旅立つ理由
さる村の外れに、寺とは到底呼べぬ小さな庵があった。
そこには五年ほど前からうら若き尼と、年老いた僧が住むようになっていた。
他所から流れて来た二人は、自ら田畑を耕しながら、ある時は仏事で経を上げる代わりに村人からささやかな施しを受け、またある時は村人の相談を聴くなどしつつ、つつましい暮らしをしていた。
ただ、奇妙なのは、年老いた男の僧が、孫ほど年の離れているであろう若い尼を師と仰ぎ、さながら主人に仕えているような様子であることだった。
尼も、若いながら不思議な威厳と、知恵を持っていたので、その様子を見た村人は噂した。
実はあの尼は、元はどこぞのやんごとない身分の方だったのではないか?
僧は、仕えていた従者ではないのか?
村人に言われても、尼はいつも静かに微笑むばかりで、過去については語ろうとしなかった。
その様子に、村人は誰も知られたくないことはあろうと、やがて本人には誰も聞かぬようになっていた。
その尼、白椿は自分の噂もどこ吹く風の様子で、今日も上機嫌で庵への帰り道を歩いていた。
背負った籠には、村人から分けてもらった大きな筍が入っている。
先日、病を見てやった村人からの報酬であり、春になって一番の「収穫」と言えた。
旅をしながら覚えた薬の知識が生きるものだ。
こういう頂き物は、お互い気持ちのいいものである。
白椿は、五年ほどかけて築いてきたこの村での生活と村人との関係性に居心地の良さを感じていた。
「月照や、帰ったぞ」
庵の戸を開け、尼は上機嫌で中の老僧を呼ぶ。
うら若い尼が我が子を呼ぶようなその様子が村人に違和感を与えているのだが、庵の中での尼は遠慮が無い様だった。
「この間病を診てやった甚平に大きな筍をもらってな。籠ごと持って帰って来た。いや、経を上げずとも、このような知恵で施しを頂くこともある。ありがたい事じゃ」
言いつつ、筍を土間に置き、足を洗う。
尼の頭の中は、筍をどう料理しようかで一杯だった。
「まずは、アクを抜いてからじゃが、さて、どうするか。煮ても良いし、焼いても良い。お主は最近元気がないから、まずは柔らかく煮た上で……。」
そこまで言ったところで、尼は庵の奥から全く返事が返って来ないことに気が付いた。
振り返って目を凝らすと、月照であろう人影が奥の壁にもたれかかるように座っている。
部屋に差し込む西日が月照の足だけを移していて、彼の表情はよく見えなかった。
「月照?」
尼が問いながら恐る恐る近づいても、彼は全く返事を返さない。
そして、彼に近づき、年老いた僧が息をしていないことを確認すると、尼は全身の力が抜けるような感覚に陥った。
「……そうか、もう、そういう頃合いであったか。」
ひどく力の抜けた声で、尼は力なく頷いていた。
いつかこうなることは解っていた。
だが、こんな突然の事とは思ってはいなかった。
いや、月照の事だ、もしかしたら気づかれぬよう、自らの不調を悟られぬようにしていたのかもしれない。
この子はいつもそうだった。
私を気遣い、自らのために何かをしようと最後までしなかった。
白椿尼様の為ならば、となんでもやってくれた。
私は仏様ではないぞ、と言ってもやめようとはしなかった。
ここ数日、珍しく月照からの頼まれごとが多くなったので、尼は嬉しかったのだ。
こんな事なら、もっと早く頼ってくれれば良かったものを。
気が付くと、周りはすっかり暗くなっていた。
どれくらいの間、月照を眺めていたか記憶にない。
せめて、横にしてやらねば。
そう思い、ようやく体が動いた。
不思議と、経を上げようという気持ちが全く沸かなかった。
月照と最初に会ったのはいつだったか。
尼は蝋燭に火をともし、湯灌の準備をしながら思い出していた。
月照は、元は八十吉という名の、農家の四男坊だった。
一時期いた寺で、幼いころから何かと面倒を見てやった子である。
昔から、泣き虫な子だったが、心優しく、頭も良かった。
尼が寺を離れ、旅立つ時は幼い彼は寂しさで泣いたものである。
「なぜ、旅に出られるのですか?」
泣く八十吉に問われた時、尼はこう言って幼い彼を慰めた。
「お主にだけは本当の事を言おう。儂は昔の咎により、歳を取らぬ、死なぬ身となった。あまり一所に長居すると、皆がそれに気づき、戸惑うのでな。このように何年かしたら他所へ行くのだ。お主が元気にしておれば、またいずこかで、同じ姿で出会うことができよう。それまで、元気で、良い子にしておるのだ。」
それは信じてもらえぬかもしれないが、嘘偽りない話であった。
その時、尼の言葉を信じたかどうかわからなかったが、八十吉は涙を拭いて何度も頷いたものである。
次に八十吉と出会ったのは、十年後。
彼は月照と名乗り、比叡山で修行し、立派な僧となっていた。
相変わらず若いままの尼の様子に驚きつつ再会を喜んだ。
そして彼は、白椿に弟子入りし、尼の旅についていきたいと言い出したのである。
……あの時、弟子入りを断っていたら、どうなっていたのであろう。
尼は、蝋燭の明かりの中、月照の遺体を湯灌しつつ、そんな事を考えていた。
最初は断ったが、結局月照の情熱に根負けする形で、尼は月照を連れて歩くこととなった。
そのうち、どこぞの寺で落ち着き先でも見つけ、己の道を歩むのであろう。
尼はその時、そんな考えであった。
そして二人は、様々な場所を旅をした。
ある時は、戦のあとを死者を弔って歩き、ある時は数年古寺に棲みつき。
さる貴族の依頼で遠方へ赴き、昔知り合った山のヌシを紹介してやったりもした。
長い間、それに従い、月照は尼に良く尽くした。
彼は驚き、多くを学び、
そして齢を重ねていった。
同じくらいの見た目だった見た目が、いつしか親と娘ほどのものになり、やがて爺と孫娘ほどのものなった。
今思えば月照は、その人生の大半を尼の弟子として使えていたのである。
「……結局。最後まで独り立ちできなんだか。」
さて、それは弟子が愚かなのか、師が不出来なのか。
蝋燭の灯りも消えた中、尼は今までの月照との思い出をたどりながら、そんな事を思っていた。
気が付けば、もう朝日が昇ろうとしている。
尼は結局、何もせぬまま、ただ茫然と月照を眺めていた。
この五年ほどは特にどこに行くでもなく、なにをするでもなかったが、尼にとっては楽しい日々だった。
いつの頃からか、尼も月照の居ない日々など、考えもしなくなっていた。
そう、意識はしていなかったが、この日々が永遠に続くものと、勝手に思っていたのだ。
尼は、ようやく心にぽっかりと大きな穴が出来ている事を自覚し、そう考えていた。
こんな日がいつか来ることを解っていながら、いつの間にか目を背けていたのだ。
我ながらなんと愚かな事か。
尼は、今になって、月照を手放さなかった過去の自分を呪った。
ふと、耳に届いた蠅の羽音に、尼は我に返った。
そう、呆けておるわけにもいかぬ。
尼はふらふらと立ち上がり、鍬を手に表に出て、庭の片隅を黙々と掘った。
何かしていないと、おかしくなりそうだった。
ほどほどの穴が掘れた所で、甚平が筍を入れた籠を返しに来ないことで訪ねて来たので、尼は埋葬を手伝ってもらうことにした。
彼女はそこで、自分が昨日から今まで筍はおろか何も口にしていないことに気が付いた。
月照の人生とは何だったのか。
尼は土の中に埋もれていく月照を見ながら考えていた。
彼は、自分のような人間に仕えるために短い人生を使い切ってしまった。
彼はそれで満足だったのか?
そう言えば、尼は老齢になってもなぜ自分などに仕えるのか、と問うたことがあった。
月照はその問いに静かに笑ってこう答えた。
「白椿尼様はお寂しい方でいらっしゃる。せめて一時でも、お近くで苦楽を共にし、お慰めできるのが、私の至上の喜びなのです。」
さて、彼は幸せな人生だったのだろうか。
尼は答えることはできなかった。
ただ、月照に対する感謝あるのみである。
半面、やはり後悔する思いもある。
いつかこういった形で別れることは判っていたのだ。
こんな思いをするなら、騙してでもどこかに置いていくのだった。
これが、自らの宿命から背負向けた報いか。
尼は呆然と立ち尽くしながら、心にまとわりつく喪失感に耐えていた。
「……比丘尼様、お経を……」
そして、心配そうに声をかけた甚平の声に、尼はまた現実に引き戻された。
そういえば、今まで、一度も経を上げていないことに尼は気が付いた。
そしてその日、結局尼はこみあげる感情を抑えることができず、経を最後まで上げる事が出来なかった。
四十九日が過ぎ、ある程度落ち着くと、尼は村人にいずこかに旅立つと告げた。
「何ゆえ旅立たれるのですか?」
驚く村人に問われると尼は、寂しげに、こう答えたという。
「もう、これ以上悲しい思いはしたくないのでな。」
そして、思い出した時で良いから、月照の墓の面倒を見てやってくれ、とだけ頼むと、尼は庵を引き払い、いつの間にか姿を消していた。
村人は、その後、月照の墓の面倒を見ながら、もしかすると、あれこそが伝説に聞く八百比丘尼ではなかったか、といつ頃からか噂するようになったが、その頃には村には誰もその尼の顔を知るものだったのは居なくなっていた。
その後も何年かに一度、月照の墓には人知れず花が供えられていたという。




