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End of the Atonement  作者: 久野 龍
第七章 消えぬ傷痕の灯火
52/60

 ■6■

 誰かが、自分を呼んでいる。


 小さな、水滴のような泣き声。

 そして、聞き慣れた、落ち着く声。


 その二つに引かれるようにして、ケセナは重い瞼を押し上げた。

 最初に視界へ入ったのは、豪奢な天蓋だった。


(……ここは……)


 鈍い頭で思考を巡らせようとした、その瞬間。

 真横から注がれる二つの気配に気づき、ゆっくりと視線を動かす。

 そこで、ケセナの心臓が激しく跳ねた。


 見知らぬ初老の男。

 そして――容赦なく自分の四肢を拘束し、その胸に絶死の刃を突き立てた白虎族長、レイア・ファンサルが、自分を見下ろすように手を翳していた。


「――っ!!」


 ケセナの身体が、本能のままに跳ねた。

 枯渇していたはずの魔力が、生存本能に押し上げられるように一瞬だけ弾ける。

 それまで二人が行っていた治療の術式が、ぱん、と音を立てて弾かれた。


「くっ!?」

「レイア様!」


 体勢を崩した二人を前に、ケセナは全身を走る激痛に喘ぎながらも、無理やり上体を起こした。

 震える腕で後ずさる。

 傷ついた身体は言うことを聞かない。それでも力任せに動かすたび、四肢の傷口が開き、流れ出た血が純白のシーツを赤く染めていった。

 じりじりと後退し、寝台から滑り落ちる。


「……っ、くるな……!」


 喉から絞り出した怯えきった声が、部屋に響いた。

 ケセナは壁際まで身を引き摺り、縮こまるように身体を強張らせる。

 焦点の合わない瞳は、狂乱の縁を彷徨っていた。

 レイアが息を呑み、ガイアが「おい、ファル!」と駆け寄ろうとする。

 だが、それよりも早く。


「――ケセナ」


 低く、深く響く声が、部屋の空気を震わせた。


 びくりと肩を跳ねさせ、ケセナが声のした方へ目だけを向ける。

 そこに立っていたのは、見慣れた漆黒の制服に身を包んだ、大きな男。

 悲しげな顔で、いつも自分を守ってくれた男。


(……どうして)


 ケセナはゆっくりと顔を向け、その男――グレンを見つめた。


 自分はまた、化け物になって暴走してしまった。

 だから当然、見捨てられて、置いていかれたのだと思っていた。


 自分の前に、彼がいるわけがない。

 いるはずがないのに。

 口が動く。

 けれど、音は生まれなかった。

 もう一度、確かめるように目を見開く。

 そこにあるのは幻ではなく、確かに自分を見つめ返す黒い瞳だった。

 琥珀色の瞳が震え、やがて安堵に滲む。


「グレン……さん……?」


 縋るようなその問いに、グレンは無言で、力強く頷いた。

 ケセナは壁際に寄りかかったまま、震える右手をグレンへ向かって伸ばした。


 指先が痙攣しても構わずに。

 助けて、と求めるように。


 だが、グレンはその手を取ろうとはしなかった。

 触れられることで発狂してしまう彼を、自分が触れることでさらに壊してしまうかもしれない。

 その恐怖が、手を躊躇わせていた。


 それでも、ケセナは手を伸ばし続けた。

 ぽたぽたと腕から血が落ちる。

 激痛が走る。

 それでも、その指先はグレンだけを求めていた。


「グレンさ……ん……!」


 次の瞬間。

 ケセナは痛む身体で地を蹴り、自らグレンの胸の中へ飛び込んだ。


「……ケセナ?」


 グレンは一瞬、何が起きたのかわからなかった。

 あのファルイーアが、自分から他人の腕の中へ飛び込んでくるなど、あるはずがない。


「グレンさん……! グレンさん!!」


 けれど、ケセナはグレンの胸の中で肩を震わせ、自分の名を呼んで泣いている。

 グレンはその細い身体を、恐る恐る、それでも壊れ物を扱うように優しく、そして力強く抱きしめた。


「……ファルイーア」


 ケセナの身体が揺れ、さらに深く胸へ顔を埋める。

 グレンは大きな手で、その背を一定の間隔でゆっくりと撫でた。


 ケセナにとって、それはこの世界で最も安心できる場所だった。


 震えが、少しずつ治まっていく。

 全身の強張りも抜けていく。

 呼吸が整っていく。


「グ……レン……さん……」

「ああ。そうだ。ファルイーア。怖い思いをさせて、すまなかった」


 その温もりを確かめるように受け取りながら、ケセナの瞳にようやく正気が戻っていった。


 見知らぬ豪奢な部屋。

 自分を殺そうとした白虎族長。

 状況は何一つ飲み込めていない。


 けれど、グレンがいる。


 それだけで、自分は今、安全なのだと理解できた。


「……ごめん……なさい……」


 小さく謝ると、ケセナはグレンの胸元へ額をこつんと預け、ようやく安堵の笑みを浮かべた。

 そんな彼を抱きしめたまま、グレンは静かに言う。


「とりあえず、寝台へ戻るぞ。いいな?」


 そう声をかけて、そっと抱き上げる。

 その瞬間、ケセナの顔がわずかに歪んだ。

 グレンはすぐに気づき、深く溜息をつく。


「痛い時は痛いと言え。何度言ったら理解するんだ」

「え……?」


 ケセナはきょとんとした顔をした。

 本人にとっては無意識だった。

 痛みを他人へ訴えない、あの忌まわしい癖が、まだ身体に染みついたままだったのだ。


「……うん。そうだった」

「痛いか?」

「すごく痛い。この体勢だと、ちょっと死にそう」

「早く言え」


 真っ青な顔で正直に答えるケセナを、グレンはさっさと寝台へ寝かせ直した。


 傷の具合を確かめる。

 四肢も胸も背中も、じくじくとまだ血を滲ませている。

 グレンはラルへ顔を向けた。


「薬と包帯を持ってきてくれ」

「あ、薬はあたしの荷物! すぐ取ってくる!」


 呆然としていたラルが、はっと我に返って部屋を飛び出していく。

 その背を見送ってから、ガイアが寝台の傍らに膝をついた。

 ケセナと目線を合わせるようにしゃがみ込み、じっと顔を覗き込む。


「えっと、その……ごめん、ガイア」

「心配させるな! 大馬鹿が!! 大人しく寝てりゃ、こんな……っ」

「ガイア……?」

「……無事ではねぇけど、無事でよかったよ。ファル」


 ガイアは立ち上がり、安堵の息を吐きながら、昔の癖のようにケセナの頭を無造作にわしゃっと撫でた。


「……あ」


 ケセナの肩が、びくりと跳ねる。

 発狂する――そう思った。

 けれど、呼吸は乱れなかった。

 ガイアの荒っぽくて、それでも温かい手を、ケセナはただ静かに見つめていた。


「……もう、大丈夫みたい」


 そう言って、ふんわりと笑う。


 すぐにラルが薬と包帯を抱えて戻ってきた。

 グレンはそれを受け取り、手際よくケセナの傷の手当てを始める。


「ケセナ。あたしの治癒魔術だと、傷、治せなくて……」


 ラルが申し訳なさそうに声をかけると、ケセナは首を横に振った。


「ううん、いいんだ。ラル。ありがとう」


 ラルはそっと、ケセナの冷たい手を両手で包み込んだ。


 レイアもまた、複雑な面持ちでそのやり取りを見つめ、小さく息を吐く。


「レイア様。残念ですが、我々の術はこれ以上、彼には施せません」


 乱れた燕尾服の襟を整えながら、マジョルドが静かに進み出た。


「我々の魔力を『外敵からの攻撃』と誤認して激しく反発しています。これ以上強引に流し込めば、肉体より先に精神が完全に壊れるでしょう」

「……そうか」


 レイアは苦渋の表情で頷く。

 ケセナの手を握り締めていたラルが、振り返りもせずに言った。


「あたしが、やる。……あたしの魔力なら、ケセナは拒絶しない。あたしなら、きっと!」

「……小娘、希望的観測は今はやめよ。私たちが全力で治療に当たる。信じよ」

「……信じてないんじゃない。おばさんに任せるのが嫌」

「誰がおばさんだ」


 即座に返ってきたレイアの低い声に、室内の空気が一瞬だけひやりとする。

 マジョルドが「まあまあ」と優雅に間へ入り、その場をどうにか収めた。


 寝台の上で、ケセナはまだ浅い息を繰り返している。

 助かった。

 けれど、何も終わってはいない。


 白虎の城の静かな一室で、誰もがその事実を重く噛み締めていた。

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