、一番大事な出来事だったかもしれない。
◇◇◇
閉店後、金獅子亭の奥のテーブルには三つの革袋が置かれていた。
昼会員第一号、エミリア。
夜会員第一号、ガイル。
そして、夕方に申し込んだ若い商人の昼準備会員一名。
たった三人。
だが、重みは十分だった。
マルクは革袋を見ながら言った。
「初日に三人か」
「多すぎるくらいです」
「もっと売れそうだったけどな」
「売りませんでした」
「モリスを断ったしな」
マルクはにやりと笑う。
「よく断った」
「怖かったです」
「だろうな」
バルドが静かに口を開いた。
「だが、あの判断は良い。今日の話は広がる」
「悪く広がりませんか?」
「もちろん悪く言う者もいる。だが、金を積んでも入れない客がいる、という噂は店の格を作る」
「格……」
「誰でも入れる店ではない。規律のある店だ。そう認識されれば、良い客は安心する」
俺はゆっくり頷いた。
前世でも同じだった。
入店審査。
会員制。
迷惑客の出禁。
それは時に反感を生むが、同時に店の空気を守る。客を選ぶ店は、選ばれた客に優越感と安心感を与える。
ただし、やりすぎれば傲慢になる。
その線引きが難しい。
「明日以降、モリスのような客が増えるかもしれません」
俺が言うと、バルドは頷いた。
「増えるだろう。特別会員という言葉は、見栄っ張りを引き寄せる」
「対策します」
「特別会員は、しばらく売らなくてもよい」
「え?」
「まず昼と夜の通常会員を固めなさい。特別会員は、欲しがらせてから売る」
マルクが笑った。
「また限定を焦らすのか」
「価値は、すぐ渡さないことで育つ」
バルドの言葉は商人そのものだった。
俺はメモを取る。
特別会員、即売禁止。
審査制。
推薦制も検討。
会員制度は、思っていた以上に奥が深い。
だが面白い。
これは酒よりも、もっと人間の欲に近い商売だ。
選ばれたい。
認められたい。
特別扱いされたい。
その欲を扱う。
扱い方を間違えれば危険だが、正しく設計すれば店の強い柱になる。
リリアは革袋を見つめて、ぽつりと言った。
「これが、未来のお店のお金なんだね」
「うん」
「なんか、重いね」
「重いよ」
俺は革袋を一つ手に取った。
中身は硬貨だ。
ただの金属。
だが今日は、それ以上の重みがあった。
信用。
期待。
不安。
全部が詰まっている。
「絶対に無駄にできない」
俺は静かに言った。
リリアが頷く。
マルクも、バルドも、何も言わなかった。
その沈黙が、逆に心地よかった。
◇◇◇
その夜、ギルドへ戻る道で、俺は一人だった。
リリアは疲れて金獅子亭の二階で少し休ませてもらっている。マルクは売上の確認、バルドは馬車で帰った。俺は会員申込の控えを抱え、夜の通りを歩いていた。
石畳は夜露で少し湿っている。
遠くの酒場から笑い声が聞こえる。
空には星が広がっていた。
革袋の重みが腰にある。
たった三人分。
でも、俺にとっては初めての資金だった。
自分の店のために、客から預かった金。
前世の俺は、店の売上を何度も数えた。
高い酒が入った夜、イベントが成功した夜、指名が伸びた夜。黒服として数字を見て、店長に報告し、キャストを褒めた。
でも、それは自分の店の金ではなかった。
今日は違う。
この金は、俺が作る店のための金だ。
怖い。
本当に怖い。
だが同時に、どうしようもなく嬉しかった。
「始まったな」
思わず呟いた。
酒を売る段階から、店を売る段階へ。
俺は一歩進んだ。
もちろん、まだ遠い。
物件契約もしていない。
家具も試作中。
女の子もリリア以外いない。
会員も三人だけ。
それでも、確かに始まった。
その時、ふと背後に気配を感じた。
振り返る。
通りの角に、一人の男が立っていた。
昼に断った交易商、モリスではない。
だが、見覚えのある商会服。
胸元に小さな酒樽の意匠。
バルド酒商会の関係者。
いや。
俺はすぐに全鑑定を使った。
――――――――
名前:不明
所属:カイル派の商会員
状態:警戒/観察中
現在の目的:創設会員制度の情報収集/レンの資金状況確認
警戒度:中
――――――――
やはり来た。
会員制度は、すぐに敵の耳にも入る。
資金を集め始めたということは、俺が本格的に店を持つ可能性が出てきたということだ。
なら、妨害も次の段階へ進む。
男は俺と目が合うと、すぐに路地へ消えた。
追わなかった。
追う必要はない。
ただ、胸の奥に静かな緊張が戻ってくる。
商売は動いた。
味方も増えた。
金も集まり始めた。
だからこそ、敵も動く。
俺は夜道に立ち、革袋を握った。
「来るなら来い」
小さく呟く。
怖さはある。
だが、もう止まるつもりはなかった。
俺は酒で死んだ。
だから今度は、酒と夜を自分の手で作る。
その第一歩として、今日、未来の席は売れた。
そしてその未来を守るための戦いも、同時に始まったのだった。
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