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エピローグ

『 親愛なるオルト兄さま


  前略


  お元気ですか。

  ご活躍の評判は、遠くヘルネまで届いております。


  すでにルーファスから聞き及んでいることと思いますけど、先日の

 一件については、無事にきまりが付きました。

  リッテンヴァイラーでのヒューベルトの様子は、如何ですか?

  生真面目な彼のことですから、必要以上に周りに遠慮して、肩身の

 狭い思いをしていないかと心配です。


  ……ところで、クレメンスとローレンツの両名ですが、二人を突然

 ヘルネへ遣わしたことについては、少し私の思うところをお話させて

 頂かねばなりません。

  前々から何度も申し上げておりますが、兄さまは心配性が過ぎます。

  ルーファスからも説明があったことと思いますが、この町には常時

 三〇名以上の衛兵が警備にあたっており、近隣の砦にはレムシャイト

 の正規兵が待機しています。ターレの駐屯地も遠くありません。

  いざというときは、充分な兵力がこの町の警護に控えていますし、

 私自身も「魔法」の心得があるのは、よくご存知のことかと思います。

  私個人の安全を確保するには、充分な環境です。


  にも関わらず、どうしてクロイツナッハの軍事で枢要な役目にある

 人物を、私の身辺に二人も派遣なさったのでしょうか。

  いくらクロイツナッハがアステルライヒ中央部に近く、敵国と直に

 土地を接していないとはいえ、さすがに防備が疎かになっているよう

 に懸念されます。

  ましてや、クレメンスがリッテンヴァイラーを離れたとき、兄さま

 はまだモスバッハ奪還の陣中にあったはず。火急に傭兵部隊の動員を

 迫られたら、誰にこれを統率させるおつもりだったのですか。

  かの傭兵隊長のように傑出した武将を、こうした折に本来の任から

 遠ざけるのは、私にはあまり好ましく思われません。

  たった一人の指揮官は、一〇〇人の兵士を、獰猛な狼にも臆病な羊

 にも変えてしまうものです。

  歴戦の英雄たる「神槍の黒騎士」オルトウィーンともなれば、それ

 を当然弁えているはずでしょうに、なぜあえて兄さまはしばしば筋道

 を外れたご判断をなさるのか……

                                 』



     ○  ○  ○




「――はああぁ~っ。もう、なんだかしっくり来ないわねぇ……」


 ニーナは、羽根ペンを動かす手を止め、大きく呼気を吐き出した。

 机の上の羊皮紙を文頭から読み返し、複雑な面持ちで思案する。いったんペンを置いて、脇のちいさな黒板を手繰り寄せ、手控えた下書きの内容と、清書の文面を見比べた。

 左手で額に掛かった金髪を掻き揚げ、眉根を寄せつつ唸り続ける有様は、こういうときの彼女にありがちなのだが、相も変わらず美少女台無しである。

 とはいえ、この手紙の執筆に際しては、すでに羊皮紙三枚も書き直しているのだ。あまり余計な無駄を重ねたくなかった。


「やっぱり、オルト兄さまとのやり取りだと、色気のない話ばかりになっちゃうのがいけないのかしら。でも、殊更情緒のある(ふみ)のやり取りをするような間柄でもないからなあ……」


 ニーナは、座ったまま腕組みして、ぶつぶつと独り言を漏らす。

 男女間の情緒ある書簡のやり取り……と、改めて頭の中で反芻し、他の町娘から依頼を請けた恋文の内容に思い至って、反射的に身体を震わせた。鳥肌が立ってしまう。どうにもああいった種類の文章は、彼女の守備範囲外なのだった。

 以前に市場であった出来事以降、もっと恋文の代筆は減少するかと思っていたのに、今も結局発注数は大差ない。

 いや、ニーナの予想通り、たしかにルーファス宛の恋文は減った。しかし、単に、送る相手がルーファスから別の男性に代わっただけ、という町娘たちのなんと多いことか――

 たぶん、恋愛に対する欲求は、生まれながらの体質みたいなものなのだ、とニーナは近頃よく思う。女性によっては、水や食料と同じように、摂取せずに耐えられないのかもしれない。

 いずれにしろ、ニーナが恋文の代書依頼に苦悩する日々は、今後もずっと続きそうだった。


「……だいたい、なんでオルト兄さまの独断について、私がいちいち訓戒しなきゃならないのよ。今の私は、ただの平民の娘だっていうのに」


 ニーナは、椅子の背もたれに深く上体を預け、うんざりした口調で愚痴った。

 疑問の答えは(あくまで彼女の主観に基づけば)、実際のところ明確である。

 結論から言えば、何を措いてもニーナ最優先で、心配性のオルトウィーンが悪いのだ。

 たまに彼女が意地悪く我が侭を押し付けても、かえって頼りにされているとでも感じるのか、鷹揚に対応されてしまうので、対処の手段がない。

 下手に器量の大きい人物から、過度の忠誠を尽くされるというのも、こうなると考え物だった。



 ニーナがそうして物思いに耽っていると、この日も部屋のドアを叩く音が聞こえてきた。

 木製の扉の向こう側から、いつものナスターシャの声がする。


「――ニーナ。私だけど、今忙しくないかな?」


「ええ、大丈夫よ。すぐに開けるわ、待ってて」


 ドアを開けると、ナスターシャが焼き菓子と温めたミルクを盆に乗せて立っていた。

 例によって、休憩時間を利用して作ったのだろう。

 室内へ招き入れ、椅子を勧める。二人で来客用のテーブルを挟んで座ると、途端にくつろいだ雰囲気が流れた。やはり、こうして黒髪の親友と過ごすときが一番安らぎを感じる、とニーナはしみじみ思った。


 もっとも、おそらくナスターシャから衛兵の父親を介し、間接的にニーナの身辺はルーファスへ情報が伝わっている。その点は、それとなく想像が付いていた。いくら気心の知れた間柄と言えど、代書業務では守秘意識を緩められない要因でもある。

 ただ、親友の前では、できるだけ面倒なことは考えないようにしていた。ニーナの見る限り、ナスターシャも自覚があって協力しているのではないように思われる。きっと、本人も知らずに利用されているに違いない。

 つくづくルーファスに対しては、悪趣味な人間だという印象が深まるばかりだが……


「そういえば、こないだのパウルのことだけど」


 ナスターシャは、ミルクを注いだカップを両手で包むように持ちながら、


「無事に、ニーナの作った書類のおかげで、開業手続きを済ませたみたいよ。私からもよろしく言っといてって、家の傍で会ったときに喜んでたわ」


「そう、それはよかったわ。私もお役に立てて嬉しい、って機会があったら伝えておいて」


「うん、それでね。以前も彼が言ってたけど、できれば今後の商売に関わる書面についても、代書を年間契約でニーナにお願いしたいらしいんだけど」


「――ああ、その話ね……」


 ニーナは、ナスターシャが手作りした焼き菓子を頬張りながら、少し考え込んだ。ゆっくりと口を動かし、嚥下(えんげ)してから、不意にぽつりとつぶやく。


「どうせなら、パウルも読み書きを勉強して、店の書面を自分で作れるようになればいいのに」


「文字の読み書きを?」


 ナスターシャは、ひどく驚いた様子で、問い返してきた。ニーナの言葉は、あまりに突拍子なく、思いがけないものだったらしい。


「ええ。パウルも独立するなら、今後はある程度読み書きできた方が、取引の際にも何かと都合がいいでしょう? 私に書類作りの発注せずに済むようになれば、そのぶん店の経費も抑えられるし、長い目で見ていいこと尽くしだと思うんだけど」


「えっと……冗談だよね? そんなことして、そのうちみんなが読み書きできるようになったら、代書の仕事がなくなっちゃうわ。第一、誰がどこで勉強なんて教えてくれるの?」


「いいのよ、私は別に代書の仕事がなくなったって。宿屋の下働きでも食べていけるし。……本人に勉強する意思さえあれば、私がここで、時間に余裕のあるときに教えてあげる」


 代書人の少女は、やや身体を前に乗り出して言った。


(そうだ――いっそ、代書人なんて仕事は、世の中からなくなってしまった方がいいのよ)


 ニーナは、たった今、半ば本気でそう思っていた。ほんの咄嗟の思い付きだったけれど、頭の中で閃いた途端、その理想は急激に大きく膨れ上がりはじめる。


 代書人のいない世界――

 誰もが、当たり前に文字を読み書きできる世界!

 技術的には、不可能ではないはずだ。簡単な読み書きぐらいなら、誰であれ何年か地道な努力を積みさえすれば、必ずいずれ身につけられる。

 そうやって、皆が文章を読み、理解できるようになれば、より多くの人が多くの知識を得ることができるようになる。そして、新たに得た知識を使って、暮らしを豊かにすることができる。

 その先に、きっと優れた未来があるはずなのだ。


 けれども、ナスターシャは困惑したような、それでいてどこか悲しげな面持ちになって、目の前の金髪の少女を眼差してきた。

 ニーナは、その反応の意味を、即座には理解できなかった。


「――やっぱり無理だよ、ニーナ。独立開業すれば、ますますパウルは忙しくなるだろうから、勉強してる余裕はないと思う。それに、読み書きなんて出来るようになったら、商売でパウルの店だけ取引が有利になって、町の職工組合(ツンフト)から除け者にされちゃうよ」


 ナスターシャは、寂しそうに微笑する。

 親友の意見を聞いて、ニーナは失望から脱力した。瞳を伏せ、深々と嘆息する。いましがたの閃きも、あっという間に萎んでしまった。

 たぶん、ナスターシャの見立ては正しい。

 それだけに、代書人の少女の落胆はいっそう大きかった。

 この国、この時代、この世の中では、平民に生まれてしまった時点で、大概の場合において、読み書きの技術を習得することすら、自由には許されない。本人の意思と努力に関わらず、環境がそれを認めないのだ。


「――そっか。そうだよね……妙なことを言って、ごめんなさい」


「ううん。ニーナが謝ることじゃないよ……」


 ニーナは、ナスターシャに慰められ、少し居心地悪くなった。おもむろに椅子から立ち上がり、部屋の窓際へと歩み寄る。

 左右に開け放たれた鎧戸の向こうには、ヘルネ南地区の町並みが見える。

 木骨組の家が立ち並び、入り組んだ路地が縦横に延びた光景だ。どこからか、無邪気にちいさな子供の戯れる声が聞こえてきた。空は蒼く澄み渡り、爽やかな陽の光が降り注いで、地上に白い雲の影を落としている。

 ニーナは、窓枠に手をつき、外へ顔を出して深呼吸した。

 清らかなヘルネの大気が、染みるように胸を満たす。


 この瞳に映る世界に生きる、ほとんどの住人が読み書きのできない平民だ。

 そのような運命に、たまたま生まれついてしまった人々なのだ。

 人間は、努力によって成長し、前進することのできる生き物のはずだと、ニーナは信じている。

 ただし、それは生まれつき、それを許される環境に置かれた人間だけの特権だ。少なくとも、この世界にはそうした現実がある。誰も、自分の生まれる国や時代、両親や性別を、生まれる前に選び取ることはできないのに。


 ――もし、自分が男性に生まれていたら……と、ニーナは考える。


 今頃、シュマルカルデン大学で、父親のように学者を目指して研究を続けていたのだろうか? 

 それとも、第二王子として王位継承に名乗りを挙げていたのだろうか。男性であれば、神聖ザルヴァ教団の利権拡大に手を貸すことなく、きっと堂々と戴冠に臨むことができる。

 自分が王家の嫡子と認められれば、修道院に離れて暮らす母シャルロッテも、もしかすると王都への帰還を許されるかもしれない。

 そこには、彼女がまだ見ぬ未来があり得たのだ……



「――ねぇ、ナスターシャ」


 ニーナは、窓の外を眼差したまま、部屋の中の親友に語り掛けた。


「万一、いずれ私がこの町を出て行くことがあったら、そのときは貴女も、私と一緒について来てくれるかしら」


「どうしたの。また旅に出て、英雄叙事詩を書き上げたいって話?」


「……ええ。まあ、そういったようなことだけど」


「相変わらずね、ニーナ。そんなに男の子みたいな冒険がしたいの?」


 ナスターシャは、すくすくと、屈託なく笑う。それから、ミルクのカップをテーブルに置くと、元気な盛りの弟をあやす姉のように、優しい表情になった。


「そうね、それまでによく考えておくわ。きっと、お父さんとも相談して、許しを頂かないと無理だと思うけど」


「うん、ありがとう。――よろしくお願いするわね、ナスターシャ」


 ニーナは、穏やかな声音で言った。

 にわかに、そのとき窓から緩やかなそよ風が舞い込んで、彼女の豊かな金髪を弄んだ。それはさながら、黄金の海の如く宙に広がって、午後の射光を反射し、ひととき宝石めいた煌きを放つ。

 そして、夏空色の瞳は、いつまでもヘルネの美しい町並みを、その内側に映し込んでいた。


 もうすぐ、アステルライヒの南部でも、暖かい日が増える頃だろう。







<エーデルサーガ~ヘルネの町の代書人・了>


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