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絶対おかしい!
「え? お父さん? 特に何も聞いてないけど」
「でも、変だって。もし病気だったりしたら」
「うーん、あの人病院嫌いだからねぇ。でも元々お酒大好きだから、多少食べなくってもおかしくないとは思うけど」
「俺がヒルダやめてもいいって言ったんだよ? 俺から音楽を遠ざけるためにチェロを壊したことまであるあの人が」
「…………うーん、その件では、どうも」
「いや悲しまなくていいから、そこはもういいから、姉さんちょっと聞いてみてよ。俺には言えないのかもしれない。娘だとまた違うだろ」
「いーやー、アタシが勝手に結婚したことあの人まだ怒ってるからなー。仕事でフランス来ても連絡くれなかったしさ」
「俺だって今日会ったの二か月ぶりくらいだったけどね。でもこのままじゃ、あの人に何かあっても俺たち気が付かないかもしれない。それってやっぱり、良くないだろ?」
「……そうねぇ」
電話の向こうで姉は申し訳なさそうに息を吐き、それからわかったと短く言った。
「今まで、あの人のこと界にまかせっきりだったしね。お母さんにも聞いてみる」
「頼む」
電話を切った界は長嘆した。
親の面倒を見る義務が子供にあるのかどうかはわからない。しかし必要はあるだろう。
父も母も60前後とまだ若いのでそんなことを考えたことはなかったが、もし体の調子が悪いとなると話は変わる。
両親には色々思う所はある。
だが親は結局親で、他人にはならない。
(好きにしなさい、なんて)
父親の口からそんな諦めたような言葉が出るとは思わなかったから、界はどこかショックを受けていたのだった。
「でも反対されたら会社辞められないし、またチェロ壊されたりするかもしれなかっただろ。良いじゃないか。何が問題なんだ?」
ジョージがキャベツ煮込みをフォークですくいながら言う。
基本的に界大好きな彼は一週間に一度くらいの頻度で界のフラットにやってくる。今日も会社帰りにふらっといきなり現れた。
「確かにそうなんだけど、拍子抜けしたんだよ」
界はテーブルで食事をするジョージから少し離れて、リビングの椅子に腰かけていた。チェロの弦を張り替えているのだ。
会社の仕事が休みになるのと同時に自分の中で音楽の比重が大きくなって、ここ数日はよくチェロを練習している。やはり楽しい。
「親父は今まで俺がやること為すこといちいち否定してきたからな。今回だって鬼のようにキレて耳を覆うような言葉で潰されるに違いないって俺は踏んで臨んだんだ」
「そこまで……」
「やるよ。あの人ならそれぐらいやる。そうやって生きて来たんだから」
界は言いきって新しい弦をぴんと張った。ガット弦は白くて見た目にも美しい。
ジョージはちびちび酒と食べものを交互に口に入れながら界のことを眺めていたが、やがてためらいがちに「なあ」と言った。
「何?」
界は顔も上げずに答えた。
「君のお父さんって、音楽嫌いだよね」
「それはもう。だから俺のことを認めないわけで」
「でもさ、お父さんがなんで音楽嫌いになったか聞いたことある?」
弦を張る手が止まる。界はジョージをまっすぐ見たが、彼は目線を伏せていた。
何か躊躇うような……気まずそうにも見える表情で腕を組んでいる。
「ジョージ?」
強くその名を呼び、どういう意味だと言外に催促すれば。
「……この間、君のお父さんと話したんだ」
ジョージは頬をかりかりと掻いて白状した。
界は度肝を抜かれた。
「親父と! 話!」
「成立しました、一応」
「いや待て、そこじゃないよな?」
はっとして額を押さえた界は、改めて友人の眼を見据えた。
「どういうことだ?」
「いや~沙絵が来てハッパかけるまで君さぁ、一歩間違えば東尋坊から飛び降りそうな雰囲気だったから」
「ここはドイツだ!」
いちいち突っ込むのも面倒で先を促す。
「で? 何を話したんだよ」
「君のお父さんとグレーテルさんと社長の話」
「……それが親父の音楽嫌いとどんな関係が」
「まあ、聞いてよ」
ジョージはワイングラスにどぼどぼと酒(界の)を付け足して立ち上がると、居間にいる界の近くまで歩いていって、ソファにどすんと腰を下ろした。
そして話し始めた。
***
界の父、こと瀬川正巳は日本の有名大学に在籍していたものの教授たちと馬が合わず、知人にすすめられてミュンヘン大学に進学した。
そこで出会ったのが現ヒルダの社長であるカール・ヒルデブラントとグレーテル。
それから小松烝という日本人男性であった。
この小松という男はミュンヘン大学とは別の音大でピアノを勉強していたそうだが、何かのきっかけでカールやグレーテルと知り合ったらしい。授業の合間にしょっちゅう遊びに来ては学内をうろうろしていた。要するに学校同士が近所だったのだ。
厳格な界の父に上昇志向の強いカール、気が弱いが優しい小松。そして彼等三人が憧れていた光のような美女・グレーテル。
全然違う性格なのに不思議と四人は馬が合って、よく一緒に行動していた。
彼等四人を繋ぐ唯一の共通点は「夢」だった。
マサミは言語学の権威になると宣言し、カールは父の会社を世界の一大企業にすると決心していた。そしてピアニストを目指していた小松に、愛する人の子供を産みたいというグレーテル。
(三十五歳になるまでに夢をかなえよう)
そんな風に約束をして互いに切磋琢磨したものだ。
簡単な道ではなかったけれど、互いが努力する姿に刺激を受け、辛い時には分かち合い、些細な成功に喜び合って、四人の毎日は輝いていた。
大学の図書館で勉強をしたまま寝てしまったのを起こしてもらったり、こっそり滑り込んだ講義で借りてきたCDを聴いたり、サッカーの試合の日に敵方のユニフォームを着て危険な目にあったりとか。
卒業してからも生活が苦しくて、食べ物を買う余裕も無かったころには、互いに食べ物を差し入れしてしのいだりもした。
そんな風にして、四人は文字通り支え合って進んできたのだ。
転機が起きたのは、グレーテルが小松を選んだ時だった。
(彼を支えたい)
小松はなかなか音楽家として目が出なくて、望まぬアルバイトや短期の音楽教師の仕事などをして食いつないでいた。マサミは母校のミュンヘン大学に助手として就職し、カールもまた父の会社を軌道に乗せはじめた頃であった。
男三人からのプロポーズを受けたグレーテルが、はっきりと小松を選んだのだ。
(マサミのこともカールのことも大好きよ。でも、烝は私がいないと生きていけない)
美しいだけでなく賢かったグレーテルは、この時から既に大きな会社で秘書として働いていたので、烝よりはよほど経済的に余裕があった。それでも彼を養うほどには至らなかったので、マサミとカールは必死に彼女を説得した。
(グレートヒェン、待て。あいつと一緒だと君が苦労するだけだ!)
(そうだ、子供を産みたいんだろう? そのためには、理想だけじゃ食っていけないんだぞ)
(言ったはずよ。私は愛する人の子供が産みたいのだと)
答えたグレーテルの顔には涙が流れていた。
驚いて言葉を失う友ふたりに、彼女はそこで、小松が心身ともに病んでいることを告げるのだった──。
「……それで?」
「それで、グレーテルは小松さんと結婚した。けど、小松さんは結局回復しなくて、最後のあたりは本当にアップダウンを繰り返しながら、泣き喚いて死んでいったらしい」
ジョージはそこで息を吸いこんで、そして吐いた。
「君のお父さんとカール社長は、小松さんを救えなかったことを悔やんでいるみたいなんだ。そこから段々疎遠になっていったらしい」
「なんで? そんなの誰のせいでもないってのに」
「そうだね」
頷きながらでもさ、と友は界を窺うように見つめた。
「たとえば僕は、界が小松さんみたいに死んで行って、自分が第三者の立場だったとしたら、やっぱり自分を責めると思うんだ」
「……それは」
「つまりそれくらい、君のお父さんと社長は、小松さんって人が大事だったと思うんだよ。小松さんとグレーテルさんをね」
ジョージの言葉に界は黙って考え込んだ。そんな話は初めて聞いた。
元々自分のことなんて話さないし、それ以前にコミュニケーションに難がある父であるが、そんな彼にも青春時代があったのだと知って界は色々思い知らされる心地だった。
つまり、彼があんな風になってしまったのも理由があったんだなあとか……カールやグレーテルとのつながりは当時からのものだったんだな、とか。
だから父とヒルダの取引は、ある意味救済とも言えるのかもしれないなとか。
それに、ああ、もう一つ。
「──だから親父は、音楽なんてロクなもんじゃないって、思うようになったわけか」
「ご名答」
まだ若い音楽家二人は、そろってため息を吐いて顔を見合わせた。
かなり極端な考えだ。
小松が音楽家を志したために貧困のなかで病み、死んだことは事実なのだろう。だが彼がそれで不幸だったかどうかは周囲には決してわからない。
病みながらも愛するグレーテルが傍に居てくれたのだから、そういう意味では救いはあったのではないだろうか。
「……どっちにしろ、それは親父の経験に基づく価値観であって、俺らにそれを押し付ける権利はない」
界は断言した。まとめると結局そういうことだ。
誰が何を考えようと勝手だ。
でも界の人生は界のもので、父のものではないのだから。
「でもさー、僕気になるんだよね。35までに夢をかなえようって言ってた約束、叶ったのかな」
「まぁ親父と社長は叶ったと言えるんじゃないか? 小松さんは……残念だったけど」
「じゃあさ、残るもう一人は?」
「グレーテル?」
界はそういえば、と金髪の魔女の姿を思い浮かべた。
親父と同年代ということは60に届くか届かないかの年齢のはずだが、彼女に子供がいるとは聞いたことがない。そもそも結婚していたことがあるとすら知らなかった。
「仮に小松さんの子供を産んでたとしたら、もう大きいよね」
「俺らと同年代ってことだろ? ないない」
そんなヤツ見たことないしと言ってから、界は心をかすめる何かを感じてあれ? と思った。だがそれを詳しく探ろうとしているとジョージがくすくす笑ったので気が逸れた。
「にしてもさ、愛する人の子供を産みたい、って。グレーテルさんにもピュアな女性らしい時代があったんだね」
「だな」
つられて思わず笑みを浮かべながら、界は何だかとても優しい気持ちになった。あるいは。
それは全て女性の夢なのかもしれない。




