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1日目は八神・ノイマンのせいで深夜労働。
2日目はそのせいでスマホの充電を忘れ、午前中に電池切れ。
そして今日こそはと思った3日目、定時で上がって彼の番号をプッシュした携帯を握って社屋を出ると──
「──えっ。八神支社長」
「ああ。恩納さん」
まさかの八神が立っていた。
おとといまで入院していた人間が目の前にいることに度肝を抜かれ、緋乃は彼との間のいざこざや気まずさ、後ろめたさなどを全て忘れて思わず声をかけてしまった。
「もうお体は大丈夫なのですか!?」
「うん」
八神はまず頷いてみせてから、それから──さらに驚いたことに──緋乃に向かって頭を下げた。
「すまなかった」
呆気にとられた。返す言葉が出てこない。
「え……あの」
「私の体調管理がなっていなかったせいで、君とノイマンに迷惑をかけてしまった。本当に申し訳ない」
どこに対して謝っているのかと思ったら、一昨日の深夜労働についてらしい。
あれは本当に辛かったので、緋乃は謙虚に否定するようなことはせず、ただ黙って彼を見つめることで返事とした。
しかし一応上司なのでこのまま関係をこじらせるのもよろしくないと考え直し、少しだけ譲歩してみる。
「……あまりご無理なさいませんよう」
穏やかに言ってみたのだが、八神の顔は緩まなかった。その様子に、緋乃は彼がまだ何か言いたいことがあると気が付く。面倒だなと思いつつ、逃げるわけにもいかないので黙っていると、果たして彼はもう一度口を開いた。
「もう仕事は終わったのかい? ずいぶん早いね」
「……ええ。近頃はほとんど定時で帰れているので」
さらりと答えてから緋乃は「あ」と口元を押さえた。
定時で帰れるようになったのは、他でもない八神の元を離れてからなのだった。
本人の顔を見れば、果たして苦い笑いを浮かべていた。
「す、すみません」
「君が謝る必要はない。わたしがそれだけ振り回していたということなんだから」
八神はそこで小さく息を吸った。緋乃の顔をまっすぐに見る。
「恩納さん。少し話せないか」
緋乃は驚いて眼を瞬いた。その意味は。今何時。
パワハラセクハラを恐れるこの人がもしや……
「……それは、ええと……会議室で」
「違うよ。外でだ」
(まさかの!)
緋乃は内心で叫んでいた。つまりディナーのお誘いということだ。
何と答えていいかわからず八神の顔を見つめてしまうと、彼は少し慌てた様子で補足を加えた。
「あ、勘違いしないでほしい。無論おかしな意味じゃないんだ。……ただ、君には一度ちゃんと話をしなければと思っていた」
八神の声は落ち着いていたが、緋乃は自分の胸が大きくきしむのを感じた。それはまた彼についての話だろうか。
だとしたらもううんざりだ。
プライベートに言及されて、制限されて、あまつさえ監視じみた真似をされるのは。
しかしながらこのお腹に界の子を宿してしまった以上、八神、ひいては会社に対して後ろめたさを感じているのもまた事実。
(あぁ……もう面倒くさい)
様々な考えや感情に翻弄されて頭がオーバーヒートしそうだ。
ただでさえ暑すぎて心身ともに参っているのに、と緋乃が黙りこんでしまえば、八神は断られることを予期したらしい、今度は少し悲しげな表情で息を吐いた。
「嫌なら無理にとは言わない。だがわたしは、謝りたいんだ。今までのことを」
「支社長……」
「わたしはその名にふさわしくない」
つぶやくようにそう言って、八神はそっと視線を反らした。
「我ながら呆れるよ。この年になってあんな初歩的なミスをするなんてな。部下にはいつも、さんざん怒鳴り散らしているくせに」
「そんな……きっと、お忙しくて疲れていただけですわ。誰でも忘れることはあります」
「いや、忘れていたじゃあ本来は済まされないミスだった。たまたま君がフォローしてくれたから助かったが、またこんな、君の責任感に漬け込むような真似をして」
見るからに辛そうな八神の顔に緋乃はどんどん困惑してきた。まずい、何だか逃げられない雰囲気だ。
一度この人と話すべきなのはわかっているが、下手に話して妊娠に気取られたばあい命取りである。
でも今日は嫌なのだ。界に連絡したいのだ。
今夜こそ電話しなければ、界はおそらく見込みがないと考えるだろう。そして自分たちはすれ違い、下手をしたらもう一生会えなくなってもおかしくはない。
そんなのは絶対いやだ。
決心した緋乃がやはり断ろうと八神を見た──その時である。
「もちろん行くよねー? ミス恩納!」
「えっ」
「は……」
突然後ろから英語が響いてびっくりする。
この声は、と振り返ろうとすれば、いきなり背後から抱きしめられて悲鳴を上げた。
八神が叫ぶ。
「ノイマン!」
「ミスター八神、僕も一緒に三人でディナーをすればセクハラにはなりませんよ」
(せこい!)
緋乃は歯噛みしながらノイマンを突き飛ばした。さすがノイマン、悪知恵を働かせているが、そもそもお前の行動自体がセクハラであると言ってやりたい。
「……っ、あなたね、いい加減に──」
「ああ、そうか! 成程。それは考え付かなかった」
(ちょー!)
緋乃がノイマンを叱責するよりも先、ぽんっと両手を打って答えた八神に内心で突っ込んだ。そうじゃない!
正直ノイマンが入るなら八神と二人きりの方がましである。しかし誰かに見られた場合は二人きりよりノイマンがいる方が都合がいい、それも事実。
(え、っていうか拒否権ないの? いやいや断ろうよわたし)
ハッと流されかけていた自分に気づいた緋乃は、何食べようかとすでに盛り上がり始めている男二人に慌てて片手を挙げて割り込む。
「あのっ! 私、あいにくですが、先約が……」
「ミス恩納、中華好き? この近くで最近噂のお店知ってる?」
「え、は」
「ほら、焼き小龍包が噂の」
「……あ、そこは微妙だって確かかちょ」
「そかー、じゃあ君が前気に入ってたダイニングバーにしよう。案内してよ」
「なんでわたしが!」
「だって君しかそのお店知らない。おいしい牡蠣が食べられるんだろ?」
ノイマンの巧みな話術に巻き込まれ、緋乃は思わずすがるように八神を見た。とか言って、この人がなんとかしてくれる訳もないのだが。
果たして八神は緋乃の困った顔を見て、なんだか照れたようにこう言った。
「心配しないで。御馳走するから」
(だからそうじゃなくてー!)
心の中で再び盛大に突っ込んだ緋乃の肩を、ノイマンがぽんと掴んだ。
***
しかし嫌々赴いたダイニングバーがおすすめというのは本当の話だ。
広島の牡蠣が有名で、産地直送、ぷりぷりで大きな身、何よりも緋乃の好物。
「美味しい〜!」
出てきた牡蠣の天ぷらを前に思わず声が出てしまった。
カキフライでは味わえないこのふっくら感、衣が薄いのでダイレクトに牡蠣の厚みが味わえる。噛んだ断面がじゅわじゅわと言っているのは揚げたての証拠である。
冬だったら生牡蠣も食べられたのにな〜、でも今の時期なら酢牡蠣も良いかも、と止めようもなく頬を緩める緋乃を見て、それ以上に嬉しそうに八神は笑った。
「良かった。久しぶりに君の笑顔を見ることができた」
「……え」
緋乃は改めて目の前の人を見た(ノイマンはお手洗いである)。
彼はまだ食事には手をつけておらず、軽く御通しをつまんでワインを飲んでるだけだ。
なのに、何がそんなに嬉しいのか、緋乃を眺めながらにこにこにこにこ。
「えっと、支社長?」
「八神でいいよ」
(そういうわけにも~)
また一つ牡蠣をさくりと噛みながら思う緋乃、今日は完全に突っ込み係だ。
「あの、召し上がらないんですか?」
「……あ~、実は、牡蠣はあんまり得意ではなくて」
「えっ? じゃあどうしてこのお店に!」
びっくりして箸を止めた緋乃に、八神はちょっと黙ってから、それから困ったように目じりを下げた。
「……いいんだよ。今日は、君の希望を叶えるつもりだったんだから」
「え?」
「本当にお詫びしたかったんだよ。これまでのことを」
穏やかで、だが心から言っているのだと伝わってくる誠実な声だった。
緋乃はその声に、胸の中にずっとわだかまっていた塊がふわりと溶け出していくのを感じる。
それはドイツから帰ってきてずっと、八神との間に感じていたしこりのようなもので、彼と向き合うたびに緋乃の心を凍りつかせていた原因そのものだった。
(私、結構ショックだったんだ……この人に信頼されなかったこと)
どうやら思った以上に自分は八神を慕っていたらしい、と気が付いて、緋乃は恥ずかしくなってしまった。
「いろいろ、ごめんね。恩納さん」
優しいまなざしでそう言われては、もうこの人を憎むことは難しい。
緋乃はなぜか赤面してしまいながら狼狽えた。
「い……いえ。私こそ、失礼なことを言ったりして」
「それが君のいいところなんだよ。はっきりしていて、自分があって」
「生意気なだけですわ」
「いいや。私に言わせれば君は多くの意味でエレガントだし、礼節もわきまえている。素敵な女性だと、初めて会った時から思っていた」
酒のせいか、普段なら絶対ありえないことを八神は惜しげなく口にしている。緋乃はさらに照れてしまった。
「し、支社長。もう酔っていらっしゃいます?」
「うん? いや、おれは本気だよ?」
そう答えて、八神はもう一度ふわりと笑った。
「本気で、おれには君しかいないと思っている」
割と衝撃的な発言をされたと思ったが、まさにその時ノイマンが戻ってきたので緋乃の気はそれた。というか、わざと逸らそうとした。
八神の言葉の意味をあまり考えたくなかったし、今の自分にそれだけの余裕はないと脳が勝手に拒んだのだ。
「あっち座って。ノイマン」
「え〜なんで〜」
なぜか迷わず自分の隣に座ろうとしたノイマンに、緋乃は向かい側の、八神の隣席を指さしてそう言った。
八神もさきほどの発言など全く無かったかのように真面目な顔でノイマンに告げた。
「そうしろ、ノイマン。あっちから見たらお前と恩納さんが二人で食事をしているように見えるから」
「はいはい。まったく、本当に臆病ですねえ、日本の企業戦士の方々は」
ノイマンは肩をすくめながらも結局八神の隣に腰を下ろし、それからテーブルの上の状況に目をやって首をかしげた。
「あれ。ミス恩納、飲まないの?」
「ええ。いま禁酒中」
内心どきりとしながらも、表面上は冷静さを保ったまま緋乃は答える。ノイマンは日本酒に手をつけながら灰色の目を瞬いた。
「禁酒ってなんで。ダイエット中?」
「的中よ、ノイマン」
微笑んでごまかしたとき、店員が次の料理を持ってきた。今度はふぐ刺しである。普段ならめったに食べれない高級魚を頼んだのはもちろん八神。
「お、きたな。おれの好物だ」
「さすが、お金持ちですね~」
「遠慮せずに食べてくれ、ノイマンも。……っておまえ聞いてるのか」
箸を持ち上げながら八神が隣席に視線を遣ると、そこに座っている男は和服姿の麗しい店員をナンパしていた。普段は英語か母国語で話す癖に、こういうときだけ日本語を口にしている。
「オネエサン、きれいですねー。着物がとってもビューティフル。よかったらぼくと……」
「ノイマンー。そういうのは後にしろー」
「食べちゃうわよ?」
「え、まってよ!」
プライベートでは普段よりずっとフランクな八神に、ゆるいノイマン。
仕事でしか向き合ったことのない二人と一緒に食事をするのは意外なほどに楽しかった。
「はぁ。ご馳走様でした」
「いや。しかし美味しかったね」
「やっぱり日本の料理はレベル高いですよね~。いやぁ最高でした」
メインはふぐちり鍋。その後、牡蠣飯。デザートは広島産レモンのゼリーでサッパリと締め、あっという間に食べ終えた。
この頃にはすっかり食べ物に釣られ、食後の感想を八神・ノイマンとにこにこ話し合っていた緋乃は、しかしおもむろに時計を見上げて我に還った。
(──電話!)
気付けば既に20時過ぎ、このままでは今夜も彼に連絡を取らぬままに終わってしまう。家に帰ってからなどという悠長なことは言ってられない、思い立ったが吉日だ、と緋乃はガタンと立ち上がった。
「す、すみません、わたしお手洗いに行ってきます!」
そのまま鞄を引っ掴んで踵を返す。和モダンな店内は平日だが仕事帰りの人々で混みあっており、うるさいとは言えないまでも賑やかだ。
ここじゃだめだと緋乃は薄暗い店内を抜けて行き、静かな場所を求めて一度店の入り口を出た。
「っ、わ」
ビルの地下に在るこの店は、細い階段を昇らないと外に行けないが、薄暗いせいで足元が悪く、一段目につまづいた。慌ててしっかりと手すりを掴んで息を吐く。
ゆっくり昇ろうともう一度階段に足をかければ、空いている方の片手を誰かに捕まれた。
「どこ行くの。ミス恩納」
ぎょっと振り返ればノイマンだった。八神と一緒に彼も結構飲んでいたので、グレイの瞳がそれなりに据わっている。
緋乃はああまたかと息を吐いて彼の手を振り払い、先へ進もうとしたが──。
「聞こえなかった? どこに行くのって聞いたんだけど」
「ちょっ」
再び、今度はかなり強い力で背後へと引っ張られ、階段から下に下された。反動で鞄が手から滑り、地面に落ちて中身が散らばる。その中には界がくれたあの青い花もあって、緋乃は慌てて手を伸ばしてそれを掴もうとした。
だが何故か、ノイマンが一足先にそれを拾ってしまう。
「──返して!」
緋乃が思わず大きな声を出せば、ノイマンはにやりと笑って青い花のしおりをひらひらさせた。
「へぇ、懐かしい。我が国の花、矢車菊。どうして君がこんなものを?」
「知り合いから、もらったのよ。いいから返して」
手を伸ばしてもするりと躱されてしまう。緋乃は苛立ってノイマンを睨んだ。
「ノイマン、悪ふざけが過ぎるわ! それは本当に大切なものなの。お願いだから返してちょうだい」
「知ってる? 矢車菊は別名”皇帝の花”と呼ばれることを」
「……え」
その言葉は他でもない最愛の彼を思い起こさせて、思わず動きが止まってしまった。ノイマンはそんな緋乃を見て更に愉しそうに眼を細める。
「やっぱり、これをくれたのはあの彼かな。ヒルダのいけすかない日本人」
何故知っているのかと思ったが、イエスともノーとも答えられずに緋乃は黙った。ノイマンが一歩近づいたと思ったら、そのまま一気に体を押されて後ろの壁に押し付けられた。
「ちょっ……」
「ねぇ。お酒を飲まなかったのは、ほんとにダイエットが理由?」
かすかなアルコールの香りと共に囁かれた、その言葉に、驚きを通り越して恐怖を感じた。
喉が一気に干上がって行く。逃げたいと強烈に思ったが、片腕を強く掴まれていてできない。
ノイマンが空いた片手を伸ばしてきて髪に触れた。
思い切りびくりと跳ねた肩に、一瞬のち、ばさりとまとめていた髪が落ちる。
髪留めを外されたのだと理解した時には、彼の顔が目の前に迫っていた。
「最近ハイヒールもはいてないし。……もしかしたら君、」
青い花、と緋乃は願う。
助けて。私の青い花。
「──妊娠、してたりして?」
愉悦を含んだ声と吐息が頬にかかった、その時だった。
「手を離せ、ノイマン!」




