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沙絵と会った数日後、やはり海外出張の命が下った。
ドイツ企業が主催するチャリティイベントの後援・共催者として緋乃の会社が選ばれ、手始めには先方のレセプションにて顔合わせをするということらしい。
それはいい。
それはいいのだが。
(──冗談?)
緋乃は手元の資料を見つめたまま色を失っていた。
チャリティイベントの主催者はドイツにおける有名企業のヒルデブラントAGだ。
自動車産業、及び楽器・音楽事業を主として伸びてきた会社で、現在は様々なグループ会社と共に複合的事業を行っている。イメージとしては日本のヤマハがわかりやすい。
またヒルダは独自の音楽レーベルも所有しており、緋乃の古い知人の中にはそこに所属して活動している音楽家も少なくない。
──界を含めて。
「恩納さん?」
緋乃の様子がおかしいのを感じ取ったらしく、八神支社長は彼女の顔色を気遣うように名前を呼んだ。緋乃ははっと気が付いてぎこちなく微笑む。
「っ、すみません」
「どうかしたのか? 顔色が悪いようだが」
「いいえ、ただ、驚いてしまって」
緋乃は誤魔化すように言って、手元の資料を持ち上げてみせた。
「あのヒルデブラントグループがお相手とは、ずいぶん大きなお仕事ですね」
「ああ。ヒルダのチャリティは歴史が古くて、ものすごい宣伝効果があるからね。ずっとやりたいとは思っていたんだが……」
緋乃の話題転換に八神はとくに疑うでもなく乗ってきた。
確かに彼がここ数か月、ひどく熱心にどこかとやりとりをしているのは緋乃にもわかっていた。まだ形になっていない段階らしく八神が離さなかったので、緋乃も聞かなかったが。
……まさかこのことだったとは。
「うちと同じでやりたい奴はたくさんいた。だからずっと相手にされなかったんだが、今回は話が違った」
「その理由は?」
「イベントのテーマだね」
支社長の言葉に首を傾げた緋乃である。
「“TOKYO”、“JAPAN”ですか?」
「そう。それからもう一つ”感染症撲滅“だ」
「まぁ! だからですね? うちの主力製品の一つはワクチンですもの」
緋乃はぱっと瞳を見開いた。主力製品というには製品が多すぎるので、カバーしている領域と言った方が正しいのかもしれないが。
支社長は緋乃との小気味よい会話が気に入っているらしく、満足そうに頷いて答えた。
「そうだ。それに、先方とつながりのある営業社員のおかげでようやく共催にこぎつけた。金はかかるが、ドイツは福祉先進国だ。売り上げだけでなく、例えばヒルダが行っている貧しい国々での活動や、動物保護などの活動を見せてもらう事が我々にとって大きな利益になる。日本にはまだそういった精神が根ざしているとは言い難いからね」
「イベントの収益はどのように活用されるのですか?」
「全額寄付される。今回はおそらくアフリカ諸国、日独の感染症対策、それに動物保護にあてられるだろう」
「……そうですか」
緋乃は感動すら覚えて呟いた。本当だったらすごいことだ。
自分も学生時代はボランティア活動を行っていたが、やはり中にはボランティアを謳って金をまきあげる不正な業者などもいたし、そうでなくとも全額寄付という団体は少なかった。それに人と動物分け隔てないという所もすばらしい。
「うちも社会貢献活動は行っているが、まだまだ国内で手一杯なのが現状だ。できれば私はそれを国際的活動に押し上げたいんだ」
もちろんそれはうちの業績が良いことが前提だけどね、と笑う支社長を見て、緋乃は彼を好ましく思った。もちろん上司としてだが。
──私って、こういうタイプに弱いのかも
はっきりとした目標を持ち、自分の言葉で話す支社長。多少強引ではあるが的確に仕事を回す姿はかつての恋人に重なる部分が多い。
「……かしこまりました。ではすぐに航空券の手配をいたしますので、もう一人同行される方の情報を教えていただけますか?」
仕事なのだ。
私情などは抜きにして、この人の役に立たなければいけない。
(だいたいヒルダに行くからって彼と出会うと決まったわけでもなし)
緋乃はそう腹をくくると微笑んでタブレットを取り上げた。
***
それからはめまぐるしく日が過ぎた。
出張の日程は一週間で、その間の支社長のスケジュール調整や、自分自身の業務の引き継ぎだけで結構大変だった。それに八神は経費や申請といった事務的処理にからきし弱い。
費用がかかるため社内での稟議まで必要な事務処理を緋乃はふたりぶん一手に引き受けてかなり面倒くさかった。
「……おかげで残業」
ふと時計を見ればもう七時半を回っていた。
最近では定時の概念が薄くなってきているが、本来は五時半上がりの会社である。やんなっちゃう、と緋乃は誰もいないオフィスを見回した。
「ちょっと、疲れたかも」
つい、本音が口を吐いて出た。
近ごろは朝早くに来て残業をするという日々が続いている。
出張までの期限が短いせいで休日出勤もしているので、さすがに頭がぼーっとしてきた。
机に顎を乗せて、緋乃はなんとなく携帯を手に取った。
(……界は、げんきかな……)
なんとなく、そう思った。本当になんとなく。
彼と別れて三年間、考えることをずっと避け続けてきたのに。
やはりドイツに、しかもヒルダに行くと決まってからは心が動揺してしまっているのだ。
もしも会ったら、どうする?
何て言おう?
考えても仕方のないそんなことが、疲れているせいか次々に頭に湧いてくる。
きっと彼は変わらずに素敵で。仕事も完璧にこなしていて。
もう新しい彼女が隣にいるかも。
ううん、っていうか、いないわけがないわよね。
(やっぱり、ヨハンナかな)
思い浮かんだのはひすいの瞳を持つハーフの女性だ。
界の幼なじみで、ヒルデブラントの現社長の娘であるセレブ・ガール。
彼女は界を好きだった。だから緋乃をとことん嫌った。
──貴女が、界を駄目にするのよ!
そう言って。
「……」
緋乃はずきずきする胸を無視しながら、携帯を指でいじってラインを開いた。
そういえばジョージに今回の件について聞いていた。その返信が届いていた。
>>や、緋乃元気? うん、今度うちのイベントに協賛してくれるんだってね。また会えること、楽しみにしてるよ
「微妙な返答……」
さすがジョージと言わんばかりの内容だ。適当なことしか言っていない。グロい兎が跳ねているスタンプも意味がわからない。
とはいえ自分からストレートに界が参加するのかなんて聞けないので、緋乃ははふうと息を吐いて携帯を放り出した。
もう忘れたい。この気持ち。
誰かを宝のように大切に思うきもち。
そして同じだけ思われるきもち。
──忘れたい? ほんとうに?
繰り返し繰り返しさざ波のように、緋乃は自問自答を繰り返す。
ほんとうに忘れてもいいの。あのひとは。
あのひとは、わたしのすべてだったのに。