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翌日の夜、緋乃は八神とノイマンと共に日本への帰路についた。
座席についてシートベルトを着用したあと、どっと疲れが押し寄せてくる。
なんという一週間だったことだろう。
ドイツに来る前と今とでは、まるで自分が違う人間になってしまったように感じている。
機内のアナウンスを聞いて、そうだスマホを機内モードにしなければと思いだし、緋乃は鞄から携帯を取り出した。何件ものラインが届いていて、一つは母、一つは沙絵、一つはジョージからのものだった。界からのものはない。
当然よね……と思いながら緋乃はジョージのラインを開いた。
>見送りに行けなくてごめんね。僕も界も音楽の方の仕事で
>でも、久しぶりに会えて嬉しかったよ。また仕事ではよろしく。
そこで可愛らしいウサギのスタンプ、次には彼らしい直球なお節介。
>でもさ、ほんとうにこれでよかったの? 界はあんまり話してくれなかったけど
良いと思うしかないじゃない、と緋乃は反発にも似た気持ちで思った。
現実問題、彼と関係を続けていくのはむずかしいのだ。気持ちがあっても、お互いに立場というものがある。
学生の時のようにただ好きなだけではだめなのだ。
>きみたちって本当に、ライラとジルみたい
「ライラとジル、か……」
スマホを機内モードに切り替えて、手に握ったまま座席に頭を預けると、緋乃はぐったりと眼を閉じた。──確かにそうかも。
ジルのためを想って自己を犠牲にしたライラ。
だがジルにとってもはやライラより大切なものはなく、彼は国を捨てた謀反者となってもライラを探す。
そして瀕死の重傷を負いながらついに彼女を見つけ出し、ライラは声を、ジルは翼を失って、そこでようやく二人は一緒になれたのだ。
(私たちにはそこまでできるのかしら)
ゆっくりと機体が動き出すのを感じながら、緋乃は昨日のことを思い出した。
***
「……できないよ」
緋乃はふるえる声でそう、答えた。
「できない。だってもう、つらい」
「……つらい」
緋乃の言葉を界は繰り返し、沈黙する。とても痛そうな顔をしていた。
「っ、ちがうの、誤解しないで。さっき言ったでしょ、今、この瞬間はわたしすごくしあわせなのよ。あなたと一緒で」
緋乃は心を正しく伝えようと必死に言葉を探した。彼が好きだ。だから、それが不可避であったとしても、傷つけたくないと願ってしまう。
「再会したことも。土曜日のデートも。昨日の夜も。幸せすぎて溶けちゃうんじゃないかって思った。そばに居られたら、世界一幸せなのよ」
「……でも」
「でも──だからこそ、離れているのがつらい」
そこでついに涙がこぼれる。
緋乃は泣き笑いのような表情になって界を見た。
「距離は埋められない。声しか聴けない。その声すら、時差があって、お互いに仕事があって、聴けない時ばかりよ。私はそこであなたの近くにいる人たちをうらやましく思う。ヨハンナを」
「ヨハンナはそういうんじゃない」
「わかってる。……でも、悔しいの。あなたの傍で時を刻めるのが、私じゃないっていうことが」
「それは俺も一緒だよ」
界は緋乃をまっすぐに見て言った。
「君が今何をしてるか、誰と居るのかっていつも考えてた。辛い時に泣いてないか、苦しんでないか。もしそうだとしたら、どうして俺に言ってくれないのか」
気付いてたんだ、と緋乃は苦しくなった。この人は、私が心の扉を閉ざしたことを、ちゃんと気が付いていた。
「……ごめん。でも、離れていると悪い想像ばっかりしちゃうの。だから、傍にいたら気軽に言えることが言えないの。今話しかけたら起こしちゃうかな。仕事中かな。メイワクかなって」
「ひぃはいつも、そうやって遠慮するから」
界の左手が握りしめられ、軽くテーブルを叩いた。緋乃は思わず彼の顔を見る。
そこではっとした。彼は少し俯いて、右手で額を押さえていた。
「……っ、それはひぃの問題だ。俺はいつでも君の声を待ってた。君が俺を頼ってくれるのを待ってたんだよ」
「……その通りだわ。ごめんなさい」
「ちがう、君が悪いんじゃなくて」
界はもどかしげに、苛立たしげにそう言って、額を押さえていた手で髪をかき乱した。
「俺、今、自分が歯がゆくて仕方ない。もっと君を抱きしめてあげてたらよかったんだ」
「仕方ないよ。あなたには夢がある。仕事も……」
「だから、言っただろ! お前以上に大事なものはないって。そのことに気が付くのが遅すぎたんだ、俺が」
界は唸るように言って、それからは、と短く息を吸った。
「ただ俺が、馬鹿だったんだ」
沈黙が落ちる。
緋乃はゆっくりと首を横に振った。
「……でも、私は、あなたが言ってくれた言葉で救われたわ」
「……?」
界は乱れた髪の合間から緋乃を見る。とても悲しげな、青い光を宿した眼。
そんな顔をさせたくない。
だから緋乃は微笑んだ。
「私たちの、どちらかだけが悪いわけじゃない。だってこれは二人の問題だから。……あなたの言った通り、私たちは一緒に居る間はお互いのもの。だから、私たちの問題はふたりのものよ」
例えもう道は交わらないとしても、だ。
一緒に居た時間は永遠に私たちの間で愛しまれるだろう。
「だからもう、後悔はしないで。自分を責めないで」
「……緋乃」
「私はすごく幸せだった。もうそれでいいと思ってるの」
「緋乃! ちがう、俺はそれじゃいやだ!」
話を終わらせようと椅子を引いた緋乃を見て、界はがたんと立ち上がった。そのまま彼の腕に引き寄せられる。
昨夜のように強く、つよく緋乃を抱いて、界は絞り出すように声を出した。
「君を──離したくない。もう二度と」
「だって……だったら、どうするの?」
緋乃は逃げようともせず、ただ彼の胸で泣いた。この体温の傍に、ずっと居られたら。それだけのことがどうしてこんなにも難しいのか。
「私たち、もう子供じゃないのよ。仕事がある。一人の人間として生きて行かなきゃいけないじゃない」
「それは話し合えばいいだろう。君がイエスとさえ言ってくれれば俺は、この国も、仕事だって、」
「──だめよ。あなたはきっと捨てられない」
彼の言葉の先を読むようにして緋乃は断言した。後から後から涙があふれる。
「働くあなたを見て思った。あなたは、仕事が大好きで、音楽が大好きで。そのどちらにも、ものすごく才能があって。そしてこの国が合ってる。日本にいる時よりずっとずっと楽しそうだもの」
「それは……」
緋乃の言葉を否定できないらしく、界はぐっと言葉に詰まった。正直な人だ。
「……私たちは、日本で出会った。だから同じ場所で生きて行けるように思ってしまうけど、違うのよね。あなたはこちらにいる方が生きやすいのよ。それは誰よりも私がよくわかってる」
それくらいの自負は許してねと笑って見せてから、緋乃は彼の胸に頬をそっとすり寄せた。
「私はそれを手放してなんて言えない。あなたに、自分らしく生きていてほしい」
「違う──だから、俺が自分らしく生きるためには」
お前が必要なんだよ、と界は言った。
その言葉は嬉しい。でも、これ以上は堂々巡りだ。
「界。もう、やめよう」
静かに、でもはっきりと緋乃はそう界に伝えた。
背中に回されている界の手に力が籠ったのがわかった。
「……緋乃」
「やめよ。ね。もう一度会えて話せた。それでいいって思わなきゃ」
「っ、俺は!」
「お願いだから!」
お願いだから、と緋乃は悲鳴のように叫んだ。界がはっとしたように言葉を呑みこむ。その胸に顔を埋め、嗚咽を漏らしそうになるのを必死に堪えた。
「おねがい、だから……っ。これ以上、かなしく、させないで……!」
「……っ」
界の手が頭に触れ、それから髪にキスをされる。かすかに感じた苦しそうな息遣いに、彼もまた泣いていると緋乃は察した。
二人はどちらともなく体を離してキスを交わすと、最後にもう一度だけ抱き合った。




