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電話はすぐに終わったが、ジョージはすぐには戻りたくなくてタバコを吸うことにした。
この国は屋内喫煙が基本的に全面NGなので、迷わず外へ出て路上でタバコに火をつける。
ふー、と煙を吐き出して何とはなしに通りの向かいに眼をやると、行き交う車の列を超えて高級ジュエリーの店が見えた。
そういえば、と思い出す。
……界、飲んだくれて大喧嘩したよなぁ
緋乃に別れを告げられた直後だ。
めずらしく界が無断欠勤したということでグレーテルから連絡をもらい、ジョージが様子を見に行くと、彼は居酒屋で潰れていた。そして知らない男たちと殴り合いのけんかをしていた。
当然ジョージは仲裁に入った。青ざめるどころの騒ぎではない、何しろ界はその数か月前にジュネーヴ国際で優勝したばかりのチェリストだ。
(待て待て待て! 馬鹿、やめろ、止まれって!)
(……せぇ、とめんな)
(止めるだろ普通っ)
(うるせぇな!!)
しかしながら、割って入った無罪のジョージの顔をすら殴り飛ばし、界は吠えた。
(止めんな!! もう──もう、どうでもいいんだよ! 何もかも!)
何もかも、と。彼は言った。そして泣いた。
だがその後も怒ったり吠えたりと起伏は激しく、挙句の果てに道路に倒れた。
ジョージはそんな彼に肩を貸して一緒に家に連れて帰ったのだった。
今考えるとウソみたいだなと苦笑する。
普段はほとんど欠点のない彼が、ただ一人の女性のためにあれほど我を忘れるだなんて、ほとんどの人間は知らないだろう。
(界にとって緋乃は、ほんとうに宝物だったんだ)
今、改めてそう思う。
恋人を持つということは、たいていは幸せなだけではなくて、面倒くさいものだ。
だが界は、緋乃との間に起こることは全て幸運としてとらえているように見えた。
もちろん喧嘩はよくしていたし、ジョージの前で彼女に毒づくことも数限りなくあったわけだが、そういうことも含めて界は緋乃が自分の特別なのだとわかっていたと思う。
だからこそ今も好きなのだ。
忘れられないのだ、どうしても。
「……あの指輪」
通りの向こうのジュエリーショップを見て思い出したのは、三年前に界が緋乃に贈ろうとしていた指輪だ。
たぶん彼は特別な気持ちを込めてそれを買った。緋乃に、ずっとそばにいてくれと伝えるために。
だが実際には渡す前に界の想いはくじかれてしまった。
(どうしようかな)
ジョージは今一度白い煙を吐き出すと、タバコを吸いがら容器に捨てた。
あの指輪はいまは自分が持っている。
当時の界は放っておいたら指輪をどぶに捨てそうだったので、そうなる前に持ち出したのだ。
普通に考えればものすごくプライベートな問題だし、人が口を出す部分ではないとわかるが、ジョージはとても見過ごせなかった。
勿体ない、とかじゃなく、シンプルに駄目だと思ったのだ。
捨てちゃダメだと。
指輪を捨てたら界の中で何かが壊れる。そんな気がした。
界は緋乃と出会って変わった。
彼女を愛して、愛されて、この世に生きる意味を見出したように見えた。
だからそんな、とても尊い想いを、心の中の宝石を。
何があっても捨ててほしくなかったのだ。
「……相変わらず勝手だな」
ホテルに戻りながらジョージは自分に苦笑した。本当に勝手だ。
適当で、自分よがりで、気分屋で。
だけどそれでも僕は本気で。
──本気で、あの二人には、また寄り添って欲しいと思っている。