第一話 従姉の宿題
『猿人の話――洞穴の客』
狩りの帰りに、彼らは草の中で倒れているものを見つけた。
男だった。目が開いたままで、風が渡っても閉じない。
群れの子どもが、火を運ぶ役の男の腰を引いた。
「これ、どうして動かない」
「死んだ」
「しんだ、って」
火を運ぶ男は答えなかった。前の代の者がそう呼んでいたから、そう呼ぶ。動かなくなって、何もしなくなること。それ以上は知らない。
群れは獲物を担ぎ直し、そのまま歩き出した。誰も草の中を振り返らなかった。
日が落ちてから、洞穴に火が起きた。肉の脂が落ちて、灰がはぜる。
外から、もう一人入ってきた。
「だれだ」
返事はない。顔は火の届かないところにあって、見えなかった。
火を運ぶ男が枝を一本抜き、先を燃やして、近づけた。
鼻が一つ。目が二つ。口。耳。腕が二本、脚が二本。尾も翼もない。
自分たちと同じだった。同じなのに、火を持つ手が、そこから先へ進まない。
「見たことのない顔だ」
「通りがかりだ。寝る場所がほしい」
群れは肉を分け、寝床の端を空けた。人は集まって眠るものだったから。
夜半、みな寝息を立てていた。火を運んだ男だけが、天井の煤を見ていた。
どこが違うのか。
数えたものは全部そろっている。足りないものも、余っているものもない。
寝床の端を盗み見た。客はよく眠っていた。胸が上下していた。
やがて男も落ちて、夢を見た。
夢の中には二人しかいなかった。草も火もなく、客が立っている。
男は、天の上にいるものの名を心のうちで呼んだ。
「しずかに」
客が言った。
「わたしがいることは、天も知らない」
客が一歩近づいた。男の膝が笑って、地面につく。近づいて、近づいて、顔のかたちが読める距離まで来たとき――男は、どこが違うのかを思い出した。
叫びながら目を覚ました。火を蹴散らし、寝ている者をまたいで、外へ走った。
「あれを見た! みんなに言う!」
草を裂く音が遠ざかり、洞穴には、倒れた枝の火がしばらく残った。
*
ノートパソコンの蓋が閉まる音で、俺は顔を上げた。
うちの書斎は父の本棚と古い作業机があるだけの部屋で、従姉の佳帆姉は来るたびにその机を占領する。
「終わった」
「で、そのあとは。あの賢い猿人、結局なにに気づいたんだよ」
佳帆姉はマグカップを両手で持ち上げ、口をつける手前で止めた。
「わかんない」
「は」
「まだ決めてないの。書いた本人が」
30分、隣で画面を覗き込んでいた時間を返してほしい。
「それ、答えを俺に丸投げしてない?」
「じゃ、そこ一緒に考えて。変なところは遠慮なく言って」
「ホラー書いてる人が、ホラー読んでるだけの従弟に聞きに来るの、順番おかしいって」
「読んでるだけの人がいちばん怒るんだよ、変なとこ書くと」
反論しにくかった。俺は立って、本棚の下の段から一冊抜いた。
海外のホラー作品を集めた古い本で、後ろのほうに短い解説がついている。目当てのページを開いて、机の上に滑らせた。
「不気味の谷って、もとはこっち側の話でしょ。人形とか、機械の手とか」
「知ってる。基礎の基礎」
そう言いながら、佳帆姉はページに目を落として、しばらく動かなかった。
「だったら猿人の話に機械は出せないよ。100万年前に精巧な人形を置いたら、読んでる人が現実に戻る」
「うん。だからね」
佳帆姉が人差し指を立てた。
「見た目はまったく同じ。ただ一か所だけ、決定的に違う。そこを見つけられたら、人間はそれを人間じゃないと見抜ける」
「いいじゃん。で、その一か所は」
「だから決まってないんだってば」
「そこがいちばん大事なとこでは」
「わかってる」
佳帆姉はページの端を指で押さえた。押さえたまま、次の行へ進まない。
「宇宙人とか。地底人とか」
「却下」
「じゃあ寄生系。中に別のが入ってて」
「……却下」
一拍おいてからの却下だった。俺はそれを聞き流した。
「とりあえず名前は決めた」
「名前は決めたんだ」
「私たちがヒトでしょ。だからあっちは、ヒトに似たもの」
「そのまんますぎない?」
「短いほうがいい。長い名前をつけると、それだけで正体がわかった気になるから」
これは正しい気がした。悔しいので言わないでおいた。
「じゃあ聞くけど」
俺は足を組み替えた。
「あの猿人さ、客が入ってきた時点でもう変だと思ってるよね。見た目は同じなのに、なんで」
佳帆姉はカップを置いた。
置いてから、俺のほうを見た。見たまま、何も言わなかった。
*
「直人」
「ん」
「私を見てて、怖いと思うことある」
「……なにその質問」
答えは返ってこなかった。佳帆姉はカップから手を離し、膝の上に置いて、そのまま俺を見ていた。
さっきまでと同じ顔だった。眉も、口の形も、座り方も。
変わったのは返事の速さだけだった。俺が口を開くまで、向こうは何も足してこない。
「あのさ」
「うん」
「……だから、なんだよ」
「どうして、今日この部屋に来た人が、本物の佳帆だと思ってるの」
首の後ろの毛が起きた。
冗談だ。いつものやつだ。オチが来る。……来ないな。来ない。
佳帆姉が首を傾けた。それだけの動きで、椅子ごと後ろへ下がっていた。俺が。
「やめ」
椅子が鳴って、佳帆姉の顔が近づいた。
「うわっ!」
「ふふっ」
「……っ、佳帆!」
呼び捨てが出た。出てから気づいた。
「ごめんごめん。はい、終わり。今のは実験。もうやらないから」
佳帆姉は座り直して、両手をぱんと叩いた。音で区切りをつけるのが、この人のやり方だ。
「心臓に悪いんだけど。なんの実験だよ」
「さっきの質問の答え。見た目でわからないのに、どうして人間が怖がるのか」
「……ああ」
「顔は同じままでしょ。変えたのは返事のしかただけ。それで直人、椅子ごと下がった」
俺はクッションを投げつけた。佳帆姉はそれを受け止めて、膝に抱えた。
「よく知ってる人が、知らない反応をする。そこが谷」
「性格の悪い説明するね、佳帆姉」
「褒めてるでしょ、それ」
呼び方は勝手に戻っていた。
「でもさ」
「うん」
「それ、俺が怖がっただけだよね」
佳帆姉がクッションの角をつまんだ。
「怖い、で止まってたら、本物か偽物かはわかってない。俺、今も佳帆姉が本物かどうか、わかってないし」
「……それ、けっこう困る話だね」
「困らせに来たわけじゃないんだけど」
「明日、おばあちゃんち行くでしょ。人がいるところでもう一回やる」
「やめろって」
「一人だと怖がりかたが足りないの。比べるものがないから」
「実験台の扱いが雑すぎる」
佳帆姉は笑って、本に付箋を一枚貼った。黄色いやつを、ページの真ん中あたりに。
*
佳帆姉はパソコンをリュックに押し込んで、肩にかけた。
俺はマグカップを二つ持って、台所へ運んだ。
佳帆姉のほうの底に、輪の形の水滴がついていた。机に置いていた跡だ。指で拭って、シンクに沈めた。
「本、借りてっていい」
「いいけど、ページは折るなよ」
「折らない。付箋する」
玄関で、佳帆姉は靴のかかとを踏んだまま少し立ち、それから直した。
「じゃ、また」
「また」
戸が閉まってから、俺は台所に戻った。洗剤を足して、カップを二つ洗って、伏せた。




