ヒグマと遭遇
四
そんな私でも、手加減をせず少し本気を出さざるを得ない場面に遭遇したことがある。
長期休みを利用し、私と花奏、ほよりの三人は北海道へ旅行に来ていた。美味しい海鮮や広大な自然を満喫し、今日は少し山奥の自然公園を散策していたのだが。
「ねえ青奈、この道合ってる? なんか全然人いなくない?」
「おかしいな。パンフレットの地図だと、この先に展望台があるはずなんだけど」
「あ、あの……なんか、すごく嫌な予感が……。草の奥から、獣臭というか……唸り声が……」
ほよりが怯えた声で言った直後だった。
バキバキ、と太い木の枝が折れる轟音が響き、前方の茂みから巨大な影が姿を現した。
「……嘘でしょ」
「ひゃああああっ!?」
花奏が悲鳴を上げ、ほよりは声も出ず、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
無理もない。
私たちの前に立ち塞がったのは、立ち上がれば優に三メートルは超えるであろう、規格外の巨大なヒグマだった。黒光りする毛並み、丸太のように太い腕、そして鋭い爪と牙。明らかに人間を獲物として見ている凶暴な目をしていた。
「デカ過ぎんだろ……」
私も、思わず声を漏らす。
ヒグマが、大地を揺るがすような咆哮を上げ、猛然と私たちに向かって突進してくる。
「青奈っ! 逃げて……!」
花奏の叫び声を背に受けながら、私は、一歩前に出て、相手をする決意をした。
「……仕方ない」
ヒグマが私を叩き潰そうと、その巨大な右腕を全力で振り下ろしてきた。風を切り裂く音と共に迫る死の軌跡。
それを、左手一本で真っ向から受け止めた。
ドゴォォォンッ!
衝突音が山に響き渡る。ヒグマの質量と筋力が乗った一撃を受け止めた私の足元の地面が、圧力に耐えきれずすり鉢状に陥没した。しかし、私の腕は一ミリたりとも下がらず、骨格は一切の軋みすら上げない。
ヒグマの目に、明確な驚愕と困惑の色が浮かんだ。自分より遥かに小さな生き物に、全力の一撃を完全に止められたのだから当然だろう。
正直、素の状態でも勝てるとは思う。私の肉体強度なら、例えその爪撃を食らってもかすり傷ひとつ負わないだろう。
しかし、相手は野生の殺戮マシーン。
万が一にも後ろにいる二人に危害が及ぶわけにはいかない。油断は禁物だ。
私は小さく息を吸い込み、脳内に掛けられた安全装置の鍵を回した。
リミッター。解除。
瞬間、私の四十八倍の筋密度を誇る肉体が、本来の百パーセントの出力を解放する。途端に、全身の血液が沸騰するような熱を帯び、細胞のひとつひとつが歓喜の声を上げる感覚に包まれる。
「そんなもん?」
受け止めたヒグマの腕を、逆に力任せに押し返した。
腕力だけで、三メートル級の巨体が宙に浮き、数メートル後方へ無様に投げ飛ばされた。ズシンッ! と地面を揺らしてヒグマが背中から墜落する。
四十八倍の特異体質×リミッター解除による潜在能力の全解放。
恐らく今の私は、純粋な筋力だけなら人類最強なのではないだろうか。
「あ、青奈……? え……? クマ、投げた……?」
背後で花奏が呆然と呟くのが聞こえた。
ヒグマはすぐに起き上がり、怒り狂ったように再び私に向かって突進してきた。今度は口を大きく開け、私の頭を食いちぎる気らしい。
とは言え、私の動体視力の前では、ヒグマの速度でさえナマケモノに等しい。
「学習能力がないな」
向かってくるヒグマの鼻面に合わせて、下から蹴りを跳ね上げた。もちろん、頭を粉砕して殺してしまわないように、これでもかなり手加減をしている。流石に殺したくはないし、この大自然を生きる命を奪う権利は私にはない。だから、あくまで〈軽く〉、お仕置き程度の前蹴りだ。
ドムッ!
鈍い衝撃音と共に、ヒグマの巨体は今度こそ完全に宙を舞った。そのまま十メートルほど後方へ吹き飛び、太い木に激突してようやく止まる。
「キャインッ……!」
ヒグマは犬のような情けない声を上げながら立ち上がるも、そこには先程までの殺戮の意思は宿っていない。
圧倒的な力の差を理解し、私を恐怖の対象として完全に認識したのだろう。一度も振り返ることなく、脱兎の如く、山奥へと凄まじいスピードで逃げていった。
ヒグマの気配が完全に消えたのを確認し、私は、息を吐いてリミッターを解除した。沸騰していた血液が平温に戻り、全身から立ち上っていた熱が急速に引いていき、いつもの感覚に戻った。
「ふぅ……」
リミッター解除のデメリットと言えば、普段使わない力を限界まで引き出すため、激しく体力を消耗することだ。なので長時間の連続使用は非常に疲れるし、ただでさえ悪い燃費がさらに加速する。
お腹の虫が、今までにないほど自己主張を始めている。
今日は山登りをしていて、〈補給〉をしていなかった為尚更だ。
「あ、青奈ちゃん……! け、怪我……ない……!?」
ようやく立ち上がったほよりが、涙目で駆け寄ってきた。
「無傷。ほよりこそ、腰抜かして怪我してない?」
「う、うんっ……! わ、わたしは大丈夫……! 青奈ちゃん、本当に、本当にすごいよ……! クマさんを、投げ飛ばしちゃうなんて……!」
「いやマジで寿命縮んだかと思ったけど!? 青奈、あんた本当に人間!? いくら最強体質でもヒグマと素手でやり合って勝つ女子高生とか聞いたことないんだけど!」
「まあ、これでもかなり手加減したんだけどね。全力で殴ったらバラバラになっちゃうから。……それより」
私はぐぅ、と鳴ったお腹をさすりながら、二人へ振り返り、
「エネルギー使いすぎて、すごいお腹空いた。北海道だし、展望台行って山降りたら海鮮系の美味しいお店行きたいな。海鮮丼、大盛りで三杯は食べたい」
「あははっ! こんな状況でご飯の話!? もう、青奈には敵わないなぁ!」
「ふふっ……青奈ちゃんがいっぱい食べるの、わたし、見るの好きだよ……! 美味しい海鮮丼、探しに行こうねっ」
私たちは顔を見合わせて笑い合い、ヒグマが出た山道から足早に立ち去った。
私のこの特異体質は、時に日常を非日常に変えてしまうけれど、大好きな友達を守れるのなら、この過剰すぎる力も悪くないなと、そう思えた。
了




