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界の問いに、緋乃はほとんど迷わなかったように思う。
何か言おうと桃色の唇を開いて──だがすぐに閉じて。
きれいな指先で持ち上げた紅茶のカップをそっとソーサーに戻して。
彼女は、ゆっくり首を横に振った。
「……!」
界は、驚きと歓喜のあまり、指先からコーヒーカップを取り落とした。
がちゃん、と音を立ててカップがソーサーにぶつかって落ち、黒い液体が飛び散った。
「熱っ」
「や、大丈夫!?」
手と、シャツの胸元に飛沫がかかった。その温度に我に還れば、目の前にはハンカチを片手に腰を浮かせた緋乃の姿。
「お客様、大丈夫ですか?」
「あ……す、すみません」
店員がふきんを片手に駆け寄ってきて、すばやくコーヒーをふき取ってくれた。
界はまだ狼狽えつつ頭を下げて、ただただされるがままになる。
店員はテーブルを綺麗にし終えると一端コーヒーカップを持ち上げて、新しいものをお持ちしますと丁寧に下がって行った。
「……あの、界?」
残された界は、緋乃に声を掛けられてようやく、自分が彼女の手を掴んでいることに気が付いた。「えっ」と声を上げて手を離す。はずかしい。
カーッと顔が熱くなるのを感じながら思わず顔を手で覆ってしまった。
と、緋乃がくすくす笑みを漏らすのが聞こえてくる。
「界がこんなに、うろたえるなんて。嘘みたい」
あなたはいつもカッコいいのに、と付け足されて、界はぐしゃぐしゃと髪を乱した。そんなことはない。
「……んなことねぇよ」
「あるよ」
「ないって。お前の前だと俺、割とダメダメだし」
いつも余裕がない。
いつも、彼女が大好きで、大切過ぎて、笑っていて欲しくて。
その気持ちが強過ぎて空回りしてしまう。
結構、いや、だいぶ虜だ。ベタ惚れだ。
「そんなことない。」
ふいに、緋乃がはっきりとした声でそう言ったので、界は彼女を見た。
白い手が、今度は向こうから伸ばされて、界の手に触れる。
こちらの眼をそうっと覗き込むようにして彼女は言った。
「あなたは──わたしの、ヒーローだよ。ずっとずっと前から」
その声は、切実で熱く、そしてすこし震えていた。
界はとても嬉しかった。彼女が、そんな風に思っていてくれたなんて知らなかった。自分はいつも緋乃を寂しがらせて、辛い顔ばかりさせているような気がしていたから。
「……会いたかった」
緋乃は続けてそう言って、そっと界の手を自分の頬に触れさせた。
なめらかな肌が指先に触れた瞬間、焼け付くように、このひとを抱きしめたいと思った。
かすれた声が耳を打つ。
「界に、ほんとうに会いたかった……! いつもそう思ってた」
「……緋乃」
彼女の頬を涙が伝うのを目撃し、界は思わず空いたもう片方の手を伸ばして緋乃の顔を包み込んだ。
「だったらそう、言ってくれたらよかったのに。そうしたら飛んできたのに」
心からの言葉だった。
だが緋乃はそれを聞いて、何故かとてもつらそうに顔をゆがめた。
「……うん。でも、できなかった。だってそんなの、都合が良すぎる」
「それでもいいよ」
緋乃の眼をまっすぐに見て界は言った。
「ずるくていい。勝手でいい。君が会いたいって言ってくれれば、それだけで俺は救われるんだ」
わかる? と穏やかな声で付け足して、界は緋乃の髪をゆっくりと手で梳いた。
彼女は答えない。
いや、大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて、喋れないのかもしれなかった。
──このひとを幸せにしたい
胸に強い想いが押し寄せてくる。
まだお互いに想い合っているのなら、もう今までのことはどうあれ、ただこれからのことだけを考えたかった。
彼女が俺を振ったのは事実だ。でも、それは仕方のないことだった。
だからもう、そのことで罪の意識を感じてほしくない。
「……緋乃」
界はやがて、可能な限り優しい声で彼女の名前を呼んだ。
そして彼女と眼が合ったのを確認してからこう言った。
「好きだよ」
その言葉に、緋乃ははっと息を呑んで眼をみひらいた。白い頬が瞬時にして薄紅に染まる。
「今でも。いや、多分ずっと、俺はきみだけが好きだった。そしてこれからも多分そうだろう」
「……カイ」
「だから伝えたいんだ。もし君が、俺を振ったことで罪の意識を感じて、苦しんでいるとしたなら、そんな必要はまったくない」
界は穏やかな気持ちで笑って、緋乃の手に手のひらを重ねた。
「ずるいのは、お互い様だろ。だから今は、それを言い訳にしないで、ただ素直な君の気持ちを聞かせてほしい」
見つめる内に彼女の瞳からは大粒の涙がこぼれた。
え、と驚いたのも束の間、その次の瞬間には、彼女の頬にはゆるやかな笑みがのぼっていた。
つややかに、柔らかく、固く閉じていた花の蕾がひらくかのように緋乃は微笑い、やがて界の指先に指を絡めた。
「わたしも」
彼女は言った。甘い声で、ささやくように。
「……だいすき」
***
会いたかった+大好き(今でも俺を好き)≒関係回復?
一瞬頭に浮かんだそんな方程式が成り立つかどうかは別として、界は緋乃の言葉だけでそれはそれは嬉しかった。胸にあたたかいものが溢れていく。
指先に絡んできた細い手先をきゅっと握って自分の方へ引き寄せると、止めようもなく零れる笑みと共に口づけを贈る。
緋乃がはずかしそうに手を引っ込めようとしたのをダメ、と眼を細めて制止した。
「これぐらい許してもらう。死ぬほど君を待ったんだから」
「ちょ、もう……人に、見られるから」
赤く染まった頬で緋乃は困った顔をしたが、界はくすくすと笑って「今更だよ」と答えた。
「多分店員さんはもう見てる」
「え?」
「その証拠に、俺の新しいコーヒーはいつまでたっても運ばれてこない」
ちらっとキッチンの方へ目線をずらせば、果たしてそこにはコーヒーカップを両手にこちらの様子を窺っているウェイトレスの姿。
緋乃はかぁっとより一層赤くなった。
「き、気付いてたなら教えて!」
「やだよ。だって、そんなことより君の答えが聞きたかったから」
そう言って緋乃の手にもう一度口づければ、彼女は今度こそぱっと身を退いてしまった。なんだよ、と界は不服に思う。
「せっかく会えたのに」
「わ、わかってるよ。わかってるけど……、」
はずかしい、と、真っ赤な顔を手で覆う緋乃は堪らなくかわいい。
今すぐ思い切り抱きしめたいけれど、確かにここでは無理だと悟って界はちいさく息を吐いた。テーブルの端の伝票を指先で摘んで「出るか」と切り出す。
「家まで送るよ」
「あ……え、もう?」
「時間が遅いからね。夜更かしはダメだよ」
気付けばもう10時前だ。
早くに家に帰してあげないと、と界が席を立ち上がれば、緋乃は慌てたように荷物をまとめて追いかけてきた。
「ね、でも、界。コーヒーは?」
「ん~また次回」
「次回?」
「うん。今度は昼来よ。ケーキ美味そうだし」
そんな話をしながら会計を済ませて外に出ると、界は緋乃の手を取って歩き始めた。彼女の家には何度か行ったことがあるので方向はわかる。
歩き始めてすぐに2人の間には沈黙が生まれた。
お互いにお互いの手をぎゅっと握り、遠い距離を超えて来たそのぬくもりを少しでも近くに感じたいと寄り添いながら、それでも口が動かない。
たぶんひぃは寂しいんだろうな、と界は見当がついていた。彼女はいつも、別れ際にとても悲しそうな顔をするのだ。
だから自分は今、考えていた。
(土日を空けるためには…)
あの仕事をこうして、こっちをああして。そして明日と明後日中に終わらせてしまえば、と頭の中でパズルを組む。
いやでも、今日まだ水曜日なんだよなー。
明日と明後日の間にまた八神さんとノイマンに手を出されたらと思うと、そう悠長にもしていられない。
指輪を持って来ていないしムードがなさすぎるのでさっきは言わなかったが、界としてはこの人にちゃんとプロポーズしてその答えをもらうまでは全く安心できないのだ。
「……界」
色々考え込んでいると隣から緋乃が顔を覗き込んで来た。軽く頭を抑えていた界はん、と顔を上げる。
「なに?」
「次はいつ、会えるかな」
彼女は控えめに言った。その声も顔もどことなく不安そうなのはたぶん、気のせいではない。
界はやわらかく笑って彼女の手を握る手に力を込めた。
「いま、それを考えてた。ひいはいつも別れ際に寂しがるから」
そう言うと彼女も口角を上げた。
「……そうだね。それで、界はいつも優しかった。いつも次の約束をしてからさよならをしてくれたね」
「でないと俺も、離れ難かったんだよ」
素直に伝えて彼女の髪にちょっと触れる。すると、緋乃は切なげに目を細めて、そのまま界の胸に入って来た。
界はびっくりする。
緋乃はたいへん恥ずかしがり屋なので、往来でこのような行動に出ることはほとんどないのだ。
周りにほとんど人影がないとはいえ、彼女にしてはとても珍しいことだ。
「ど、どうしたの」
彼女から抱きつかれたことでどぎまぎしてしまいながら界は言った。きゅ、と胸を掴んでくる手がこそばゆい。
緋乃はくぐもった声で「うん……」と答えた。
「……あのね。私、カイに、すごく大事な話があるの」
打ち明けるような言い方だったので界は彼女に見えないところで眉をひそめた。悪い話、なのかもしれない。
(もしかしたらまた振られる?)
反射的に考えた自分自身にダメージを受ける。いや、待てよと思い直した。だったら、緋乃のこの甘え方はなんだというのだ。
試しにと自分からも彼女の背中に手を回して抱き寄せる。と、緋乃はあからさまにほっとした様子で界の胸に頬を寄せた。
ますますドキドキしながら界は彼女の髪に手を触れさせる。
「その、話って。……今ここで出来ない話?」
控えめに訊ねれば緋乃はこくりと頷いた。
まじかー、と界はこっそり痛い顔をした。これは一筋縄ではいかなさそうな雰囲気である。こんなに可愛く甘えてくるのに、オンナノコという生き物は本当にわからない。
悔しくてもどかしくて、思わず声が漏れてしまう。
「……ひぃはこれからどうしたいの」
それは無論、今晩という意味の”これから”ではない。二人の未来の話である。
緋乃もちゃんとわかっているらしく、界の胸から顔を上げて彼を見た。
「それにも、関係ある話なの」
「だったら今──」
「──今はだめ」
逸る界の言葉を遮って、緋乃は再び首を横に振る。なんだかまた泣きそうな顔をしていたので、界はそれ以上は何も言えなくなってしまった。
大きく嘆息した後、「わかったよ」と白旗を上げる。
「週末、どこか静かな場所で二人きりで話そう」
すると緋乃は、それはそれはもう嬉しそうな顔で笑みを咲かせた。
「ほんと?」
「……うん」
「デートしてくれるの?」
そんなことを言われたらもう堪らなくて、界は思わず彼女の顔に口づけを落としてしまう。
額に、頬にキスをすれば、緋乃は眼を潤ませてさらに笑った。うれしい、という声が小さく耳に届く。
「~~~もう、お前、ほんとずりぃ」
完敗しそうになりながら、界は必死に冷静であろうと務める。しかし心と裏腹に体は素直で、自分の腕は緋乃の体をこれ以上ないくらいに強く抱いている。
大好きな花の香りも、なめらかな肌も、やわらかな髪も、結局界を幸福にする唯一無二のものだった。
「どこに行く?」
ことさらに、その、笑顔が。
界の胸を光で照らす。あたたかい、優しい気持ちで満たしてくれる。
「どこが、いいかな。やっぱり海が見えるところかな」
「嬉しい。もう、ずっと海なんて見てない」
「じゃあ、海の近くでデートだ」
二人はぎゅっと強くくっつきあいながらそんなことを喋った。
「なんとか仕事整理するから、明日あさっては我慢して待ってて」
「……うん。ありがとう」
「その間に、八神さんとノイマンに近づくなよ」
「ノイマンはともかく、支社長にも?」
「ったりまえだろ。むしろあの人の方が危ないよ。お前の事ぜったい好きだぞ」
「そんなこと」
「あるから。」
眩暈がしそうなほど幸福な中にも、まだまだ不安はたくさんあった。このかわいいひとは。
一体何を抱えているのだろう。
俺とのことを一体どうするつもりなのだろう。
そして八神やヒルダ社員と、数多ある障害も未だ取り除かれてはいない。
(これはもう一度……)
死ぬ気で口説いとかないとダメかもなと界は思った。