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私もずっとしあわせだった──と緋乃は言いたかった。
でも言えなかった。
言葉にしてしまえば、彼との時間の全てが……これから過ごす時間でさえも、終わってしまうような気がして。
終わらせたくなかったんだ、と悟った。
わたしは、まだ。彼との時間を紡いでいきたいと思っていたのだと。
(終わらなければいいって、思ったのよ)
彼の隣で、過ごすことを許されたミュンヘンの午後。
そのすべての瞬間が永遠となれと緋乃は本気で願ったのだ。
明日なんていらないと思うほど、自分でも驚くほどに強く、潔く、希った。
でもだからといってそれは、また彼と付き合いたいとかそういう現実的な話ではない。
例えるならただ彼との最後の思い出を、美しいまま、笑顔のままに保存しておきたいようなそんな気持ちで。
だいすきなひと。
いつでも、誰よりもあなたの幸せを願っている人。
その笑顔を曇らせたままでいたくなかった。
だから、話せてよかった。
「……それだけで、じゅうぶん」
もう一度あなたに手を取ってほしいなんて願わない。
だって、私は水曜日には日本に帰るのだ。そのあとは多分、二度とここに来ることはない。
彼ともし、また手を取り合ったとしても……また遠い距離に隔てられてしまう。
会いたい時に会えない。声しか聴けない。触れられない。
抱きしめたくても、届かない。
それはもう、耐えられない。
──俺は、ずっとしあわせだった
あの一言で、このひとを好きでいてよかったと思った。
この人と恋をしたことは間違いではなくて、私にとってとてもとても大切なことで、そして何よりも彼も同じように思っていてくれるのだと知った。
「……界」
ひそやかに名前を呼び、緋乃は願う。
ありがとう。
あなたはずっと、私にとって唯一の大切な人であり続ける。
あなたの幸せを、ずっといつまでも願っているわ──。
***
「ミズ・恩納」
「あら、ヘア・ノイマン」
月曜日。今日は朝からヒルダの慈善事業の視察に行くことになっている緋乃は、ホテルのロビーで同僚たちと待ち合わせていた。そこでやってきたのがノイマンだ。
あいかわらず素敵なスーツを着ている。
「すまないが、私は午前中ヒルダに呼ばれてしまったんだ。午後から合流するので先に向かっていてほしい」
「わかりました。八神支社長はご存知ですか?」
「もちろんだ。伝えてあります」
さらりと答えたノイマンは、この間パーティに出たくないと駄々をこねたのとは別の人間のようである。
あの印象が強くて忘れていたが、彼は社内でもかなり優秀な営業マンだという。彼がいなければこのチャリティへの参加もできなかったのだ。
うーん、と緋乃が考えながらノイマンのネクタイ(トランペット柄だった)を見つめてしまうと、ふいに髪に触れる感触があった。
「っ。なに?」
びくりと肩を揺らすと、それはノイマンの手だった。
思わず睨んだ時にはすでに彼は離れていたが。
「君は警戒心が強いな」
「は?」
「処女みたいだ」
かけられた言葉に絶句する。前言撤回、気持ち悪い!
こいつは女好きだと直感した。近づいてはいけないタイプだ。
「髪は下した方がいい。きれいな黒髪なんだから」
しかし己の魅力を信じているらしいノイマンは、そのまま緋乃に流し目をくれると歩き去った。残された側としては身震いするしかない。
ジョージが外国人の男には気をつけろと言っていたが、本当にその通りだ。
いくら優秀でもあんなやつがチームにいるなんて災難である。
緋乃がはぁ、と青い顔でため息をついた時、八神がロビーを横切ってやってきた。
「おはよう」
「おはようございます」
今日一日のスケジュールを確認すると、二人はそのまま視察へと出発した。
「実りの多い視察でしたね」
「ああ、本当に」
今回視察したのは郊外にある施設だった。難病の子供たちと貧困層の女性たちが一緒に暮らしており、女性達は職業訓練を受けることもできる。
心に傷を持つ者同士が助け合いながら暮らしているのだ。
「日本だとこういうのはなかなかないよね」
「そうですね。難病の子供たちの施設もですが、女性のシェルターはとても数が少ないですし。合わさったものは初めて見ました」
「というか、シェルター自体あるのか? 知らなかった」
「ありますよ。ただ、一億総中流家庭といわれる日本です。貧困へのイメージが湧き辛く、そういう方々が存在することへの認知度がとても低いんです」
「だが生活保護の受給率は上がっていると聞くが」
「不正受給もあるということですが……実際に国民の間に格差が広がっているのは事実なのではないでしょうか。表面上の豊かさでそういうものが見えなくなっていることが問題なのだと思います」
帰りの道すがら、車の中で緋乃は八神、ノイマンと多くを話した。
今回の視察で学生時代のボランティアを思い出した、と言えばふたりが前のめりになって興味を持ったのが意外だったが。
「歌? きみが?」
緋乃の経歴を知らなかったらしいノイマンが目を丸くして言う。緋乃は無表情にええ、と答えた。
「私は音大出身ですので」
「というか、歌手として活動していただろう」
横から八神が突っ込んでくる。彼が自分の過去を知っているのが以外で、緋乃は思わず問い返してしまった。
「ご存知でしたか」
「……川村課長から聞いたからね」
川村課長というのは秘書課長のことだ。オネエであるが情に厚く、部下を守るという気持ちの強い人で緋乃も信頼している。ただ一つ、おしゃべりなところを除いて。
「昔の話です。今はもうやめましたし」
「でも、私は好きだったんだよ。”きんいろのつばさ”」
「まあ」
八神の口から、自分が歌った歌の名前が出てきて緋乃は驚くとともに照れてしまった。
思わず言葉に詰まれば、今度は横からノイマンが割り込んでくる。
「キンイロノツバサ? って、ヒイロノヨアケの?」
「……あなたもよくご存知ですね」
緋乃はますます恥ずかしくなって頬を抑えた。
ヒイロノヨアケ=緋色の夜明け、だ。緋乃が歌を提供したアニメのタイトルである。
ノイマンが興奮したように声を大きくした。
「なんてこった! 僕、好きなんだよ! あのアニメ」
「まぁー、光栄ですー」
外国人って本当日本のアニメ好きだよねー、と照れ隠しもあって緋乃はかなりどうでもよさげな相槌を打った。途端に八神が物言いたげな視線を投げてきたので、こほんと咳払いをして説明を加える。
「……ええと。学生時代、知り合いのつてでアニメのコーラスに参加したことがあって。それはまた違う作品だったんですが、その関係で緋色の夜明けの現場に呼ばれて。ライラの歌を歌うことになったんです」
「そうそう、ライラ! 彼女がさー。切ないんだよなー。愛する人のために自分を犠牲にして、自ら声を手放すんだ」
ノイマンが熱っぽくしゃべる。本当に好きなんだ、と緋乃は若干引きつつも、でも確かにと目を伏せた。
我ながらあのシーンは胸に迫るものがあった。
亡国の姫ライラが、敵国の軍人ジルベルトと出会って始まる「緋色の夜明け」。
ライラは初めこそジルベルトを憎悪し、殺そうとまでするが……。
「ジルも、実は自分の国に利用されている悲しき軍人なんだよな。傷だらけで、何度も死にかけながら、それでも国に忠誠を誓っている」
「ええ。彼にとっては国がすべてだった。でも、ライラに出会ってそれが変わった。国を滅ぼされ、ただ一人の生き残りとなっても、不屈の精神で生きるライラにジルは心を動かされた。やがてライラの声に強い力があることが判明して彼女が追われる身となったとき、ジルは国よりもライラを選ぶのよ。彼女を逃がすためにその命を懸ける」
ジルベルトは半獣人の将軍で、巨大なグリフィンへと姿を変えることができる。
彼はその背にライラを載せて国を出奔しようとした。しかし、他でもないライラ自身がそれを阻止する。
彼女はジルの背から飛び降りるのだ。
高い空を、まっさかさまに──自らの喉にナイフを当てながら。
すべてはジルを守るために。
そこで流れるのが『きんいろのつばさ』だ。
「……へえ。そういう話なのか。歌しか知らなかったよ」
「よかったら一度ご覧になってください。原作が小説なので、とてもストーリーが豊かなんです」
「ヘア・八神。ぜひ! 見てください。よかったらDVD貸しますよ」
「というか、どちらかというと私は恩納さんの生の歌が聴いてみたいな」
「えっ。いえそんな、お聞かせできるようなものでは」
「プロだったんだろ? なんなら今回のチャリティで──」
そんなことを言っているうちにヒルデブラントミュンヘン本社に着いた。
巨大な社屋に入ると、三人は受付を通して入館証を借り、そのまま上階へ上がっていった。
この後は他クライアントも混ぜてのプレゼン大会が予定されており、その会場がここのカンファレンスホールなのだ。
会場へ着くとすでにそこは人であふれかえっていた。
「ノイマン。まだ少し時間がある。打ち合わせできるか?」
「もちろんです」
男二人はさっさと席について最終チェックを始めてしまった。
そうなると緋乃は暇になる。八神はドイツ語はできないが英語は上手で、ノイマンとは英語で意思疎通が図れるのだ。
朝から忙しかったこともあり、どこかでコーヒーでも買ってこようかと緋乃は八神に断わってから会場を後にした。
廊下に出て人ごみを歩き出すと、ふいに名前を呼ばれて足を止める。
振り返ればそこに、当然のように界が居た。




