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「カイ、どうしたんだ。顔色が悪いみたいだが」
カイはヨハンナの買い物に付き合った後、社長家族──ヒルデブラント家に連れて行かれた。
ヒルデブラント邸はドイツ国内外にいくつかあるが、ミュンヘンにある本邸は意外と地味だ。社長と奥方が若い頃に購入した家を改築しながら住んでいるので、クラシックで質素な、温かい感じの木造の家である。
「まぁ、お兄様のピアノ! ひさしぶりね!」
ドアを開けるとリビングで専務がピアノを弾いていて、ヨハンナがぱっと眼をきらめかせて駆け寄っていく。肩にすり寄らんばかりの近さの妹を見て、兄はめためたと相好を崩して笑った。
「お兄様、あれを弾いてちょうだい、わたくしの好きな」
「ハンヒェンはブラームスが好きだったね」
「そうなの! やっぱり良くわかって下さるわ」
きゃっきゃとじゃれあう兄と妹は年齢がかなり離れているせいか、本当に仲が良かった。
カイは彼らを見てわずかに口角を上げたが、すぐに疲れたように顔をこすった。
そこで、奥のソファに座っていた社長夫婦の一言だ。
界は苦笑して答えた。
「……ああ、いえ。CDができるまで少し立て込んでいたから」
「ちゃんと食べているの? やっぱり貴方みたいに忙しい人は恋人を作らないと」
「ありがとう、エイダ」
にこりと笑ってエイダ・ヒルデブラント夫人に応え、だが界のその笑みはすぐに消えた。ソファに腰を下ろすと、そのまま地の底まで沈んでいきそうな感覚に襲われる。界は両手で顔を覆い、はぁと息を吐き出しながら天井を見上げた。
高い天井でファンが回っている。
この家は静かで、いつも花の香りがして。奥方の奏でるフルートか、息子の奏でるピアノか、時々ヨハンナがヴァイオリンを弾いて、音の途切れることがない。料理もおいしくて、みんなが俺を受け入れてくれる。
──でも。
でも、どうしてだろう。とても居心地の良いこの家も、俺にとっての居場所ではないと感じるのは。
「本当に疲れているね。少し休みを取ったらどうだ」
社長の声にはっと界は我に還った。
「……そうですね。夏休みには」
「おい、シギィ。お前も少しカイを働かせすぎなんじゃないのか?」
父が声を上げると、ピアノを弾いていた息子は手を止めて立ち上がった。そのままヨハンナと腕を組んでやってくる。
「なんだ、カイ。疲れたのか?」
「いえ、べつに……」
「そうだわ! じゃぁ、今年の夏休みはみんなで旅行に行きましょうよ!」
ヨハンナが眼を煌めかせて提案する。彼女はそのまま界の隣に腰を下ろして、その腕に手をのせながら父と母の顔を見た。
「ね、お父様。お母様。家族全員で旅行するの。今までしたことないし、楽しそうじゃない?」
「家族全員……」
その顔に、カールとシギィの顔に微妙な動揺が広がるのを界は見た。
だがそれは一瞬のことで、彼らはすぐにヨハンナを喜ばせようと笑顔を見せる。
「そうだな。それは良いアイデアだ」
「ハンヒェンはどこに行きたい? どこがいい?」
「えー、そうねぇ、パリは行ったし、北欧も……アメリカは好きじゃないわ。どうせなら南の島で一か月とか暮らしてみたい」
「それはいいわね、ヨハンナ。お母さんも行ってみたいわ」
「ね! そうでしょ? じゃあそうしましょうよ」
母親の賛同も得て、本当に嬉しそうに笑うヨハンナ。そんな彼女の表情は会社では見られないものなので、界は素直に嬉しいと思う。可愛いとも思う。
だが、この家で温かく迎えられるたびに胸が苦しくなるのも本当だ。
(俺は、何をしてるんだろうな?)
満たされない。
仕事を増やしても、音楽を奏でていても、心が痛い。虚しさがぬぐえない。
仕事では八神やノイマンに嫉妬する。家に帰れば彼女の影を見てしまう。
気付けばあの人の笑顔を、口づけを、幸福に蕩けそうだった夜を思い出して──
「──俺、帰ります」
「えっ?」
界はふらりと立ち上がると、一家の顔も見ずにヒルデブラント邸を後にした。
***
緋乃にふたたび振られてから、界は考え続けていた。
自分はどうするべきなのか。
本当はどうしたいのか。
彼女の笑顔を取り戻すにはどうしたらよいのか、と。
(大人っぽくなったと思ったけど、あの子は変わらずに泣き虫で)
昔からそうだった。
普段は気丈で、どんな困難にも立ち向かう強さがあるのに、なぜか界の前ではいつもあっけなく涙を流して。
再会した彼女はとても素敵な、仕事のできる知的な女性に変貌していたけれど、やっぱり泣き虫なのは変わらなかった。
界の前で、腕の中で、胸の上で。緋乃は泣いた。
彼女が泣くところを見るのはかわいそうで好きじゃない。でも、俺の前で泣いてくれるところは好きだった。
頼られている気がした。
彼女の弱さを見られる唯一の立場に、自分があるような気がして。
(俺はよっぽど彼女に甘えてほしかったらしい)
今更ながらにそう、思う。
離れている間、会えないことはもちろん一番つらかった。でもだからこそ、電話越しに聞く声を、その声が語る話を界はとても大事にしていた。
最初の内は緋乃は界になんでも話してくれた。今日あったこと、いま考えていること、夢の話。
でも次第に、彼女は遠慮がちになった。
界の話を聞くばかりで自分からはあまり話さなくなった。
何かあったの? と尋ねても、だいじょうだよと誤魔化すように笑って。
そんな電話ですら最後には目に見えて減って行ったのだった。
(ひぃには、お前の問題だって言ったけど)
界はずきずきする胸に眼を閉じて頭を掻いた。やっぱり、違う。
悪いのは俺だ。
どんな正当な理由があったとしても、俺が彼女を寂しくさせて、結果的に遠ざけてしまった。傷つけてしまったんだ。
それが事実。
「──ネージャー……、マネージャー!」
「えっ」
大きな声で呼びかけられて界ははっとした。しまった、仕事中であった。
ぱっと顔を上げればそこには心配そうにこちらを見るメガネ女子。ベサニーである。
「日本の大和ファーマからお電話ですが」
「っ、ああ、悪い。繋いで……」
「いや。私が出る」
電話機に手を伸ばした界の手を、誰かが横からやんわり止めた。専務だ。
なんでここに、と緩慢と驚きに眼を瞬いた界をちらりと見て、彼は言った。
「隣のミーティングルームに行け」
「え……」
「いいから、行くんだ」
有無を言わせぬ強い口調に、界は小さく肩を揺らした。これは、知人としての彼の声ではない。上司としての声である。
界は小さくJa,と答えた。
「待たせたな」
「いえ」
ヒルダの会社は全面的にガラス張りだが、会議室は原則違う。その内の一つに界が入って待っていると、やがて専務がやってきた。
彼は界の向かいの席に腰を下ろすとさて、と言った。眉間にしわが寄っていたので難しそうな話だなと界は検討をつけて首を傾げた。
「何かありましたでしょうか」
すると専務の灰色の瞳がまっすぐに上げられた。彼は言った。
「何かあったのは、お前の方だろう」
「──」
「誰もが噂しているぞ。硬派で真面目だったカイ・セガワが、たった一人の女性に夢中だと」
界は微動だにもしなかった。ただ黙って専務の眼を見返していた。
その瞳は界を責めているようには見えない。ただ、素直に心配している色だけが見えたので、界は正直に答えることにした。
誰もが噂しているというくらいなら、いつかは知れることなのだ。
「……今に始まったことではありません」
くすりと自嘲にも似た笑みを漏らして界は答えた。専務が眼を細める。
「どういうことだ?」
「俺は日本の大学で彼女に出会いました。それからずっと夢中です」
「恋人、なのか」
専務が確かめるような口調になったのは、彼はヨハンナの兄だからだろう。
界は我ながら悲しい気持ちで首を振った。
「今は違います。でもかつては、そうでした」
「だが、お前の気持ちはかつてと少しも変わらないと?」
「むしろ強くなっていますよ。厄介なほど」
それでこんな話をするのでしょう、と界は専務に逆に訊きかえした。
すると専務はなんともいえない優しい笑みを浮かべて机に片肘をついた。そして言った。
「カイ。私はね、お前を責めるつもりじゃないんだ」
彼女のうわさを聞いたということは、彼女が取引先に属する女性だとも専務は知っているはずだ。にもかかわらずこんな風に言ってくれる、彼は本当に人格者であると界は思った。
「お前が我々をどう思っているかはわからない。でも、わたしたちはお前を家族だと思っている。しばらく会っていないが、お前のお姉さんや妹たちも同様にな」
界の脳裏にきょうだい達の面影が浮かんだ。フランスやイギリスなどに散らばっているせいで界ですら滅多には会えない大切な人達。
ああ、会いたいなと素直に思った。
そしてそんな自分が弱っているなと自覚した。
「君がここ数か月おかしいと色々な者から聞いてる。ベサニー、カーラ、サントス、キム、受付のシャンナ。もちろんジョージも。ヨハンナは毎日のように怒っているし、グレーテルは社長を通じて私を責める。こんなに多くのランチミーティングをこなしたのはヒルダが始まって以来だよ」
「それは……すみません」
何でみんな専務に話するんだよ、と思いつつ界は謝った。しかもランチミーティングとか。専務の分け隔てない人柄があってこその話である。
「本当に申し訳ない。でも、俺は、昔から彼女にだけは本当に弱いんです。自制が利かない。理屈ではなくて。他の誰かでは──駄目なんです」
界が苦しい胸の内を告白すると、専務はふと微笑んだ。界の顔にめがけて大きな手を伸ばし、かと思うといきなり額を指で突いた。
界がびっくりして思わず額を手で押さえると、彼はくっくとおかしそうに笑った。
「いや、三年前にな? お前がこっちに戻ってきた時から思ってたんだよ。良い顔をするようになったと」
界は中学までをこちらで過ごし、高校・大学は日本で暮らした。緋乃に出会ったのは大学時代のことである。
「私はまだ結婚したことがないが、お前を見ていて、人は出会いで変わるのだなとわかった。優秀なのは知っていたが、お前はさらに優しくなった。人の上に立つ器になった」
「……ありがとうございます」
専務の話を聞いてそういえばこの人は独身だったなと界は思い出した。意外である。こんなに優しくて、見た目だって紳士なのに。
「……専務はご結婚されるつもりは?」
何気なく尋ねていた。その質問が、話の核心に迫る一矢になるとも気づかずに。
専務は答えた。
「今までは、なかった。だからお前をヒルダに入れた」
「は?」
界は意味がわからなかった。聞き間違ったかと思ったくらいだ。
戸惑って専務をただ見つめ返すと、彼の顔から微笑が消えた。灰色の瞳は界の心の底まで除くかのようにじっと逸らされない。
それでもカイが黙っていると、彼はやがて息を吐いた。
「お前も、知っていてヒルダに入ったのだろう」
謎かけのような言い方だった。界は首を横に振った。
「わかりません。専務」
「お前の父と私たちヒルダが交わした約束。彼にミュンヘン大学での職を与える代りに、お前をヒルダにもらうという約束のことだ」
「……それが今の話と何の関係が?」
界は平静を装って答えたが、喉がわずかに震えた。そういう約束が交わされたらしいということは知ってはいたが、実際にヒルダ側からそう聞かされたのは初めてだったのだ。
もう過去だと思ってはいるが、この件に関しては悪夢のような思い出があるのだ。あまり話したくはない。
しかし専務は無情に言った。
「関係ならある。何故ならお前はヒルダの後継にするつもりで入れたからだ。ヨハンナの相手として」
今度こそ、界は返す言葉を失って沈黙した。




