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「そう。まずはおめでとう」
妊娠の事実を報告した所、川村課長は笑顔で祝福してくれた。
緋乃もかすかに微笑みを返したが、その笑みはすぐ強張ったものに変わる。今後のことを考えなければいけないからだ。
「でも、まだ……周りには言わないで欲しいんです。少なくとも安定期に入るまでは」
「そうね。こういうことを言いたくはないけれど、何があるかわからないしね」
川村は頷いてから、でも、と緋乃の眼を覗き込んだ。
「元彼君には早く伝えた方がいいわよ。それで、どうするか二人でちゃんと考えないと」
「……はい」
「まあそれぞれ事情があるとは思うけど、結婚するならする、しないならしないで、今後仕事を続けるかどうかも変わってくると思うしね。しかも彼はドイツに住んでいるんでしょ?」
川村はいつもどおり会話の主導権を握っていたが、そこまで喋って気付いたらしい、ん、と口元を手で押さえて緋乃を見た。
「あ、あらごめんなさい……遠距離で別れたんだったわよね、確か」
「だいじょうぶですよ。その通りですから」
緋乃は苦笑して、少し不安が解れるのを感じた。
川村は本当にお喋りだし余計なことも確かにべらべら喋るのだが、不思議と憎めない魅力があるのだ。それは彼が、本気で部下を思いやってくれているからだと思う。
「確かに、彼と会えないのが辛くて辛くて、それで無理だと言い出したのはわたしのほうでした」
緋乃と川村は今、ビルの高層階にある会議室の一室で話している。ここから見える都心の景色は、人々の作った造形物よりもずっと空の面積の方が広くて、白くかすむ上空からまるで青空が滴っているように見える。
高所恐怖症だからあまり窓際には寄らないが、それでもデスクから時々空を眺めては、緋乃はなんとなく足元がおぼつかなくなる感覚を覚えていた。
だが、今は何故か、それが無い。
「わたし、彼のことがほんとうに大好きで……。一緒に居られればそれだけで心の底から幸せだった」
「恩納ちゃん……」
「でも、会えない辛さでこの恋を塗りつぶしてしまったのは、きっと私自身だったんです」
自己を責めるわけでも、過去を後悔する訳でもなく、緋乃はどこか温かい気持ちでそう思う。
「彼の事を好きだからこそ困らせたくなかった。でも、今になって思うんです。それでもいいから、会いたいって言えばよかったなって」
もっとあなたと話せばよかった。
もっとあなたに大好きだって言えばよかった。
手が届く場所にあなたがいる内に、伝えておけばよかった──。
多分、そういうことをしなかったから、私たちはすれ違ってしまったのだろう。
「だから、もし今度彼に会えたら……って、課長?」
喋っている内にお向かいからの反応が無くなって、緋乃はあれ? と川村を見た。そしてびっくりした。
「うっ」
「か、課長!? どうしたんですか!?」
川村が、泣いていたのだ。眼を見開いたままボロボロと、大粒の涙をこぼして。
「大丈夫ですか!? す、すみません、私何か変なことを……っ」
「ち、違うのよ。違うの。あんまりピュアな話で感動して~」
「えぇ?」
驚く緋乃を前に、川村はふところからきちんとアイロンを当てたハンカチを取り出して目元を押さえている。ぐすぐすと鼻まで鳴らしていたので緋乃はなんだか畏れ多い、と思ってしまった。
川村はそのまましばらく泣いていたが、やがて呼吸を整えて、赤い目元で緋乃に再び向き直った。
「ごめんなさいね。感動してしまったわ」
「い、いえ」
「ああ、でもやっぱり私は絶対結婚してほしいわぁ。そして元気な赤ちゃんを産んで幸せになって欲しい」
川村はうっとりと両手を組み合わせて言ってから、そこでふと眉を顰めた。
「でも、その場合は──退職しちゃうのかしら?」
「いえ、仕事は……できれば続けたいと思っています」
緋乃は慎重にそう答えた。ようやく話がまともな方向に戻ってきた。
「もちろん結婚するかはわからないですし、シングルマザーになるかもしれません。でも、どちらにしろ私はこの仕事が好きなんです。できればもういいって思うまで続けたい」
「うん……そうね。アタシとしては、嬉しいわ。恩納ちゃんみたいな優秀な子は居てくれるとホントに助かる」
川村の言葉は素直に嬉しいものだったが、同時にどこか奥歯に物が挟まったような感じがした。緋乃も、その理由はなんとなくわかる。たぶん川村は、今後の社内での緋乃の立場を心配しているのだろう。
その証拠に彼はこう尋ねてきた。
「恩納ちゃん、八神とはあの後話した?」
緋乃は黙って首を振った。答えはNOだ。
「いえ……担当を外れてからは、一度も。支社長は話をしたいと言ってくれてるみたいですが」
「でも実際には声かけてこないでしょアイツ」
「ハイ」
「ったく、何してんのかしらねぇ!」
川村はたちまち苛立った顔をして、テーブルをどごふっと拳で叩いた。テーブルに置いてあった緋乃の手帳がちょっとだけ宙に浮く。
「なんっかそういう、気弱な所あんのよねー。秘書殺しの八神とか言われて気にしてるみたいでさー、仕事はガンガン振るくせに面と向かって話すことができないみたいで。思春期かよっての」
さすが長年の同僚である、よく八神のことを分析していた。
緋乃はしみじみ頷きながらこれまでの彼との仕事を思い出した。確かに彼は、業務上では売り上げの数字や取引先の株価や業績等よく見極めて的確な指示を出すものの、こと対象が人間、特に女性となると一転消極的になる。
「……支社長は照れ屋なのかもしれませんね」
「違うわよ。セクハラ・パワハラのリスクが怖いだけなのよ」
ばっさりと切り捨てて、川村は緋乃を申し訳なさげに見た。
「だからこそあなたのことが心配なのよね」
「──」
緋乃は思わず下腹を押さえた。
やはり、と思う。
「……わたし、クビになるでしょうか。もし支社長に妊娠のことが知れたら」
静かに尋ねると、川村はぶんぶんと首を振った。
「クビにはならないわよ。でも、色々言われるのは……避けられないと思う。元彼クンが取引先の男性ってことで、あなた方の事情を知らない人からは好き勝手。あることないこと」
例えば、色仕掛けでたぶらかしたとか。それで仕事を取ったんだとか。
取引先の男に手を出す常識も節操もない女だとか、まして妊娠までしたのだからだらしのない女だと批評される可能性も高い。
いや、むしろ自分と界の恋愛なんぞ他人からしたらどうでもよい話なのだから、取引先の男性の子供を妊娠したとだけ聞けば多くの同僚はそんなふうに思うだろう。
果たして自分はそんな中でも今までと同じように働いていけるのだろうか。
正直、わからない。しかし強くならなければいけないのだと思う。
この体に宿った命を守るために。
「……仕方ないですよね」
「そんなことないわよ!」
小さく認めた緋乃の態度に、川村は声を大きくして反論した。
「貴女は悪いことをしてないじゃない! 今までずっと真面目に働いて来てくれていたし、男ったらしからは一番遠い女の子よ。彼に向こうで会ったのは偶然なんだし、業務時間外に会ったのならプライベートの範疇内──」
「いいえ。私にも責任はあるんです」
緋乃はやんわりと川村の言葉を遮って、かすかに笑った。
「確かにプライベートの時間でしたけど、出張中に彼と会った。八神支社長には釘を刺されていたにも関わらずです。そして子供ができるようなことをしましたから」
「それは、想いあってる同士だもの……」
「ええ。後悔はしていません」
それは本当に心からの言葉だ。
でも、だからこそ、と緋乃は続ける。
「私が支社長の期待に背いたのは事実なのだと思います」
川村とはその後も長く話したが、とりあえず八神に妊娠のことは悟られないようにと念入りに約束させられた。相当心配されているようだ。
緋乃も、今の所それが最善だと思うので了承し、仕事に戻った。
そしてようやく定時を迎え、重い体を引きずって家に帰ると、一通の手紙が届いていた。
うす青いモダンなデザインの封筒。
差出人の名は書いていなかったけれど、ネイビーのインクと達筆な文字で彼だとわかる。
「……界?」
あなたなの、と思わず指先で封筒の表面を撫ぜる。かすかな凹凸がまるで肌に染入るようだ。
たぶん、妊娠が発覚する前だったら開けないで机の奥に押し込んでいただろう。
だがいま手紙をもらった自分は嬉しさのあまり泣きそうである。
逸る気持ちを抑えながら机の中に手を突っ込み、レターオープナーを取り出して封を開けた。
すると中には真っ白な便箋、それに、サファイアのように美しい青い花が押し花となって入れられていた。
「ヤグルマギク……」
緋乃は思わず微笑んでいた。
それは、界とまだ付き合っていた頃に贈られた思い出の花だ。
緋乃が桜の押し花を送ったお礼にと、彼は国を超えて花束を届けてくれた。
それがこの花だ。
確か五月がシーズンの花だから、時期が過ぎたいま押し花でくれたのだろう。
(うれしい)
緋乃は、押し花を鼻に近づけて思い切りその香りを吸い込んだ。胸があたたかく綻んで行くのを感じて、自覚していたよりもずっと不安だったことに気が付く。
ここに界がいるわけではない。なのにそばに居てくれているような気持ちになる。
まるで魔法のように一瞬で幸せになった。
本当に嬉しくて、涙がじわりと瞳に溢れる。
滲む視界で便箋を開くと、緋乃は手紙を読み始めた。
緋乃
突然の連絡を許して欲しい。
たぶんいきなり電話をしても、メールをしても、君は応じてくれないと思ったからこの手紙を書いている。
ミュンヘンで再会してからもう二か月が経つんだね。……なんだかまだ信じられないような心地がしている。
君にあの時会えたことは、俺にとって本当の意味での幸福だった。すくなくとも、それを思い出させてくれた。
でも思い返せば俺はあの時きみに甘えていてばかりで、全然君のことを思いやってあげられなかったんだと思う。そのことを、謝るよ。
本当にごめん。
でもこの手紙を書いているのは謝りたかったからじゃない。
もう一度だけ、俺にチャンスを与えてほしいからなんだ。
実は来週から東京に行くことになった。出張で、今度のチャリティの会場を回ったり、また八神さんたちと会ったり、全然別の仕事もあるけど一か月くらいの長丁場になる。
そこで俺ともう一度、会ってくれないか。
君の意志が固いのはよくわかっている。でも、会って話したいことがあるんだ。とても大切なことを、俺はこの間きみに伝えることができなかった。
だから、もう一度だけ。それで最後だ。
その後のことは、君の意志に従うから。
もしも君が俺を振ったことを少しでも後悔しているなら、どうかイエスと言って欲しい。
──親愛なる、最愛の君へ。
界
※実際には、矢車菊は香りがほとんどないそうです!
多分イケメン君は香り付きのしおりでも選んだのでしょう←すんごい適当ですみません




