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あほらしい。
専務の話を聞いた、これが界の率直な感想だ。
曰く、現社長のカールは肉親意外にヒルダを譲るつもりが無い。
そうすると選択肢は二つ。専務かヨハンナに家督を継がせる。
しかしながら、専務は結婚する気がなかった。それを理由に後継を辞退。
おのずと残された道はヨハンナ一択。
しかしながら彼女は誰が見てもまだ未熟だった。能力の話ではない、人格の話である。そのため彼女一人ではと渋っていた社長の元に、敏腕秘書グレーテルが持ってきたのが界の父親の話。
職を失って路頭に迷う界の父親に仕事を与える代り、息子の界をもらってはどうか、と。
その界は日本人、しかもキャリアもなんもない若造である。ヒルダにとって益になるほどの人材なら他にいくらでもいる筈だが、グレーテルがそれでもカイを推したのはヨハンナ本人がそれを所望したからに他ならない。
そして社長は血がつながらないせいかヨハンナに激甘い。
幸か不幸か界は優秀な若者なので、育てれば十分役員にもなれる器。かつ専務もヒルダで働き続ける気はあるので、後見人が二人も居ればヨハンナお嬢さまが形だけの跡継ぎとなっても問題はない、とその選択肢を選んだのだ。
(経営が安定してるからというかなんというか)
界ははー、と頭を抱えた。物語のように現実味がない話だ。それでいいのかと本気で思う。
しかもこの話、さらに続きがあり……。
「現在、ヒルダの中に水面下だが派閥が生まれつつある」
専務はさっきそう言っていた。
界は微妙に沈黙してから静かに言葉を返した。
「……それは俺も聞いたことがありますが。でも、正直入社する前からだった気がします」
すると専務は眉を跳ね上げた。
「知っているなら話は早い。派閥というのは、わかりやすくいえば旧体制と新体制だ。辞令を見ていてもわかると思うが、社長は自分にゆかりのある人を重視する傾向にある。そしてそれを人事部のヨハンナが推し進める。だから反発を産む」
「それはもちろんそうでしょう」
「対して、私はそれに異を唱えるのが常だ。才能を重視して人材を育てることこそが会社の真の利益であると考えているからだ。恩や血というものは人としてもちろん大切なものではあるが、会社の経営においては仇になることもある」
界は黙って頷いた。そこでふとヨハンナの顔が浮かんだ。
元々浮き沈みの激しいあの子が、最近とくに怒ったり泣いたりしているばかりだなということに思い当たったのだ。
もしかしたらそれは色恋沙汰だけが原因なのではなく、そういった背景もあったのかもしれない。
彼女ははっきり言ってコミュニケーションに難がある。それだけならいいが、専務の話を聞く限り、社長の言いなりに動いてしまうのだろう。それで人望が集まるわけもない。
時期跡継ぎになる不安や、界が思い通りにならないという焦りが、ヨハンナを余計乱れさせているのかもしれなかった。
しかし、おかしい。
専務は、その派閥が生まれつつあることをわかっていて界をヒルダに引き入れた。それはつまり、派閥争いを助長することにもなるまいか。
界がそう指摘すると、専務は顔色も変えずに答えた。
「いや。私は、むしろその逆を期待していたのだ」
「逆?」
さっぱりわからないといった様子の界に、専務は説明してくれた。
「お前やジョージという新しい、若い力を傍に置くことで、社長やヨハンナが変わってくれることな。インターンの間に私がお前たちを観察していなかったと思うか? 権力に媚を売るような子たちだったら私はお前とジョージを入れなかっただろうな」
そこまで説明して、専務はふと重いため息を吐き出した。
「お前がずっとうちにいてくれるなら、私の右腕になってもらえればと思っていたよ。たとえヨハンナの相手になってくれなくても、そうすればこのヒルダを守れるだろうと」
「──」
界は言葉を失っていた。そういう未来もありなのかもしれないと、素直に思った。
このままヒルダで働いて、チェロも続けて。やりたいことを思う存分やるという充実した人生を送る。
何が不満だ。ゼイタクなくらいじゃないか。音楽を続けたくても続けられない人や、仕事に就きたくても就けない類の人たちを界は何人も見てきた。
(でも)
界は眼を伏せた。──それでも俺は出会ってしまった。
彼女に再び巡り合ってしまったんだ。
だからもう、今まで通りではいられない。
だまって専務を見つめると、彼は少し寂しそうな、痛そうな表情で灰色の瞳を細めた。
「そんな顔をするな。私はちゃんとわかっている。お前の心は既にここに無い事を」
「……」
「というかそれは、最初から彼女の元に在ったのかもしれんな」
くすっと笑みをこぼしながら専務が言った一言に、界もまた微笑した。
「人生は一度きりだ。後悔しないように生きてほしい。私はヒルダに全てを捧げることになるだろうが、お前がそれに巻き込まれることはない。お前は頑固だが、意外と自己犠牲を何とも思わないところがある。このままではヒルダのために体すら壊しかねん」
専務は兄のような表情でそう微笑んで、界の頬にちょっと触れる。その手つきと声に、界は泣く直前のように少しだけ心が痛むのを感じた。
「明日から一週間の休みをやる。よく考えて決めるように」
***
とはいえ、簡単には決められない。自分だけの問題ではないからだ。
だが決めなければ前に進めないのも事実。
(とりあえず寝よう)
専務によって強制的に休みを取らされることとなった界は、急に手の中に落ちてきた時間によってさまざまなことを思い出した。
眠いとか腹減ったとか家が荒れてるとか払わなきゃいけない料金の類とか。
まずは、何をする気にもならなくて寝た。
久しぶりに思う存分寝て起きると、翌日の昼近かった。
しばし時計を見上げてうーんと唸っていた界だが、シャワーを浴びてしゃっきりすると近くのパン屋へ。ついでに最近全然してなかった日用品類の買い出しも済ませ、家に戻る。
コーヒーを淹れてパンを齧ると、ようやくほっと息を吐いた。
天窓から入る光にほこりが舞っている。そうじしねぇとな、と思いつつ、界はゆっくりコーヒーを飲んだ。
こんなふうに何も考えずにぼーっとするのはいつ以来だろう。
ここ最近はずっと仕事ばかりだった。家でくつろぐことも無くて、ただ寝るだけの空間と化していた。
だからこそ緋乃が居てくれた朝を、あんなにも幸せに感じたのかもしれない。
彼女に会いたい。
だが、思うだけにはもう飽きた。
チャンスはすでに与えられたのだ。そしてまだ終わっていない。
そこで嘆息した界である。
これから自分がしようとしていることは大変にリスキーだ。だが、やりたい。やらねばならぬ。
この世には自分の利益や立場などを度返ししてでも守るべきものが確かにあるのだ。
と、そこでテーブルに置きっぱなしだった携帯が震えた。
界ははっとして手を伸ばすとそれを取り上げる。珍しい相手からの着信で、一瞬嬉しさより恐怖が勝った。
「高槻か……」
呟いた名前は、ほかでもない緋乃の親友である。彼女はかなりの緋乃好きで、界が緋乃を泣かすたびにキツイ言葉を投げてきたものだ。
今回もたぶん、てか絶対、そうだよな。
界は数秒目線を宙に泳がせたが、久しぶりで話したい気持ちも少なからずあったので、結局は通話ボタンを押していた。
「──はい」
「あ、やっと出たー! 界くん、沙絵だよ」
電話越しの彼女の声は、予想から外れて好意的だった。涼しげなソプラノが耳に心地よい。
「元気?」
「お、おう。……久しぶりだな。どうしたの?」
若干腰を引きつつ界は尋ねた。この元祖お嬢様は頭にドがつくマイペース、一瞬後にはどういったご機嫌になるか読めないのだ。彼女とジョージの双子であるマリが一緒になるとけっこう色々激しくて、学生時代何度も被害を受けたことがある。主に緋乃関連のことで。
「やー、あのね、今度父の仕事の手伝いで、ドイツ行くことになったの!」
「へぇ。どこ?」
「フランクフルト。ミュンヘンって近い?」
「近くはないよ。ICE使っても三時間超える」
日本で言えば東京大阪ぐらいのイメージだ。ちなみにICEは高速鉄道、これまた新幹線のようなものである。
するとお嬢様はなんだー、と頬を膨らませた気配。
「世間知らずがばれちゃう」
「住んでなきゃそんなもんだろ。でもまあ来れない距離じゃないよね。来てくれたら案内するよ」
「え、ほんと? デートしてくれるの?」
「いや、デートじゃ……」
その言葉は色々と面倒を呼ぶことが、近頃、さすがの朴念仁の界でもわかって来ていた。
なので否定しようとしたのだが、沙絵は思いっきり無視して楽しそうに声を上げた。
「じゃあ行く! 明日!」
「……あした?」
聞き間違いかと界が耳を疑った時には、電話はもう切れていた。
「うっそ!」
思わずつぶやく界である。早。
明日、明日来るって言ったか、お嬢様?
しかし彼女はめちゃくちゃフットワークが軽い、かつ、それを邪魔する金銭的制限がない(=金持ち)。
やべえなこれ本気で来そう。
え、ってか、親父さんの付添って言ってたよな? そんな簡単に決めれるもんか?
界はそこまで考えてはっと気が付いた。なるほど。
「……嘘だな……」
父親がどうの、のくだりは恐らく作り話だ。
沙絵は自分の意志でミュンヘンまで来ようとしている。たぶんフランクフルトなど経由しないだろう、金持ちだし直行便で来るはずだ。
>>チケット取ったー。明日のお昼に出て同じ日の夕方につくことになるみたい
やっぱりなと界は思った。この時刻的に直行便だ。
なんという行動力。
そして彼女を突き動かしているものは、たぶん間違いなく緋乃であろう。
沙絵は界に対して何か言いたいことがあるのだ。
「ジョージも呼ぶかな……」
内心でかなりびびりながら、携帯片手に界はそうつぶやいた。




