2
株式会社大和ファーマの東京支社長を務める八神晶は42歳。独身である。
薬学、理系出身が多い製薬会社において文系出身、MRとして頭角を現してのし上がってきた傑物である。
そんな彼は社内でやはり文系のくせに、とか、勉強もしてないヤツに薬の何がわかる、とか色々言われがちである。しかし文系なのは自分がいちばんわかっていること、確かに資格は持っていないが、勉強なら今からでもできる。
そういうわけで八神は入社以来睡眠時間を削って勉強を日課としている。
ついでに休日でも仕事はする。
基本的に公私混同というか、オンオフの区別がないような生活をしているので、仕事が苦にならないのだ。
だがそんな八神に付く秘書は大変だ。
事務仕事が苦手な彼のおかげで朝晩構わず仕事を投げられ、早出・残業は当たり前。デートも出来ない。さらに八神が見た目だけは結構イケメンなので、彼の残念さを知らない女性たちから要らぬ嫉妬を受けてしまう。
そういった諸々の事情により、歴代の八神の秘書は数か月で担当を辞していった。そしてついたあだ名が「秘書殺しの八神」。
「はぁ……」
八神は凹んだ。
基本的にフェミニストな彼は、女性を大事にできない自分に落ち込んだのだ。
「役員、私はもう秘書は要りません」
「何言ってんだ。お前。一人だと経費精算もまともにできないくせに」
「できるようにいたします! きちんとPCスキルを磨いて自分で仕事を完結できるようにしますから」
「ダメだ。お前のポストは事務だとサポートが追いつかない。秘書を使え」
「……」
会社のお偉方から怒られてしまっては、八神も言う事を聞くしかない。
しかしどうせうまくいかないのだし、と渋っていた所、秘書課の課長がある新人をおすすめしてくれた。
「どマジメだし根性もあるからいいと思うの。なんか品があるところがあんたに似てるし。難点があるとしたらちょっと美人なところくらい」
ちなみに秘書課長はオネエだ。女の園のイメージがある秘書課にて邁進してきた珍しい男性……である。一応。
八神は彼にすすめられた秘書のデータを気乗りしないまま眺めてびっくりした。思わず二度見した。
「なに。女優?」
今年入ったばかりだというその新人は、えらい美人だったのだ。
いや、美人なだけの女はいくらでもいるが、音大出身という経歴もあってか年の割に落ち着いてエレガントな雰囲気が眼を引いた。
それになんだかどこかで見たことがあるような……。
「女優じゃないけど、歌手だった子なの」
「歌手! すげーな!」
思わず敬語を忘れて八神は叫んだ。そうだ、少し前にネットで話題になっていたシンガーだ。
アニメの劇中歌を担当して人気が出て、その後しばらく活動していた。
「そんな子がなんでここに?」
「歌はやめましたってきっぱり言ってたわよ。これからは社会人として成長したいとも」
「あきらめたわけじゃなくて?」
「だとしても、今ちゃんと働いてくれてるから問題ないわ」
「急にまた音楽をやりたいって言われたらどーすんだよ」
管理職としては視線はやはり厳しくなる。
八神は彼女のデータを眺めながらうーんと唸った。
「それに確かに美人すぎるなー。またそれで周りに勘違いされても迷惑だし」
「もー、傲慢な言い方ねぇ。大丈夫よ、その子自身に浮ついたとこは全然ないから。それにあんまり笑わないから、ヘンな虫はこないと思う」
「それも不安」
「文句ばっかり言ってんじゃないのよ! アンタ、今まできらきらの女の子たちつけても皆沈めて来たくせに」
「うっ」
「とにかく一度やってみて! 駄目なら他の子探すから!」
あまり人を褒めない秘書課長の猛プッシュを受け、八神は今回を最後に……と頷いたのだった。
それで出逢ったのが緋乃だ。
結果として、二人は素晴らしくうまく行った。
緋乃は華やかな雰囲気を持つが控えめで、あくまでサポートに徹してくれる。八神の言いたいことを短い言葉や雰囲気から汲んでくれて、先を読んで動いてくれる。
だからコミュニケーションにストレスがないのだ。そういう人材はなかなかいない。
確かにあまり笑わないが、言葉遣いや仕草はとても丁寧なので、業務において支障はなかった。
以上の点から、八神は緋乃を気に入った。
相変わらず仕事に熱中すると秘書を酷使してしまうやり方は変わらなかったが、緋乃は基本的に文句を言わずについてきてくれた。だがやりすぎるとはっきり意見を呈してくれるので、八神も自分の悪いところを治すことができるようになっていった。
「八神~。聞いたわよ、また恩納ちゃんキープしたんだって~?」
気付けば彼女と組んでから二年が経過した。社内での配置換えの時期が来た時も、上に頼み込んで阻止してもらったほどに緋乃を気に入っていた。
「わかってると思うけど、俺は彼女を部下として気に入っているだけで……」
先日、ドイツ出張の直前にぐうぜん秘書課長と行き逢い、緋乃の話となった。
秘書課長は意味ありげな視線を注いできたが八神は否定した。
「でも恩納ちゃんに寄りつく虫は排除してるんでしょ?」
「彼女が困ってたからだよ!」
緋乃は男性嫌いであり、社内での男性との接触も必要最低限に抑えている。
それでも秘書課というだけで要らぬフィルターがかかるらしく、無駄に絡んでくる男性社員が何名かいて困ると八神に報告してきたのだ。
「あの子は男嫌いなんだ。それだけでも俺の秘書をしてくれて感謝してるのにさ、その上必要ない苦労はさせたくないだろ。相談されたから早めに対処しただけだけど。何か悪いか!」
「悪くはないけど……へー、そうなの、男嫌い。知らなかった」
「お前は男の範囲から漏れるからな」
「失礼しちゃう!」
そこで怒るのかと言うポイントで秘書課長は怒り、だがすぐに悲しげな顔になってため息を吐いた。何事かと八神は彼を見る。
「男嫌いだなんて、きっと別れた彼氏のせいね~。勿体ないわ、あんなにきれいで良い子なのに。だからあの子いつも悲しそうなんだわ。たぶん遠距離で辛かったからもう恋する気になれないのよ~、わかるわ、私もそう思ったし」
「いや、誰も何も聞いてないし!」
急にぺらぺら緋乃の個人情報を漏らす秘書課長に八神は驚いて声を上げた。
「ってかお前、そういうこと平然と話すなよ! 部下の話だろ!?」
「あらやだ。過剰反応するわね」
「するだろ、もちろん」
上司として、管理職として、と答えると、秘書課長はなんともいえない生ぬるい視線を向けてきた。なんだよと八神は思う。
別に緋乃に恋人がいたとかどうでもいいし。あれだけ綺麗ならそりゃ一人くらいはいるだろう。
「人のプライベートを勝手に話すな! 失礼だろ」
「ごめんね~私お喋りだから。寝言聞いたと思って許してちょうだい。じゃね!」
そんな話をして、ドイツ出張に赴いた。
緋乃は本来連れて行く必要はなかったのだが、ドイツ語が堪能なために通訳を雇うよりはと上に頼んだら申請が通った。
彼女は海外でも素晴らしく有能だった。普段から仕事ぶりを見ているので語学に堪能なのは知っていたが、パーティでの礼儀作法も完璧だった。ドレス選びから挨拶の仕方、気配りに至るまで。
秘書課長に余計な情報を吹きこまれたせいで八神はいつもより彼女に注目していた。この子は本当に素晴らしい。
だが、そうこうしている内に、気が付くこともあった。彼女の様子がどこか変だと。
まず物憂げ。そして口数が少ない。寝不足らしく、早朝に起きて動いている。
仕事はきっちりしてくれているので問題はなかったが、八神は単純に心配になった。なにかあったのだろうかと。
ついに自分と相性の良い秘書を見つけたというのに、また潰してしまっては大変だからだ。
なので思い切って本人に直接聞いてみた。
朝早くに起きているのがわかっていたので、早朝にホテルのラウンジでコーヒーを飲みながら待っていると、果たして彼女は現れた。
クラシカルなコートにベレー帽と、私服を見るのが初めてだったので一瞬見惚れたのは上司として断固口にはできない。
「古い知り合い? 誰?」
そこで意外な事実を知った。
なんと、今回の取引先であるヒルデブラントAGに、緋乃の知人がいるというのだ。しかも同じ大学の同期だと。
「何故言わなかったんだ!」
「すみません!」
そんなおいしい話はもっと前にしろ、と言いかけて、八神は自分が出張直前までこの話を緋乃に伝えていなかったことを思い出した。反省する。
「……いや、すまない、君が悪いわけじゃないな。でもそうか。瀬川君とヒューバー君がね」
「はい……」
瀬川君というのはヒルダの営業マンだ。
ヒューバー君は販促部。
二人ともまだ物凄く若いが話していて感じが良く、賢くて、かつ日本で暮らしていたバックグラウンドがあるので、八神は彼らと組みたいなと思っていた所だった。
まさか緋乃の知り合いであるとは思わなかったが、これを仕事に利用しない手はない。思わず仕事モードに戻って早速連絡したまえ、と指示してからはっとした。
緋乃が、とても悲しそうな顔をしたのだ。
それは一瞬だったが確かな表情で、八神は眼を疑った。泣き出しそうに見えたのだ。何かまずいことを言ったかなと思ったが、彼女はすぐに微笑んでわかりましたと言ったので、気のせいだということにした。
だがその理由はすぐに判明することになる。
土曜日である。
午前中は仕事をしていた八神は、午後から大好きなバイエルンミュンヘンのホームスタジアムに遊びに行った。運よく見学ツアーにも滑り込め、巨大なショップで買い物ができ、ほくほくであった。
が、その帰り道に驚くべき光景を目撃してしまったのだ。
緋乃が泣いていたのだ。
しかも一人ではなく、背の高い東洋人男性の腕の中で。
(あれは──瀬川君?)
八神は戦慄にも似た心地で足を止めていた。ホテルの近くの、マリエン広場の途中だった。
日が傾き始めたヨーロッパの古都を背景に抱き合う男女は、それはそれは美しかった。
だがその男性は八神の知っている人物で、しかもあまつさえ数日前に取引先のパーティで自分を迎えてくれた若手営業マン。
そういうことか……と八神は思った。緋乃のあの顔、ドイツに来てからのおかしな様子は、彼が原因だったのだと。
え、じゃあ秘書課長が言ってた、遠距離で別れた彼氏って、瀬川君? マジで?
だとしたら緋乃は、知っていて今回の出張に黙ってついてきたのか。
それとも知らなかったのか。向こうはどうなのか。
八神は嫌な感じに脈打つ胸で考えた。どちらにしろ、これは良くない事態だ。
二人は八神に気が付く様子はなく、しばらくの間抱き合っていた。
どちらかというと緋乃がずっと泣いていてそれを相手がなぐさめている感じだ。
体を離した後も、瀬川君は緋乃の頭を、頬を、それはそれは大切そうな手つきで撫でて、やがて微笑った。
溶けそうにやさしい笑顔だった。
(うっわ。アイツ絶対、まだ好き)
八神は確信した。だとしたら余計めんどうだ!
「帰ろうか」
「……ん」
二人はやがて肩を並べ、夕闇の街へ消えて行った。
さすがにホテルの部屋に連れ込んだりされたらアウト! と八神はあわてて追いかけたが、そこは二人ともしっかりしていて、ホテルの入り口で別れていた。
だがお互いに名残惜しいのが明白で、しばらくその場で見つめあっていたが。
じゃあね、と手を振る緋乃が、まだ涙の残る顔で笑ったのが、なんだかとてつもなくいじましかった。
八神は物陰ではぁと頭を抱えてしまった。どうしようか、この事態。
見なかったことにしたいが、ヒルダとの関係はまだ始まったばかりなのだ。それはできない。
(今後のためにも、早めに問題の芽は摘んでおかないと……)
部下の恋愛に立ち入るなど無粋もほどほどしいが、これはあくまで上司としての義務だ。
己にそう言い聞かせ、八神はひとつの決意をした。
すなわち緋乃と、個人面談をする。
──この仕事は絶対に落とせないのだ。