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「お兄様! どういうつもりなの!? カイを日本に行かせるなんて!」
ヒルデブラント本社人事部所属、ヨハンナは今日も不機嫌だった。
華奢な肩を怒らせて朝一番に突撃したのは専務室、つまり彼女の兄の執務室である。
「来るだろうと思っていたよ、ヨハニー」
ジークフリート・ヒルデブラントは顔中に苦い笑いを浮かべて妹を迎えた。その机はきちんと整頓されてはいるものの、処理しなければいけない仕事が山積みである。
だが妹はそんなことには一切構わず、兄のすぐそばまで詰め寄るとその腕をぎゅっと掴んだ。
「あたりまえでしょう!? どうして行かせたのよ、日本に帰ったらカイはあの女に会いに行くに決まってる!」
「それが仕事なんだよ、ヨハニー。彼はプライベートではなく、うちの営業として先方を訪ねるのだ」
感情的な妹をたしなめるように、あくまで専務は穏やかだ。しかしその物静かさが余計に気に障ったらしく、ヨハンナは苛々と地団太を踏んだ。
「それだけで終わるわけがないじゃない! お兄様だって知ってるでしょう、春からずっとカイの様子がおかしいこと──あの女のせいなのに!」
(やれやれ)
ジークは内心でため息を吐く。本当にこの子は幼稚だ。
自分たち家族が蝶よ花よと甘やかしたおかげで、ワガママを言えば何でも思い通りになると思っている。そして思い通りにならないとこれだ。
まぁ、そこが可愛い所なのだが、
(彼女には逆立ちしても叶わないだろう)
彼女とはつまり、ヨハンナがあの女と呼んでとことん目の敵にしている日本女性、緋乃である。
ジークは春のパーティで初めて会ったが、とても冷静でエレガントな女性だった。個人的にアジアの女性は「カワイイ」を至上主義としてファッションも中身も薄っぺらいイメージがあったが、彼女には見込みがある。
綺麗なドイツ語でいくつかの話題を共有したが、日本における医療福祉の問題点を指摘して、逆にドイツのそれに興味があると言っていた。
その時は界の元恋人だとは知らなくて、ただ普通に賢い女性だと印象に残っていた。後から界がおかしくなったのでその素性が知れ、ああなるほどと納得したものだ。
(界には見る目があったということだな)
専務は思う。
昔から知っている弟のような界だ、どんな女性を好きになるのかと思っていたが、成程良い子を選んだものだ。
「……ねぇっ、お兄様! 聞いているの!?」
ヨハンナの高い声に現実に引き戻される。
ジークは伏せていたグレイの瞳を上げて、愛しい妹の顔に視線を戻した。
「……聞いているさ。かわいいヨハニー」
白磁の肌。小さい、小さい顔。それをふちどる柔らかそうな巻き毛に、可憐な桃色の唇。
グレーテルの両親はジークフリートのそれとは違う。
彼女は、本当の両親が訳あって育てられないからとヒルデブラント家に預けていった養女である。
ジークはそのことをはじめっから知っていた。
だから、ヨハンナが大きくなるにつれて、彼女を妹として見ることが難しくなっている自分に気が付いたのだ。
「だったら! 今すぐカイを呼び戻して。そして早くわたしとの婚約を成立させてちょうだい!」
「そうしたいのはやまやまだが、界の気持ちもあるしね。チャリティが終わるまでは会社もバタバタしているし」
「だって彼に選択肢なんてないでしょ!? あの人の父親はうちのおかげで仕事に就けているんだから」
つんっと顎をそびやかして桃色の唇からそんな残酷な言葉を零す、無邪気で冷徹な妹。
ジークはさて、と考える。どうしようか。
私はこれまで自己の欲望に蓋をしてきた。その方が上手くいくことが多かったからだ。
仕事も、恋愛も、友情も家族関係も、我を貫いてうまくゆくことなど一つもない。そう信じて、常に笑顔で第一希望は人に譲ることをあらゆるものの解決策としてきた。
しかし、今。
恐らく人生で初めて、それでは上手く行かないだろう事態が目の前に立ちはだかろうとしている。
それは切なる叫びであり、密やかな願いであり、卑怯な呪いでもあった。それらが多くの人間の手足を絡み取り、引き寄せて、胸の奥に隠しているものをこじ開けようとしているのであった。
「お兄様ったら。ねえ、わたくしのお願い、きいて下さらないの?」
媚を含んだ妹の視線を受けて、専務はついに微笑んだ。いや。
「大丈夫だよ、ヨハニー」
日本にも、味方はいる。
***
「そう。そのフォルダに入ってるから。うん。君のやり方で訂正してくれていい。細かい仕事はサントスかキムに頼んで──え? ああ勿論、カーラでも。決定権は君に預ける」
「わかりました。……それにしても、急なお休みから復帰されて次の日に日本出張されるだなんて、聞いてませんわ。今日のランチは専務にごちそうしてもらおうと思います」
チームメイトであり優秀なアシスタントであるベサニーは電話越しでもわかるほどに怒っていた。理由は彼女も言った通り、界が突然一週間会社を休んだ上、ようやく出社したと思ったらその次の日に出張に出てしまうというメチャクチャなスケジュールを会社に強要されたため。
「代わりに俺がご馳走するから堪えてくれよ。ミス・アボット」
「ベサニーと呼ばないのは何の嫌味なんですの?」
「ベサニー。許してくれって。帰ったらきっと、もうみんなを困らせるようなことはしないと約束する」
「あなたが私たちを困らせたことはありませんわ、カイ」
ベサニーは謙虚な界の言葉に少し声をやわらげて、そう言った。
「……そうでした。あなたはいつも完璧で、むしろ欠点があればいいのにとみんなで思っていたのでしたわ。わたくし矛盾していましたわね」
「それは思いやりなのかなんなのか」
「勿論、私たちみんな貴方のことが大好きなんです」
ベサニーは微笑んだような声で界に伝えた。
「だから、気を付けて行ってらっしゃいませ。あなたがこれからどんな決断を下すにせよ、どうぞ思い残すことのありませんよう」
界はありがとう、と答えて電話を切った。
今回の出張の目的は勿論チャリティ関連の現場回りと、それからミュージシャンとしてのプロモーション活動の両方だった。必然的にジョージと一緒のスケジュールが組まれており、界は彼と一緒に日本へと降り立った。
「ハーイ、お待ちしておりましたー。ようやくのご登場ですね、ヘア・瀬川?」
空港で出迎えてくれたのは、大和ファーマ営業部のランツ・ノイマンであった。界は露骨に嫌な顔をして、ジョージがそんな彼を背中に隠した。
「やあー、ミスター・ノイマン! お世話になっております、わざわざ出迎えていただいてスミマセン」
「ああ、ミスター・ヒューバー。あなたとはしょっちゅうやり取りしてましたしこの間も日本に来てくださいましたよね。僕があいさつしたのは全然来ないそっちの瀬川さんのほうで」
相変わらず、なぜか界に対して剣呑なノイマンである。そんな彼の態度を受け、界は一転、黒い笑顔を浮かべて前に出た。
「すみませんね、忙しくて」
「おやおや。社長の御嬢さんとよろしくやっていたんですか?」
「……なんだと?」
流石に界の声が低くなる。ジョージが「とにかく!」と慌てて割り込んだ。
「いやー、僕おなか減ったなあ。久しぶりの日本だし、ノイマンさんどこかおすすめのお店教えてくださいよ!」
「……いいでしょう。実は、予約してあるんですよ。うちの八神のお勧めで」
ノイマンはにっこりと笑うと、なぜかもう一度界の目を見て、はっきりと断言した。
「──日本へようこそ。皇帝」




