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洞窟から地上へと抜ける、細く険しい横穴を這い登る。
背後では、穴の狭さへの文句と、これから挑む『鉄火の門』の絶壁の道筋を想像しているのか、ガイアとプラークルウの情けない悲鳴とも呻きともつかない声が響いていた。だが、ケセナは完全に無視を決め込んだ。どうやらラルも同じ方針らしく、無言のまま淡々と歩を進めている。
「『鉄火の門』の下を行くなら、私は籠ってます!」
地上へ出るなり、プラークルウは力強くそう宣言し、早々に仮の住処である球体の中へ姿を消してしまった。
それを見送り、ケセナは深々とため息をつく。
「……俺も、入りたい」
ぽつりと零れたその本音は、冗談ではなかった。
それほどまでに、『鉄火の門』の真下を抜ける道は過酷なのだ。
常に荒波が打ちつける絶壁にへばりつきながら進むその道は、一度でも足を踏み外せば、それで終わる。まして、極限の接触恐怖を抱えたケセナは、万が一体勢を崩しても、誰かに手を掴んで引き上げてもらうことができない。触れられた瞬間に混乱を起こし、そのまま海へ落ちるだけだ。
五千星霜も経っていれば、波に削られて足場が消えていてもおかしくはない。
唯一の望みは、かつて街道の修復に使われていた作業用の通路が、まだ僅かでも残っていることだった。
「よし……行くぞ!」
ケセナは自分を奮い立たせるように両頬をぱん、と叩き、決意に満ちた足取りで先頭に立った。
しかし、数歩進んだところで、背後からラルの呆れた声が飛んできた。
「方向、逆。それ、崖」
「…………っ」
ぴたりと動きを止めたケセナの顔が、一瞬で赤くなる。
必死に何事もなかった顔を作りながら、無言でくるりと踵を返し、今度こそ正しい方向へ歩き出した。
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ジェグヌの街の脇には、背の高い草が揺れる草原が広がっていた。
草原を抜け、街を迂回し、直接街道へ向かう。
街へ入る者への検問は厳しいが、街から出る側には見張りがない。今はそれが、何よりありがたかった。
ご丁寧にも、街道へ上がるための石造りの階段まで用意されている。
階段を登りきり、広く舗装された街道へ足を踏み入れた。
道の両側には、人を呑み込まんとするような荒れ狂う海が広がっている。だが、どれほど激しく波が砕けても、街道には一滴の海水すら届かない。
――届かないように、造られたのだ。
海に浮かぶ要塞都市オーレルディア。
それを守護するため、土の魔術を得意とするかつての玄武族が中心となって築き上げたのが、この街道だった。そして、波が街道へ降り注がぬよう結界を張ったのは、麒麟族の秘術。
打ちつける波を見つめながら、ケセナはオウセイとしての遠い記憶を呼び起こしていた。
「ファル」
不意に、ガイアの声が耳に届く。
振り返ると同時に、それまで険しかったケセナの表情が、ふっと柔らかく変わった。
「なに?」
「先生が……な。休ませてやりたい」
ガイアの視線の先には、顔を赤くしているグレンの姿があった。
ツェヴァンとの死闘で負った傷が、今になって熱を持ち始めているのだろう。疲労と失血が重なっているのは明らかだった。
「……そうだね」
ケセナは小さく頷いた。
このまま進むのは危険だと判断し、一行は登ってきた階段を再び降りることにした。街道を行き交う者の目につかない、階段の下の陰へ身を寄せる。
冷たい石壁へ背を預け、グレンが絞り出すように弱音を零した。
「肝心な時に、悪いな」
申し訳なさそうに顔を歪めるその姿に、ケセナはいつもの柔らかな顔で微笑みかける。
「急がないし、気にしないで」
短い言葉だった。
だが、その温度だけで、グレンの強張っていた肩からわずかに力が抜ける。
その横で、ラルが光魔術による治療を試み続けていた。
覗き見た傷跡に、ケセナは思わず息を呑む。
確かに急所だけは外してある。
けれど、それは『死なないように斬った』というだけのことだった。どの傷も深く、肉が抉れ、生々しい。ツェヴァンがどれほど凄まじい剣を振るい、グレンがどれほど死に物狂いでそれを凌いだのかが、嫌というほど伝わってきた。
ラルは、自分の治癒魔術では気休め程度にしか塞がらないと悟ると、黙って傷薬を持ち出した。
清潔な包帯を巻き終えたあと、ぽつりと呟く。
「……塩、危険かも」
短すぎるその一言が持つ意味を、その場にいる全員が即座に理解した。
これから向かう『鉄火の門』の絶壁の道は、容赦なく荒波を被る。
この深い傷へ大量の海水が入り込めば、尋常ではない痛みで身動きが取れなくなるどころか、命に関わる。
かといって、ここにグレン一人を置いていくという選択肢は、誰の頭にもなかった。
進むことも、戻ることもできない。
完全に行き場を失ったまま、一行は波音だけが響く階段の下で、一夜を明かすことになった。
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その夜。
波の音しか聞こえない冷たい石陰で、グレンの容態が急変した。
「先生っ。しっかり……!」
高熱に浮かされ、苦しげに荒い息を吐くグレンを、ラルとガイアが必死に看病している。額の汗を拭い、わずかな水を口に含ませる二人の姿を前にして、ケセナは離れた場所で立ち尽くすことしかできなかった。
(触れない……)
手を伸ばせば届くところにいるのに。
看病を代わることすらできない。触れれば、自分が混乱を起こし、余計に足手まといになるだけだと分かっているからだ。
何もできない。
その事実が、喉を締めつけた。
ケセナは血が滲むほど両拳を握りしめると、逃げるようにその場を離れた。
夜風が吹き抜ける暗い草原で、背の高い草に埋もれるようにして座り込む。
いつだってそうだ。助けられてばかりで、大切な人が苦しんでいる時に、自分は何もできない。
「なんで、俺はっ!」
夜へ向かって吐き出した叫びは、風に攫われて消えた。
『――我の糧となれば、そのような感情、忘却できるぞ』
不意に、脳の奥底へ重々しい声が響く。
「っ!」
右腕の中で、強大な力がどくんと蠢いた。
黄金龍だ。
主の負の感情へ、ぬらりと忍び寄るように、その声は囁きを重ねる。
『宿木よ。我になれ。さすれば、あの男を焼く熱も、お前を苛むその惨めな心ごと――』
「……うるさい。黙れ。貴様は眠っていろ」
静かな声だった。
だが、その拒絶は絶対だった。
次の瞬間、ケセナの瞳から『弱々しい青年』の色が消えた。
底知れぬ深淵だけが、そこにあった。
右手を地面へ突き立てる。
その瞬間、夜の草原に甲高い、身の毛のよだつような音が走った。
それは、周囲に漂う精霊たちの悲鳴だった。
意志を捻じ曲げられ、力ずくで縛り上げられ、蹂躙される。
ケセナを中心に、色を失った草が円を描くように枯れていく。
祈りではない。
共存でもない。
精霊を搾り取り、使い潰し、ただ従わせるだけの業。
それは、オウセイの振るう、冒涜そのものの力だった。
『貴様は……っ! まさか……!』
精神を侵そうとしていたはずの黄金龍が、明確な驚愕と戦慄を露わにする。
単なる器、脆い宿木だと思っていた。だが違う。
この肉体の奥底にいるのは、人間の苦悩などという生易しいものではない。
もっと古く、もっと深く、もっと恐ろしい『ナニカ』だった。
「お前は少し、自我を持ちすぎだ」
精霊たちの悲鳴を編み上げながら、ケセナは右腕へ向かって淡々と言い放つ。
黄金龍は、怯えるように、そのまま右腕の奥底へ沈んでいった。
自らの内に巣食う龍すら力でねじ伏せたあと。
草の中に座り込んだまま、ケセナはどこか自分へ向けるように、短く笑った。




