5
別れた恋人と再会し、気持ちに火がついて夜を過ごしてしまう。
物語ではよくあることだが、まさか、自分にここまでする度胸があるとは思っていなかった。
──昔の私なら出来なかったな
明け方、界の腕の中で眼をさまし、よく眠っている彼の顔を見つめながら緋乃はそう判断を下した。
多分かつての私なら、もう付き合ってないのにとか、その行動が間違ってるかどうかとか考えてしまって動けなかっただろう。
でも昨日は、彼の傍を本当に離れたくなくて、素直に抱いてほしくて。その気持ちだけで動いた。
再びの別れが目の前に迫っていることも、仕事上での立場も、そしてこれからどうなるかとかそういうことは考えず、ただ目の前の彼だけを見て。
だから後悔は全くない。むしろとても幸せだった。
「熱、下がったみたい」
界の額にそっと触れ、思わずそう呟いた。よかった。
昨夜は辛そうに見えたから、今すやすやと眠る彼の顔を見るとほっとする。
(具合悪いのにしちゃったから、どうなるかと思ったけど……)
緋乃は赤面しつつ反省する。
界だけじゃない。私も、熱に浮かされたように彼を求めてしまった。
三年ぶりの口づけも、彼の手の感触も、私の肌を痺れさせて思考を奪った。
お互いに服を脱ぐ余裕すらなく、狭いソファの上でただひたすらに抱き合って、懐かしい体温に溺れた。
記憶の中でも、彼との抱擁はいつも思いやりにあふれた幸せなものだったが、昨夜のそれは多くの意味で特別だった。
きっと、この先も一生忘れられない宝の夜だ。
(界も、わたしを宝物だと言ってくれた)
例えアルコールの勢いでも、熱のせいでも関係がない。
私を夢だと言ってくれた。
音楽も仕事も、私がいなければ意味がないと。
(……こんなうれしいこと、ない)
彼の頬に指先を滑らせ、それからそっと唇を寄せた。大好きだと、今はもう口にすることはできないけれど。
でも私はこれからも彼のことを愛するだろう。私の知らない私を見つけて、慈しんでくれるこの人を、たぶんずっと。
その記憶だけで生きていける気がしている。
例えそばにいることは、できなくても──。
「シャワー、借りるね」
緋乃はそっと界の腕から抜け出すと、浴室を探しに行った。
***
シャワーを浴びても彼はまだ眠っていて、緋乃はすぐに帰ろうか迷った。
仕事は、幸か不幸か午後からである。
でも八神にいつ呼び出されるかわからないから、早めにホテルに戻らないと面倒なことになる。あんな風に注意されたその当日に彼と朝を迎えたなどと、もしバレたら首かもしれない。
現在の時刻は、六時前だ。
界の部屋の時計を見上げて緋乃は考えて、もう少しだけ、と決めた。
あと少しだけ、彼の傍にいさせてほしい。
洗面所にたまっていた洗濯物を洗って、乾燥にかけた。それに、皺の取れていないシャツにアイロンをかけて、ハンガーにつるした。勝手に部屋をいじるのは気が引けなくもなかったが、もう2度と来ないのだ。これくらいなら許されるだろう。
掃除機はさすがに界を起こしてしまうので控えたが、ゴミを袋に詰めて、目につく汚れは拭き掃除する。
界のフラットは結構広くて、物は少なかったけれど、仕事関係の本や楽譜、CD類は散乱して足の踏み場がないくらいにはなっていたからだ。それに隅っこは結構埃がたまっていた。男性の部屋という感じである。
そのあとはキッチンを借りて料理。
ショートパスタにじゃがいも、たまねぎ、人参。ベーコンにコンソメ。
そこいらに転がっていた材料を使ってスープを作りながら、緋乃はふとしあわせだな、と思う。
彼と話をして、同じ空間で過ごして。朝を迎える。
当たり前のように傍に居られることが、本当に嬉しくてたまらなかった。
(これが、彼と離れているあいだに私が夢見ていた景色)
緋乃は胸に去来する感情に眼を細めた。しあわせなのに、ちくりと何かが心を刺す。傍に居られる間はいい。
でも、その一瞬の幸せより、待ち続ける苦しさの方が大きいと思ってしまうわたしは、やっぱり未熟なんだろうか。
(それでもいいって私が言えたら……)
鍋の中身をかき混ぜる手が止まったことにも気が付かずに緋乃は考える。
また恋人に戻ろう、遠距離でも頑張るからって。もしも私がそう、言えたら。
──そうしたら私たちはしあわせになれる?
「……ひぃ?」
しばらく考えて込んでしまって、気が付いたら鍋がぐつぐつ沸騰していた。慌てて火を弱めるのと同時に、リビングの方から聞こえてきた低い声。
どうやらお目覚めのようだ。
緋乃ははい、と返事をすると、手を洗って界の元へと顔を出した。
彼は身を起こして覚醒していたが、まだ目元がとろんとしていた。毛布が脱げた上半身は裸なので緋乃は目のやり場に困った。
しかし、昨晩のあれやこれやを思い出せばここで恥ずかしがっているのも変な話だ。平静を装ってソファの空いた部分に腰かけ、彼の顔を覗きこむ。
「おはよう。体調どう?」
「……まだすこし、だるいけど。昨日の夜よりは楽な感じがする」
「大分酔っぱらっちゃったからね」
「ごめん」
「いいのよ」
謝られたので笑って返し、緋乃は「食欲ある?」と彼にたずねた。
「簡単にご飯作ったの。汗もかいただろうし、シャワー浴びてさっぱりしたら? そのあと一緒にご飯食べよう」
「ん」
どこか夢の中にいるような目線で界は緋乃を見つめていたが、やがて頷き、それから小さく緋乃を呼んだ。
「……ひぃ?」
「なぁに?」
「──おはよ」
照れ臭そうな挨拶に緋乃はもう一度眼を細めて微笑むと、おはよう、と返したのだった。
シャワーを浴びるとさっぱりしたのか少し元気になり、界は着替えて食卓にやってきた。
ショートパスタの入った野菜スープに、良く焼けたトースト、それにオムレツ。
コーヒーは胃に悪いから控えて、紅茶を淹れた。
頂きます、と手を合わせてからスープに口をつけた界は、驚いたように眼を丸くした。
「……なにこれ。美味い」
「ごめん、勝手にキッチンにあるもので作っちゃった」
「ホントに? 食べ物がこの家に存在する事すら知らなかった」
心底不思議そうな顔をする彼がおかしくて、緋乃は笑ったが、それからふと気が付いて彼に尋ねた。
「ということは、いつも外食ばっかりなの?」
「うん、最近は特にね。忙しすぎて、食事取らないことも多かったし」
「だめよ、ばてちゃうよ! あなたは音楽家にビジネスマン、一人で二人分の人生生きてるようなものなんだからね」
めっ、と強めの口調で伝えると、界は困ったように眉を下げた。
「そうは言ってもなぁ……」
「誰かに作ってもらえばいいのに。グレーテルとか」
「それ、本気で言ってる?」
界の眼が一瞬で半分になったので、緋乃は内心で慌てた。
「えっと。うーん、半分本気」
「やだよ。俺、基本的にさ、あんまり誰も彼も部屋に入れたりしたくないんだ」
その言葉に緋乃はヨハンナの顔を思い浮かべながら安堵しつつ、話を微妙にずらしていった。
「でもジョージはOKなのよね? この間、ここから電話もらったわ。今、界の部屋にいるって」
「アイツは友達だから」
界はそこで「ん?」と思い出したようにスプーンを口から下した。
「あれ、そういえば昨日、あいつを見たような」
「いたよ」
緋乃は即答して、自分もまたスープを飲んだ。そう、ジョージは昨夜確かにここに居た。
「私が来てくれるよう頼んだの。でも、あなたをここまで送ってくれて、すぐに帰っちゃった」
「なんで?」
「……わかるでしょ。昔っからお節介な彼だもの」
界の質問に皆まで答えず、緋乃はこほんと咳払いした。メイク道具が足りないせいですっぴんのままの肌が赤くなっていないといいなと思いつつ。
すると界は、難しく眉を潜めてしばし考えているようだったが、やがてふっと表情をゆるめて微笑んだ。
「──じゃあ俺は、またアイツに借りができたわけだ」
その一言に、ふと部屋の空気が色を違えたのが緋乃にはわかった。
天窓から入り混む明るい陽射しも、静かな空気も、先ほどまでと全く変わらないけれど、変わったのは彼の眼差しに点る熱だった。
界にふと見つめられ、緋乃は息を止めた。
「緋乃」
「は、い」
真剣で、そして同時に酷く甘い目で見つめられ、思わず返事をしてしまう。
どきんと心臓が急に高く鼓動を主張しはじめたのを感じた。
界の低い声が耳元を撫でてゆく。
「……俺が今考えてることを言ってもいい?」
穏やかな、しかしはっきりとした意志の込められた声で尋ねられ、緋乃は少し躊躇した。──それは多分、これからの私たちのこと。
話してほしくない、聞きたくないと思うのは、たぶんすでに私が感づいているからだ。
この件に関して、私と界の意見が違っているだろうという事を。
(でも、逃げたって、だめね)
緋乃はスプーンを置いた。
どうせもう会えないのなら、言葉を尽くしてから別れよう。
お互いのことが良い思い出となるように。
「……うん」
やがて頷けばテーブルを挟んだ向かいで界が眼を細めた。その表情がとても優しくて、緋乃はやっぱりこの人を好きだと思ってしまう。
「あのね。──俺はいま、すごく幸せだ」
本当に好きだ。
そうやって、自分の気持ちをはっきり言えるところ。
そしてそれを伝えてくれて、わかり合おうとしてくれるところ。
「もしかしたら君にもわかってもらえないかもしれないくらい、幸せなんだよ。だからこそ君とまた会えなくなるとは考えたくない」
「……わたしもよ」
界の瞳を見てその言葉を聞いていればいるほどに胸に想いがあふれてくる。緋乃はまた目元に熱いものがこみあげてくるのを感じて苦しくなった。
こんなにしあわせなのに。
(でも、どうしようもなく悲しい)
「だったら……お互いの気持ちが同じなら」
緋乃の気持ちとは正反対に、彼の気持ちは未来へと向けられている。いつもそうだ。彼はとても強い人で。どんなことがあっても道を切り拓いていく力がある。だから迷わずに進む。
そういうところも好きだった。でも、離れている間は怖かった。
置いていかれるかもしれないという私の恐怖を、彼はたぶん理解できない。
「俺たちはまた、始められないのかな」
界の言葉に緋乃は押し黙る。
もちろんそうしたい。あなたの傍にいて、その笑顔を守りたい。
でもそれ以上に、もう離れていたくない。
「……できないよ」




