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界は東京行きの飛行機に乗る沙絵を空港まで送った。
たーっぷりショッピングを楽しんだお嬢様の荷物を運んであげたのは、まあ何というか彼女に対する礼というか……緋乃に対する罪滅ぼしというか。そんなカンジだ。
で、着いたのはいいが時間が余ったので、現在ふたりでお茶という珍しいことをしている最中。
「たぶん来週くらいには日本に行けると思う」
界がそう言うと沙絵は眼をまるくした。
「……早いね。行動」
「いや、っていうか、前から仕事で行く行かないって話があったんだ。でもジョージが俺に遠慮してこっそり自分で行ってたみたいで」
「あー。で、気持ちが固まったんならお前行けって?」
「うん。そう言われた」
界は苦笑を浮かべてアイスコーヒーを傾けた。
「ばれないように出張するの大変だったんだぞこの野郎、って言われたけどな」
「うっふふ、そりゃそーだ」
沙絵は鈴を転がすような声で笑って、テーブルに肘をついて界を見た。
「でもさ」
「何?」
今日の彼女は白い艶のあるブラウスに真っ青なロングスカートを合わせている。フラットシューズやピアスを銀色で揃え、シンプルだが彼女らしい服装であった。
「ホントにいいの? 仕事辞めるって、ずいぶんあっさり言ったけど。そんな簡単なものじゃないでしょ」
「……俺は、決めたら揺るがない。代わりに決めるまでが時間がかかる」
界は湾曲的に答えた。細かいことは言いたくない、言えないのだ。
続けようと思えばいくらでも続けられるし、やめようと思えばやめるだけ。
仕事とはそういうものだと、界は思う。
社長になりたいとかトップセールスマンになるとかそういう夢があれば別なのかもしれない。だが、いま自分が抱えている顧客や同僚、会社そのものへの想いだけでヒルダに残ろうとは思えないのだ。
かと言って、そこで出会った人達のことを嫌になったわけではないから、例えば彼らの名前を口にすればするほど離れがたくなってしまう。
だから界は多くを語りたくはなかった。
「まあ、元々……俺は結婚願望強かったし」
「……そうね。昔っからそうだった」
はぐらかすように呟いたのだが、沙絵はしかし界を正しく理解していた。
「あなたは葛藤を人に見せないから、人はあなたが簡単に決めたと思うんだけど、実はあなたは血を吐く思いで決めているのよね」
「──」
界は驚きにかすかに眼を見開いた。
このお嬢様、なかなか鋭い。
そう、自分で何かを決めること、すなわち決意することは、本当はとても難しい。
誰のせいにもせず、自分が何を求めているか正しく理解し、その道へまっすぐ進んで行くことは、シンプルだけど苦労を伴う。
特に大人になると様々な制約に縛られて、心の声に対する感性が鈍くなる。だから界も、ここまで来るのに酷く時間がかかってしまった。
「そういうところ、変わんないよね」
沙絵の言葉に、界は思わず尋ね返した。
「褒めてる?」
「すごくね」
にっこりとほほ笑んだ友はきれいだ。看護師になり、働くという行動をとるようになったせいか、以前よりずっと浮世離れした感じがなくなった。人間らしく血肉を蓄えてきたというか。
なんか、時が経ったんだなと界は思う。
「それで、今回はどれくらい悩んだの?」
沙絵の声に誘導されるように界は答えた。
「──三年間」
沙絵を見送った界は、その足で市内のとあるレストランに向かった。
人と約束をしているのだ。
そこに居たのは──。
「遅いぞ、界」
界がこの世で最も恐れている男。
すなわち自分の父親であった。
***
父のことはずっと嫌いだった。
否、昔は好きだった。尊敬していた。
だがその気持ちにヒビが入るようになったのは、一家が日本に本帰国してすぐあと、彼がドイツに残ると手のひらを返してからだった。
(今考えてもなかなか珍しい話だよな)
界には一人の姉と二人の妹がいるが、瀬川きょうだいはそんなわけで早々に親離れせざるを得ず、学生時代から自立した生活を営んできた。
父がやっぱりドイツがいいと戻ってすぐ後、母もそれに倣い、結局きょうだいは四人だけで日本に住むことになった。そのとき界は高校生。末の妹に至ってはまだ中学生の頃のことであった。
(一言でいうとフツーじゃない)
エキセントリック、と界はテーブル越しの父親を盗み見てそう評する。
見た目だけなら、まあ悪くはない。
すらりと背の高い体にシルバーヘア、高い鼻梁に狭い額などはグレーテルに言わせれば「とっても渋い」。
しかしまともな父親ならば、高校生から中学生の子供だけ四人、いくら治安がいいからといって外国にぽいと放り出すであろうか。金は渡すといっても様々な料金の支払いや炊事選択、家の管理まで子供に任せたのである。
幸か不幸か瀬川きょうだいは皆しっかり者なのでよかったが、一歩間違えば火事だの泥棒だのの事件が起きたって文句はいえない環境だった。
うーん、と界が湧き上がる様々な感情を照査しながらワインに口をつけていると。
「……用件はなんだ」
父が口を開いた。
界は伏せていた目を上げる。グラス越しに父の姿が揺らいで見えたので、ワインをテーブルの上に戻す。
それからかすかに息を吸ってこう言った。
「──ヒルダをやめようと思っている」
単刀直入に言ってみせたものの、父から見えない場所で握った拳が震えていた。
これはとても重い問題だ。
いくら界が知らないところで行われたとはいえ、ヒルダは父と取引をした。彼に仕事を与え、代わりに界をヒルダに入れた。相当酷い話だが、他でもない父がそれを望んでいたというのだからまた救いがない。
こんな話を切り出してまた彼が何かしでかすかもしれないが、それも勿論考えた上で自分は決断したのだった。
「理由は?」
父は淡々と言った。その反応を先ず界は意外に思った。
……予想と違う。
「日本に、帰ります。そうしなければいけないから」
「私は同じことを何回も言うのは好きではない。知っているな?」
父はナイフを置いて界を見た。その瞳こそが何よりも鋭い刃のようだった。
界はぎくりと肩を揺らしながらも、すうっと息を吸い込んで整える。
そして答えた。
「迎えに行きたい人がいる。結婚したいんだ」
「ほう?」
そこで初めて、ガラスのように透き通るばかりで何の感情も浮かんでいなかった、父の瞳に揺らぐなにかが見えた。
あれ、興味持ってる、と界はさらに意外に思う。いろいろと予想外だ。
俺のことなんて、どうでもいいのではなかったのか。
「となると相手は、緋乃さんか」
界は驚きを通り越してぎょっとした。覚えていたとは。
この人が研究対象以外で興味を持つ人間は極めて少ない。家族ですらそういう目で見ているので、色々問題が起きているのだから。
「……はい」
「彼女は今、どうしているのだ? 近頃会わせてくれないが」
「いや俺とも全然会わないくせに」
界は思わず突っ込んでいた。もうなんか、恐怖が半ば飛んでいた。
実の息子である自分、しかもきょうだいの中で唯一同じ国の同じ市内に住んでいる界とすら三月に一度会うかどうかの父である。息子を差し置いて息子の彼女に会いたがっているだなんて誰が想像するものか。
(いや、っていうか別れてるけど。しかも三年経ってるけど。気づいてないのか?)
言語学者という世間から隔絶された仕事をしていると時間の流れにも鈍くなるのかもしれない。
「……彼女は日本で秘書をしている。外資系の製薬会社だ」
「秘書か。うん、合っているな。私のような変わり者でも相手にできる賢い女性だ」
(いや、えっと、えー)
界はだんだん言葉が出なくなってくる。父が、自分で自分を変わり者だと言った?
確かに変わり者だ。めちゃくちゃ変だ。傍若無人で死ぬほど頑固、勉強至上主義者だし、何より言葉大好き。自分が世界の言語を学ぶことでは飽き足らず、子供をバイリンガル以上にすることを基本教育とした。
しかし、彼は今までそんな己を鑑みることはなかった。
父は常に自分勝手で、孤高であり、自分の創造性の城に一人だけで住んでいた。
その外に住む人間のことなど興味はなく、城に入ってこようとする人間だけを厳しく選んでそばに寄せた。
それが彼であり、善悪は別として、瀬川正巳という人間の存在感を唯一無二のものとしていた。
それなのに、だ。
「親父、具合でも悪いのか?」
父と話すときはいつも無意識に設定しているルールのすべてを取り払って界はそう尋ねた。それほど今日の父はおかしかった。
「……親父と呼ぶなと何度言わせる」
ワインを傾けて界を睨んだ父は、一見いつも通りだが。
「父さん。嫌だって、変だ。反対しないのか」
「まだ何も言っていないだろう」
「反対するなら父さんは真っ先にそう言うだろ」
息子はそこで、父があまり食べていないことに気が付いた。
喋っているせいだと言われてはそれまでだが、自分たちはこうして会話を始めるまでに恐ろしく長い間無言でいた。大体、まだ時間は夕方で、二人とも重い食事を頼んでいるわけではない。
サラダやオードブルの盛り合わせにソーセージ、せいぜいその程度である。
界はそれなりに食べていたが、父はそういえばさっきからワインばかり飲んでいて、サラダを少しつまんでいるくらいだ。こってりしたものには全く手を付けていない。
「ほんとに体調が悪いんじゃ──」
「食欲がないだけだ」
しかし父は、息子の視線に気が付くと、素早くフォークを持ってソーセージを口元に運んだ。そのまま小気味よく齧って咀嚼する。
何か見せつけるようなその動きは周囲を拒絶しているようにも感じられる。
界は眉をひそめて言葉を飲み込んだ。
気のせい、だろうか。
いやしかし。
突然降ってわいた疑惑に戸惑っていると、父がいきなり言った。
「今度は、お前の好きなようにしなさい」




