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代休を使った平日のプチ旅行、行き先は軽井沢である。
平日だがオンシーズンの7月初旬、どこも結構混んでいた。
「あっ、ごめんなさい」
「いえ。大丈夫ですか?」
特に駅からのショッピングストリートは混んでいて、誰かとぶつかることはしょっちゅう。そんなことを繰り返している内に、緋乃と沙絵はマリがぶつかる女の子たちの視線を釘づけにしていることに気が付いた。
「え、格好良くない?」
通り過ぎる若い子たちもひそひそと黄色い声をあげている。視線を追えば、すらりと背の高いマリが、ぶつかった女の子の体を支えてあげているところ。
あ~、と緋乃と沙絵は顔を見合わせた。確かに、彼女は昔から男前だったけれど。
「……髪切ったからだね。男の子に見えちゃってる」
「ファッションも、なんか、外国帰りのせいか」
「うん。さらに男の子に見える」
男装の麗人かよ、と沙絵が突っ込む。しかもハーフのイケメンだ。
ジョージと同じ日の光を弾くダークブロンドに、学生時代よりも色の濃くなった緑の瞳、女性にしては長身な手足の長い体。
兄と比べればマリはそこまで端整な顔立ちをしているわけではないが、なんというか全体的なオーラがとても格好いい。
「あの、このあとお時間ありますか? 良かったらお茶でも……」
「え?」
ついに誘われてしまっているマリを見兼ねて沙絵が突進をかました。
「だめ! その子女の子だし! 私たちのお連れ様だからー!」
「え!」
「うそ!」
女の子たちはびっくりした様子でマリを見ると、そこで気が付いたらしく、慌てて謝ると去って行った。
「そっか~、アタシ男に見えてたか~」
その後、レンタサイクルで緑の森を疾走しながらマリはあははと明るく笑った。
都心より低い気温に加えて今日は風がそこそこある。気心の知れた友人と三人でのんびり過ごすのはとても気持ちが良いものだった。
「見えてた見えてた。しかも結構イケメンだった」
「イケメン好きの沙絵に言われるなんて光栄だね! 喜んでおこう!」
「いやいやマリちゃん、あなたそろそろ彼氏つくんなよ」
「つくるもんじゃないでしょうよ」
「いないの? 気になる外国人男とか」
「ん~、向こうの奴らすぐベッドに連れてくからな~」
緋乃は沙絵とマリのやや後方で自転車をこぎ、ふたりの軽妙なやりとりに耳を澄ませていたのだが、そこで二人が振り返った。
「ってか緋乃いる?」
「え。うん、いるよ?」
キッ、と音を立てて止まる友人たち。慌てて緋乃もブレーキをかけた。
マリが緑の眼で心配そうに見つめてくる。
「なんか静かじゃない? 具合悪いの?」
「ううん? 元気だよ。ただ、二人のやりとりが懐かしくって、気持ちよくって、聞いてた」
「でもなんかすごい汗かいてるけど」
沙絵に指摘されて緋乃ははじめて自分の額に汗が浮いていることに気が付く。そういえば……
「なんか今年、暑くない? 前より体が丈夫になったせいか、汗かきやすくなっちゃったんだよね」
「貧血直したから、体温上がったんだろうね」
沙絵は看護師っぽく答えると木立のあいまの空を仰いだ。
「でも、今年より去年の方が暑かった気がする。って、毎年こんなようなこと言ってんのよねー」
「いやぁ、日本の夏はいつも暑いわよ。あたしこの間スペインにいたんだけどさ、向こうは40度あっても涼しい感じがするもん。湿度低いから」
「えー! そうなんだ!」
三人はそんなやりとりを交わしながら軽井沢を満喫し、早めに今夜の宿に入った。
***
最近は女子会プランなんていう宿泊プランがあるのだ。ウェルカムドリンクにフルーツの盛り合わせつき、かつヘアアイロンやボディクリームなどのアメニティ付。
お嬢様の沙絵は部屋の中をあちこちチェックしてはきゃっきゃと喜んでいた。
「わーい、ドリンクも美味しいしシャンプーもオーガニック! 最高!」
「あ、オーガニックで思い出した」
彼女の一言で、ベッドに腰掛けていた緋乃は自分の鞄をごそごそと探った。
そして取り出したのは小さな包みを二つ。ドイツで買った御土産だった。
「遅くなったけど、お土産。ジョージと選んだんだよ」
そう言って沙絵と、マリにもオーガニックコスメを渡す。ふたりとも喜んでくれた。
「聞いた聞いた、ジョージとデートしたんだってね」
「うん、そう。お兄さんは女心わかってくれるから一緒に居てたのしかった」
「じゃあ、界くんは?」
ずばっと沙絵が聞いた。その瞬間、空気が変わった。
緋乃はだまって友人二人を見る。二人とも、こちらを真剣な目で見つめていた。
ついにきたか、と思った。この時が。
「……楽しかったよ」
平静を装って声を出したが、喉は震えていた。
だが言ってから自分の言葉に違和感を覚えて、緋乃は言い直す。
「ちがう──幸せだった。すごく」
「やっぱり一緒に過ごしたんだ」
緋乃の言葉を聞いてマリが小さく吐息を漏らす。緋乃は苦笑して彼女を見た。
「それこそ、あなたのお兄様がはめたのよ。でも、今となっては感謝してる」
「デートしたの?」
「うん」
喋っている内に沙絵がベッドによじのぼって来て聞く体制を取った。マリはテーブルでシャンパングラスを傾けてこちらを見ている。
緋乃は自分にもシャンパンをくれとマリに頼み、手の中にグラスが収まるとそれを景気づけのために少し飲んだ。
そして、ドイツでの界との再会と、ジョージが作ってくれたデートの機会、それから彼との夜の話を静かに語った。
最後のあたりになると窓の外で日が傾きはじめていた。
「緋乃がそこまでするなんて」
やがて沙絵が、ぽつりと呟くように言った。
「いくら元彼だからって、仕事の取引先の人と夜を過ごすなんてね。……正直そういうことができる子だとは思わなかった」
それが良いとか悪いとかっていう意味じゃないのよ、と彼女は付け加えた。
緋乃はそんな友にかすかに笑顔を見せて答える。
「わかってるよ。大丈夫。だって私が一番驚いたから」
「お互い酔ってたから、なの? その、勢いで寝ちゃったわけじゃなくて?」
マリの問いかけに緋乃は首を静かに横に振った。そうではない。
あの夜、界は確かに酔っていた。しかも熱も出していた。
だが言っていることはマトモだったし、ちゃんと緋乃の意志を確認するという紳士的な部分を失ってはいなかった。
そもそも彼は普段から裏表がないので、緋乃はあれが酒の上での行為だからといって別にどうとも思っていなかった。
「そうじゃない。私自身が望んだことなの」
緋乃は言ってうっすらと頬を染めた。
「そういうことがしたくて彼の家に行ったわけじゃないけど、傍にいるうちに離れがたくなって。疲れて弱ってる彼を見てたら、ますますなんていうか……愛おしくなって」
傍にいて、行かないでと彼は言った。まるで子供のように勝手でワガママな、そんな部分が彼にあるのだと緋乃は忘れていた気がする。
「……離れていて、今までは見えていたことが見えなくなって。完璧じゃない界を好きになったはずなのに、私はいつのまにか彼に欠けているものはないって思い込むようになっていた。そのことが恥ずかしいような、悔しいような──そういう、たまらない気持になって」
だから自分で選んだの。最後に彼と過ごすことを。
緋乃はそう言って、残ったシャンパンをぐっと一気に飲み干した。くらりと眼が回る。そのまま沙絵の肩にぽすんと頭をもたれると、彼女はよしよしと軽く髪を撫でてくれた。
「頑張ったわね。それでまた別れるのはつらかったでしょうに」
「……私、また彼のこと振っちゃった」
沙絵の優しい声に誘い出されるようにして、緋乃はそう呟いた。
途端に沙絵とマリはえ!? と目配せを交わしあったが、緋乃は気が付かずにさらにぽつりぽつりと言葉を続けた。
「彼は、もう一度始めようって、言ってくれたけど……できないって言っちゃった。だってもう怖い。離れて頑張るの、きっとがんばれないって、そう思って」
「緋乃」
友人たちの声が重なる。ぎしりとベッドがきしむ音がして、気付けばマリも傍に来ていた。あたたかな体温に囲まれて、緋乃はドイツより戻ってきてから今まで、誰にも言えなかった心の内を吐露していた。
「自分勝手だよね? 彼の気持ちとか、考えてなくて。でも、私のために何も犠牲にしてほしくないの。音楽も、仕事も……彼らしくいてほしくて。それは私自身も一緒で。仕事をやめるなんて考えられない」
「それはあたりまえのことじゃんか」
マリがきっぱりと言って緋乃の肩をしっかりつかんだ。
「あんたはいつも自分を責めるけど、違うのよ。勝手なんかじゃない。女が仕事して何が悪いの? いくら好きな男のために、女ばっかりが何かを捨てる必要はないのよ」
「そうよ。本当にそのとおりだわ」
続けて沙絵が発言した。厳しく冷めた声をしていた。
「勝手なのは界くんの方よ。いつも出来ないことがなくて、なんでも手に入れてしまうから。そうじゃない人の気持ちがわからないのよ」
友人の声色に少し驚いて、緋乃は顔を上げた。そして言った。
「……でも、私はそういう彼を好きになったのよ。彼の夢を応援してる」
「だけどそれで寂しくなってるのも事実じゃない。矛盾してるわ」
「うん。だから、別れようと言ったのよ。このままでは私は彼を素直に応援できなくなるから」
そう、結局自分が弱かったのだ。
あの夜、彼の胸で思わず漏らしてしまったように、緋乃はいつか界が自分を必要としなくなるのではという恐怖におびえた。
現実に彼を目の前にすればそんな考えは湧いてこなかっただろう、でも、離れていると考えは悪い方向ばかりへ進む。
そして緋乃は不安に負けたのだ。
「だからもう、いいの。もう二度と会わない。仕事でもきっと支社長が会わせないし、プライベートでは勿論、絶対に会うことはないわ」
それでいいのと緋乃は繰り返した。自分に言い聞かせるために。
「今は辛いけど、良い思い出にするしかない。仕事を頑張って過ごして、彼のことが過去になるまでゆっくり待つわ」
明るい声を装ってはいたが、その様子があまりにも悲しそうなので、友人たち二人はそれ以上何も言えなくなってしまった。