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課長の言葉を理解するまでに結構な時間を要した。
妊娠、というその単語が、何かのスイッチを押したように心臓の鼓動を速くさせる。しばし息もできないほどに胸は高鳴り、緋乃は、気付けば自分の両手が下腹部に触れていることに気が付いた。
(……え……)
平らな、見慣れた自分自身の体だ。
だがここに新たな命が宿っている可能性を指摘され、緋乃はそこで初めて、この数か月での己の体調の変化を顧みた。
嗜好の変化。体温の上昇。貧血の再発に、立ちくらみや吐き気。
学生時代からひどい生理痛でピルを常用しているため、生理が来ていないことには気が付かなかったのだ。否、正確に言えば出血はピルを飲んでいても起こるのだが、緋乃の場合のそれは極小で、無い時もしょっちゅうなので今回も気にも留めなかった。
「え、でも。でも!」
緋乃は混乱を言葉に出していた。あり得ない筈だ。
だって、ピルを飲んでいたらほとんど妊娠の可能性は無いのだから。
「……その様子だと、思い当たる節があるのね?」
「いいえ! だってあたし、ピル飲んでるんです」
そんなわけがない、と思って緋乃は言った。
だが川村は真剣な顔で言葉を添えた。
「あなたのピル服用は、避妊のため? それとも、生理痛のため?」
「学生時代から、生理が重いから、飲んでます。……もう何年も」
「じゃあ、飲み忘れたことがあるんじゃないかしら。特定のパートナーがいない、避妊目的じゃない人は、結構忘れることが多いって言うから」
「……たしかに、そうですけど」
疲れたりしていると飲み忘れたり、遅れて飲んだりすることは今までにも数えきれないほどあった。特にドイツ出張の前後からは忙しすぎて何度もそういうミスを犯したのを覚えている。
でも、異性との接触などまったくありえない生活を送っていたから、深くは反省していなかったわけだが……
「でも……そんな……!」
思い当たる節などひとつしかない。
かぁっと火照る頬を感じながら緋乃は混乱する頭をなんとか整理しようと試みたが、実際にはどんどんどうしていいかわからなくなった。気づけば椅子から立ち上がり、両手でおなかを抱えるようにしゃがみこんでいた。
「だとしたら、どうしよう!」
「恩納ちゃん、落ち着いて。大丈夫よ、八神には隠し通すし、仕事は産休が取れるわ。それに通院も、ちゃんと配慮するから──」
「そうじゃなくてっ」
緋乃は傍に膝を折ってくれた川村の手にすがるように声を挙げた。
「どうしよう、わたし、何回かお酒飲んじゃったし、ピルだって気づかずずっと飲んでて……! 赤ちゃんにそれで何かがあったら」
「──」
「どうしよう、もしわたしのせいで、元気に育たなかったりしたら……っ」
もし本当に妊娠しているとしても、日ごろからピルを常用していることから考えて、その可能性はとても低い筈だ。
しかしそれでも、緋乃の心は「妊娠していない」という仮定より「妊娠している」という仮定に傾いた。ほとんど迷うこともなく。
それは何故かって、もちろん、嬉しいからだ。
界との赤ちゃんが本当にこの体に宿っているとしたなら──。
そう考えただけで、今までに感じたことのないあたたかなものに全身が包まれるのがわかった。
だが、だからこそ、今までその可能性を考えもしなかった己の軽率さが不安を煽る。
「も……っ、わたしのバカ、界になんていえば」
「恩納ちゃん」
「赤ちゃんがもし、元気じゃなかったりしたら──」
「恩納ちゃん!」
嬉しさも、驚きも、疑惑も不安も、全てが緋乃を翻弄する。
どうしていいかわからず足元からどこかへ落ちて行きそうになってしまったその時、課長が緋乃の肩を掴んだ。
「とにかく、明日病院に行きなさい」
「……っ」
かちょう、と声にならない声が喉に引っかかる。緋乃は、乱れた己の髪が視界を遮っているのに気が付いたが、それを治す余裕はなかった。
課長は緋乃の眼を見て続けた。
「仕事は有給にしとくから。だから何にも気にしないで、ちゃんと全部、調べてもらって!」
「……わ、わかりまし、た」
「大丈夫よ。きっと大丈夫」
震える声で答えた緋乃の手を取って、川村はそう繰り返した。
「これはおめでたいことよ。例え八神があなたを、そしてあなた自身でさえ自分を責めるようなことがあったとしたら、わたしがそれを許さない」
床にしゃがみこんで話している二人は、すぐ傍にトランペットを持った若者が立っていることには気が付かなかった。
***
結果として、緋乃は本当に妊娠していた。
翌日の朝一で尋ねた産婦人科では「二か月に入ってるね」とあっさり告げられ、それから「おめでとうございます」との笑顔。
まさか、どうして、という思いはあった。正直あり得ないとも思った。
だが実際に自分は妊娠したのだし、医師もそれを認めたのだ。
まだ小さな、小さな胎児の写真を見て、そして今の所異常はないと聞いて、緋乃は安堵のあまり涙をこぼしたのだった。
(界との、赤ちゃんか……)
診察室を出た後、緋乃は病院の窓から空を見上げてほうと息を吐き出した。
──とにかく、赤ちゃんが元気で本当に良かった。
予定外すぎる事実なのに、喜び以外の感情が湧いてこない。そして自分が既に母のような感情を抱き始めていることが驚きであった。
仕事、どうなるのかな、と緋乃は非常に現実的に考えた。
支社長がこのことを知ればどうなるかは目に見えている。
先ず怒って、それから面倒そうなため息を吐き、なんてことをしてくれたんだと緋乃を叱る。そして言うだろう。
俺はちゃんと忠告しただろう、と。
(でも今重要なのはあの人じゃない)
母にも、友にもちゃんと報告したい。
でも一番この事実を伝えたいのは別の人だった。
緋乃は窓ガラスに手を当てて、空の向こうに居る彼のことを想う。
「……界」
仕事のことや、子育てのこと、未来がどうなるかはわからない。
でも、お腹の子は刻一刻と大きくなる。悩んでいる場合ではないのだ。
「会いたい、な」
思わず本音が唇からこぼれ落ちた。
界に、ほんとうに会いたかった。
いつも自分はその気持ちに蓋をして見て見ぬふりをしてきたけれど、果たしてそれは誰の為だったのだろうかと今になって思う。
ドイツに行く前も、彼と再会した後も、そして今も、結局私はずっと彼のことを想っている。忘れると何度誓っても忘れられない。
会えないけど会いたいとワガママを言って、界を困らせたくなかった。それも本当。
でも本当は、どんどん大きくなる気持ちを自分でもどうしていいかわからないから、見ないふりをしてきただけなのかもしれない。
(あなたが、好き……)
今でも。ううん、出逢ったころより、もっとずっと。
だから嬉しい。あなたとの子供を授かれたこと。
気付けばそっと下腹に手を遣って、緋乃は歌を口ずさみ始めていた。
「──に。妊娠!」
「──うん」
その日の午後、沙絵に連絡するとちょうど東京にいるということで飛んで来てくれた。
彼女は緋乃の報告を受けてまず固まり、それからぼろぼろ涙をこぼし、友をぎゅーっと抱きしめた。
「良かった、よかったね……! 緋乃」
「……ありがとう」
素直に喜びを表わしてくれるこの友が好きだ、と心から思いながら、緋乃もまた沙絵を抱擁した。普段は現実的なクセに、沙絵は何かあるとこうやって心のままに動いてくれる。
「どうするのよ、とか言わない沙絵が大好きだよ。」
にこっと笑って緋乃が沙絵の涙を拭きとると、沙絵はせっかくそうしたことが意味ないくらいにさらに泣いた。
「だって! だってだってだってさぁ、緋乃はずっとこうなりたかったじゃん?」
「……え」
涙でぐずぐずになりながらも友が言った言葉に緋乃は眼を瞬いた。──こうなりたかった?
「口にはしなかったけど、でもあんたはほんとはずっとさ、」
界くんと家族になりたかったんでしょう?