■6■
誰かが、自分を呼んでいる。
小さな、水滴のような泣き声。
そして、聞き慣れた、落ち着く声。
その二つに引かれるようにして、ケセナは重い瞼を押し上げた。
最初に視界へ入ったのは、豪奢な天蓋だった。
(……ここは……)
鈍い頭で思考を巡らせようとした、その瞬間。
真横から注がれる二つの気配に気づき、ゆっくりと視線を動かす。
そこで、ケセナの心臓が激しく跳ねた。
見知らぬ初老の男。
そして――容赦なく自分の四肢を拘束し、その胸に絶死の刃を突き立てた白虎族長、レイア・ファンサルが、自分を見下ろすように手を翳していた。
「――っ!!」
ケセナの身体が、本能のままに跳ねた。
枯渇していたはずの魔力が、生存本能に押し上げられるように一瞬だけ弾ける。
それまで二人が行っていた治療の術式が、ぱん、と音を立てて弾かれた。
「くっ!?」
「レイア様!」
体勢を崩した二人を前に、ケセナは全身を走る激痛に喘ぎながらも、無理やり上体を起こした。
震える腕で後ずさる。
傷ついた身体は言うことを聞かない。それでも力任せに動かすたび、四肢の傷口が開き、流れ出た血が純白のシーツを赤く染めていった。
じりじりと後退し、寝台から滑り落ちる。
「……っ、くるな……!」
喉から絞り出した怯えきった声が、部屋に響いた。
ケセナは壁際まで身を引き摺り、縮こまるように身体を強張らせる。
焦点の合わない瞳は、狂乱の縁を彷徨っていた。
レイアが息を呑み、ガイアが「おい、ファル!」と駆け寄ろうとする。
だが、それよりも早く。
「――ケセナ」
低く、深く響く声が、部屋の空気を震わせた。
びくりと肩を跳ねさせ、ケセナが声のした方へ目だけを向ける。
そこに立っていたのは、見慣れた漆黒の制服に身を包んだ、大きな男。
悲しげな顔で、いつも自分を守ってくれた男。
(……どうして)
ケセナはゆっくりと顔を向け、その男――グレンを見つめた。
自分はまた、化け物になって暴走してしまった。
だから当然、見捨てられて、置いていかれたのだと思っていた。
自分の前に、彼がいるわけがない。
いるはずがないのに。
口が動く。
けれど、音は生まれなかった。
もう一度、確かめるように目を見開く。
そこにあるのは幻ではなく、確かに自分を見つめ返す黒い瞳だった。
琥珀色の瞳が震え、やがて安堵に滲む。
「グレン……さん……?」
縋るようなその問いに、グレンは無言で、力強く頷いた。
ケセナは壁際に寄りかかったまま、震える右手をグレンへ向かって伸ばした。
指先が痙攣しても構わずに。
助けて、と求めるように。
だが、グレンはその手を取ろうとはしなかった。
触れられることで発狂してしまう彼を、自分が触れることでさらに壊してしまうかもしれない。
その恐怖が、手を躊躇わせていた。
それでも、ケセナは手を伸ばし続けた。
ぽたぽたと腕から血が落ちる。
激痛が走る。
それでも、その指先はグレンだけを求めていた。
「グレンさ……ん……!」
次の瞬間。
ケセナは痛む身体で地を蹴り、自らグレンの胸の中へ飛び込んだ。
「……ケセナ?」
グレンは一瞬、何が起きたのかわからなかった。
あのファルイーアが、自分から他人の腕の中へ飛び込んでくるなど、あるはずがない。
「グレンさん……! グレンさん!!」
けれど、ケセナはグレンの胸の中で肩を震わせ、自分の名を呼んで泣いている。
グレンはその細い身体を、恐る恐る、それでも壊れ物を扱うように優しく、そして力強く抱きしめた。
「……ファルイーア」
ケセナの身体が揺れ、さらに深く胸へ顔を埋める。
グレンは大きな手で、その背を一定の間隔でゆっくりと撫でた。
ケセナにとって、それはこの世界で最も安心できる場所だった。
震えが、少しずつ治まっていく。
全身の強張りも抜けていく。
呼吸が整っていく。
「グ……レン……さん……」
「ああ。そうだ。ファルイーア。怖い思いをさせて、すまなかった」
その温もりを確かめるように受け取りながら、ケセナの瞳にようやく正気が戻っていった。
見知らぬ豪奢な部屋。
自分を殺そうとした白虎族長。
状況は何一つ飲み込めていない。
けれど、グレンがいる。
それだけで、自分は今、安全なのだと理解できた。
「……ごめん……なさい……」
小さく謝ると、ケセナはグレンの胸元へ額をこつんと預け、ようやく安堵の笑みを浮かべた。
そんな彼を抱きしめたまま、グレンは静かに言う。
「とりあえず、寝台へ戻るぞ。いいな?」
そう声をかけて、そっと抱き上げる。
その瞬間、ケセナの顔がわずかに歪んだ。
グレンはすぐに気づき、深く溜息をつく。
「痛い時は痛いと言え。何度言ったら理解するんだ」
「え……?」
ケセナはきょとんとした顔をした。
本人にとっては無意識だった。
痛みを他人へ訴えない、あの忌まわしい癖が、まだ身体に染みついたままだったのだ。
「……うん。そうだった」
「痛いか?」
「すごく痛い。この体勢だと、ちょっと死にそう」
「早く言え」
真っ青な顔で正直に答えるケセナを、グレンはさっさと寝台へ寝かせ直した。
傷の具合を確かめる。
四肢も胸も背中も、じくじくとまだ血を滲ませている。
グレンはラルへ顔を向けた。
「薬と包帯を持ってきてくれ」
「あ、薬はあたしの荷物! すぐ取ってくる!」
呆然としていたラルが、はっと我に返って部屋を飛び出していく。
その背を見送ってから、ガイアが寝台の傍らに膝をついた。
ケセナと目線を合わせるようにしゃがみ込み、じっと顔を覗き込む。
「えっと、その……ごめん、ガイア」
「心配させるな! 大馬鹿が!! 大人しく寝てりゃ、こんな……っ」
「ガイア……?」
「……無事ではねぇけど、無事でよかったよ。ファル」
ガイアは立ち上がり、安堵の息を吐きながら、昔の癖のようにケセナの頭を無造作にわしゃっと撫でた。
「……あ」
ケセナの肩が、びくりと跳ねる。
発狂する――そう思った。
けれど、呼吸は乱れなかった。
ガイアの荒っぽくて、それでも温かい手を、ケセナはただ静かに見つめていた。
「……もう、大丈夫みたい」
そう言って、ふんわりと笑う。
すぐにラルが薬と包帯を抱えて戻ってきた。
グレンはそれを受け取り、手際よくケセナの傷の手当てを始める。
「ケセナ。あたしの治癒魔術だと、傷、治せなくて……」
ラルが申し訳なさそうに声をかけると、ケセナは首を横に振った。
「ううん、いいんだ。ラル。ありがとう」
ラルはそっと、ケセナの冷たい手を両手で包み込んだ。
レイアもまた、複雑な面持ちでそのやり取りを見つめ、小さく息を吐く。
「レイア様。残念ですが、我々の術はこれ以上、彼には施せません」
乱れた燕尾服の襟を整えながら、マジョルドが静かに進み出た。
「我々の魔力を『外敵からの攻撃』と誤認して激しく反発しています。これ以上強引に流し込めば、肉体より先に精神が完全に壊れるでしょう」
「……そうか」
レイアは苦渋の表情で頷く。
ケセナの手を握り締めていたラルが、振り返りもせずに言った。
「あたしが、やる。……あたしの魔力なら、ケセナは拒絶しない。あたしなら、きっと!」
「……小娘、希望的観測は今はやめよ。私たちが全力で治療に当たる。信じよ」
「……信じてないんじゃない。おばさんに任せるのが嫌」
「誰がおばさんだ」
即座に返ってきたレイアの低い声に、室内の空気が一瞬だけひやりとする。
マジョルドが「まあまあ」と優雅に間へ入り、その場をどうにか収めた。
寝台の上で、ケセナはまだ浅い息を繰り返している。
助かった。
けれど、何も終わってはいない。
白虎の城の静かな一室で、誰もがその事実を重く噛み締めていた。




