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End of the Atonement  作者: 久野 龍
第五章 隔絶の向こう側
38/60

 ■7■

「な、なんだよ急に……」


 戸惑うガイアを前に、ラルは風を纏わせたまま、氷のように冷たい声で言い放った。


「彼に、触らないで」


 その声には、剥き出しの敵意と拒絶が滲んでいた。

 ガイアの表情から笑みが消える。

 その視線の先で、ケセナは自分の両腕を抱きしめるようにして、小刻みに震えていた。


「……触るなって、どういうことだ。俺はただ……」


 納得のいかないガイアが、風の壁を押し退けるように一歩踏み出す。

 そのまま、ケセナの肩へ強引に手を伸ばした。


「やめてっ!」


 ラルの悲痛な制止より早く、ガイアの大きく温かい手が、ケセナの肩に触れた。

 ケセナの喉から、奇妙に引き攣った音が漏れる。

 次の瞬間、琥珀色の瞳からすうっと光が消えた。

 全身が激しく痙攣し、その場へ崩れ落ちる。


「なっ……おい、ファル!?」


 ガイアが目を見開いた直後、ケセナの手から転がり落ちた球体が、眩い光を放った。


「離れなさい、ガイア・ゾルディクス!!」


 光の中から具現化したプラークルウが、これまで一度も見せたことのない怒気を含んだ声で叫ぶ。


「な、なんだ、これは……」


 ただ肩に触れただけで呼吸を乱し、怯えきった顔で自らの腕を掻きむしるケセナを見て、ガイアは驚愕に目を見開いたまま、伸ばした手を震わせた。


「遠くから見ていたのなら、知っているはずでしょう……!」


 プラークルウが叫ぶと同時に、ラルが風を纏わせたままガイアの腕を掴み、強引にケセナから引き離した。

 逞しい身体がたたらを踏む。


「離れて。それ以上は、あたしが許さない」


 ラルは震えるケセナを背中で庇い、改めてガイアを睨みつけた。

 その拒絶を前に、ガイアは自分の手を見下ろしたまま動けなくなる。

 洞窟には、荒波の音だけが響いていた。

 ガイアの脳裏に蘇ったのは、あの戦禍の日々だった。

 グレンに「あいつに近づくな。絶対に触れるな」と厳命され、遠巻きに見つめることしかできなかった時間。

 傷だらけで帰還しても、感情の抜け落ちた瞳で立ち尽くしていたファルイーアの姿。

 つい先ほど、自分に向けてケセナが和らいだ表情を見せたことで、ガイアはどこかで安心していた。

 もうあの地獄は終わったのだと。もう彼はそこから抜け出したのだと。


 だが、違った。


 兵器として扱われていた頃でさえ消えなかった傷は、記憶を取り戻した今、むしろむき出しになっていた。

 誰かの手の温もりを知らぬまま、人に触れられることそのものが恐怖として魂へ刻み込まれてしまったのだ。

 ガイアはようやく、自分の目の前にいる弟分が、取り返しのつかない傷を抱えてここまで来たのだと悟る。

 奥歯を血が滲むほど噛み締め、その場へ腰を落とした。


 どれほど経ったのか。


 壁に背を預け、膝を抱え込んでいたケセナも、ようやく呼吸を落ち着かせていた。

 ガイアが、ばつの悪そうな顔で口を開く。


「……悪かった。遠くから見てるだけじゃ、ただの体調不良にしか見えなかったんだ」

「……俺も、真っ先にガイアへ言うべきだった。ごめん」


 ケセナが力なく首を振ると、ガイアは乱暴に赤い髪をかき回した。


「謝るな。しゃーねぇだろ、こんなの」


 それから、あえて視線を逸らすようにラルとプラークルウを見る。


「嬢ちゃん。それに剣精。よくこのどうしようもない奴を見捨てずに、ここまで連れてきてくれたな」

「……え?」


 突然の労いに、ラルが目を瞬かせる。


「ちょっと、どうしようもない奴って酷くない?」


 ケセナが思わず口を挟むと、ガイアは意地悪く笑った。


「うるせぇ。お前は昔から手がかかるんだよ」

「………うぐっ」


 容赦のない物言いにケセナは言葉を詰まらせたが、その乱暴さが、かえって彼を“腫れ物”として扱っていない証でもあった。

 その不器用な気遣いに、張り詰めていたケセナの心が、ほんの少しだけ緩む。


「……で。冗談はここまでだ」


 ガイアの顔つきが、すっと引き締まる。


「これから、どうすんだ?」

「先生を助けなきゃ」


 ラルが即答した。


「そうだよ。グレンさんを助けに戻らないと」


 ケセナも身を乗り出す。

 だが、ガイアは重々しく首を横に振った。


「相手はあのツェヴァンじーさんだぞ。無理無理」

「でも!」

「お前らが行ったところで、足手まといになるだけだ」


 冷酷な現実に、ケセナは奥歯を噛み締める。

 重い沈黙の中、ガイアの視線がプラークルウへ向いた。


「……おい、剣精。なんか案はねぇのか?」

「……」


 プラークルウは目を伏せたまま黙る。

 ガイアがさらに一歩踏み込む。


「お前、歴代の応龍皇帝に仕えてきた最強の剣精なんだろ。あの化け物じーさんを出し抜く手くらい、なんかあんだろ」


 その問いに、プラークルウはしばらく沈黙し、やがて決意したように顔を上げた。


「……私は、作戦の引き出し係ではありません」


 そこで一拍置く。


「でも、一つだけ。あの『青龍』の弱みなら、知っています」


 三人が同時に息を呑む。


 長い沈黙ののち、プラークルウは厳かに言った。


「……虫、です」

 

 洞窟の空気が、ぴたりと止まった。

 全員の頭が一瞬真っ白になる。

 そして最初に堪えきれなくなったのは、ガイアだった。


「ぶっ……おまっ、嘘だろ!」

「そ、それは俺もちょっ……ぷくくっ」

「ふふっ……くくっ……」


 ガイアが吹き出し、ケセナも肩を震わせ、ラルでさえ口元を押さえて笑いを堪えきれない。


「つーか、あの厳ついじーさんが虫嫌い!?」

「本当ですよ! 昔、応龍の宮殿にでっかい百足が出た時なんて、半泣きで悲鳴を上げて走り回ってたんですから!」


 プラークルウが得意げに胸を張る。


「想像したくもねぇわ!!」


 ひとしきり笑いが広がったあと。

 ガイアが、すっと真顔に戻った。


「……で。絶望的に役に立たねぇ情報だな」

「えっ?」


 プラークルウの目が丸くなる。


「だから、どうやって虫をあのじーさんの襟元に放り込むんだよ。考えろ、この豆粒」

「うっ……」


 プラークルウが一瞬で縮こまり、洞窟の中へ再び重い空気が戻ってきた。


「……とりあえず、様子を見に――」


 いたたまれなくなったケセナが立ち上がろうとした、その時。


「待って、ケセナ」


 ラルが引き止めた。


「あたしが行く」

「ラル?」

「ガイア族長は目立ちすぎる。ケセナは外へ出るだけで危ない。プラウはケセナのそばを離れちゃ駄目」


 紫の瞳がまっすぐにケセナを見据える。


「……だから、行くのはあたし」


 理路整然と、そして揺るぎなく言い切った。


「駄目だよ! ラルだって危険だろ! もしツェヴァンに見つかったら……!」

「あたしだって、先生の弟子」


 ラルは一歩も引かない。


「逃げるだけなら、誰にも負けない」

「でも……!」


 押し問答を続ける二人を、ガイアは腕を組み、壁にもたれて見比べていた。

 そして、やれやれと言いたげに長いため息をつく。


「……お前ら、本当に仲いいな」


 呆れたような、けれどどこか楽しそうな声だった。


 そのままラルへ視線を向ける。


「嬢ちゃん。偵察、頼めるか?」

「任せて」


 ラルが力強く頷いた。


「ガイア! ラルを一人で行かせるなんて……!」


 なおも食い下がるケセナだったが、もう決定は覆らない。

 ラルもガイアも、その顔をしていた。


 自分だけが安全な場所に残り、また大切な人を危険な場所へ送り出さなければならない。

 ケセナは洞窟の暗がりへ座り込んだまま、悔しさに唇を噛み締めるしかなかった。

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