4
口説いちゃえば?
そう耳元で囁いて去って行った悪友を、界は食事の間じゅう呪っていた。
なんてことをしてくれたんだと思う。よりによってこのタイミングで彼女と二人きりにさせるなどと。
明日スタジオで録音の予定だから思いっきりぶん殴ってやらないと。
「ね、空が綺麗ね……!」
緋乃が目の前で、心から安らいだ表情で空を仰ぎ、ゆるやかな風がその綺麗な髪をなびかせる。少しアルコールを含んだせいか、頬と唇はほんのりと赤く、界は傍にいるだけで落ち着かなかった。ドキドキするのだ。
(なんでだ。今までどんな女に言い寄られても、何も感じなかったのに)
びっくりした。我ながら。
この三年間、金髪美人だろうがアジアンビューティだろうがラテン系美女だろうが、どれほど率直に迫られても本当に、まったく、そういう気持ちにはならなかったのだが。
緋乃の場合、見ているだけで胸が苦しくなる。
その頬に触れて、髪に指を絡めて、そして口づけたくてたまらなくなるのだ。
叶うなら衣服の下のやわらかな肌に手を滑らせて──めちゃくちゃに乱したいというところにまで思考が及ぶ。
(……アホだ。ヤバい)
真昼間からあられもない緋乃の姿を想像してしまい、界はあーと唸りながら顔を両手で覆った。そうだ。
君を前にすると俺はおかしくなるんだった。
>>どう? うまく行ってる?
あ、良いこと教えてあげるよ。
緋乃は彼氏いないんだってさ(^o^)丿★ヤッタネー
ピコンと音を立てて届いたのはまたしても悪友のライン。
くっそまじで明日殺す、と界はスマホをポケットに押し戻した。だから本当になんてことを。
後戻りできなくなるだろうが!
「界。ねぇ、聞いてる?」
「え」
ふいに顔を覗きこまれて界はものすごくドキッとした。頭の中を読まれていたらどうしようと思う程に、緋乃の瞳はまっすぐで澄んでいる。
いつも星空のようだな、と思っていた。知性の海にこぼれる意志の星。
「ごめん、考え事してた」
素直に謝ると緋乃がもろ寂しそうな顔をしたので界は焦った。全力で弁明する。
「いや、違う、上の空って意味じゃなくて。仕事とか他のことを考えてたわけじゃない、むしろお前のことばっかり……っ」
全力で弁明して、そしてドツボにはまった。
自分で自分の発言に衝撃を受け、界はがっくりとうな垂れた。はずかしい。
なんかもうさっきから色々、立ち直れなくなりそうだ。
──俺、こんなにダサかったっけ。
「……ふ」
だが、項垂れた界の耳に、彼女が吹出す声が聞こえた。
え? と思わず顔を上げれば、今度は声を上げて笑う彼女の姿が。
「ふふ、あはは。やだ界どうしちゃったの? そんなお世辞言うような人じゃなかったのに」
「おっ……世辞じゃねぇよ! そうだよ、お前の言うとおり、俺はお世辞は言えないんだから!」
「じゃあ、本気?」
まだくすくすと笑いながら緋乃がこちらを見る。
界は、売り言葉に買い言葉で思いっきり頷いていた。
「ああ。本気だ」
かーっと頬が熱くなる。ああもう。我ながら本当に格好悪い。
だが緋乃はなぜか嬉しそうに笑って答えたのだった。
「……ありがとう」
そんな幸せそうに笑うなよ、と苦しくなる胸を感じて界は眼を細めた。また、勘違いするじゃないか。
俺は君にとっての特別な男なんだって。
「……どうしようか。この後」
仕切り直すように界は言った。
自分たちは食事を終えて、なんとなく街を歩いていた。
すぐそばにある噴水が、ふいに水しぶきを上げて放物線を描いてゆく。歓声を上げる観光客の頭上、マリエン広場に淡い虹が生まれた。
「私は何も予定がないけど……」
ちらりと界の眼を見て、それから虹に気を取られた様子で眼を反らして、緋乃が言った。
界はそのしぐさに我慢してるな、と悟る。
彼女が眼を反らすのは、言いたいことを言えないでいる時の癖だった。
「……どこか行きたいところがあるの?」
やんわりと聞いてみると、はたして彼女は、少し迷った様子を見せながらも頷いた。自分の読みが当たっていたことに満足しながら界は微笑む。
「じゃ、行こうよ。連れて行く」
「でも、忙しくないの? 仕事は?」
「しないよ。明日は音楽の方で録音があるけど、今日は空いてる」
最近忙しかったので、今日は一日フリーにしたのだ。ジョージもそれを知っているからこそ自分をはめたのだろう。
「……私なんかと一緒に居ても怒られない?」
緋乃がちょっと不安そうにそう言ったので、界ははて、と首を傾げた。
「私なんか、という言葉は君に似合わないし、俺はむしろラッキーだと思ってる」
「どういうこと?」
「緋乃はあいかわらず魅力的だよ。話してて楽しいし、時間が経つのが惜しいって思う」
それでもじっとこちらを見つめてくる緋乃に、界はどこか胸をくすぐられるような心地でこうも付け加えた。
「それに、君の言葉が俺に恋人がいるかどうかって意味なら、いないから。だから全く問題ないよ」
***
緋乃のリクエストはピナコテークだった。
つまり美術館である。
「ずっと行きたかったんだけど、時間がかかるでしょ。それに滞在期間も短いから迷ってたんだけど、界となら効率よく回れるかと思って」
「確かにね。三つあるからな」
「どこがいいのかな?」
「うーん、難しい」
ピナコテークは三種類ある。絵画の他に建築やグラフィック、アート作品などをカバーしたデア・モデルネ。歴史的美術品を集めたアルテに、近代絵画と彫刻がメインのノイエだ。
二人は悩んだが、話しあった末にデア・モデルネを選んだ。
まだ新しくセンスの良い美術館はパソコンや車なども展示していて、仕事柄車に詳しい界の説明が緋乃にとっては面白かったようだ。
彼女が心から楽しそうにしている様子を見れたことが界はほんとうに嬉しかった。
ジョージにはめられたのは悔しいが、まんまとあいつの思うツボになりつつある。
ひとしきり楽しんで外に出ると、時刻はもう夜になっていた。
「遅くなったな。送ってくよ」
「え、大丈……」
「慣れない外国の街に君を置いていくほど、俺は冷たくないつもりだ。ハニー」
冗談めかして申し出ると緋乃は吹出した。そして言った。
「わかったわ。ダーリン」
二人はトラムに乗り、マリエン広場まで戻ると、そこから歩いた。お互いになんとなくゆっくりと歩いているのは気付いていたが、それを口に出すことはしなかった。
奇妙な一日だったな、と界は緋乃のきゃしゃな肩に眼を遣りながら思う。
突然でそんなことを考える余裕はなかったけど、元恋人同士がランチをして、美術館に行って。冷静に考えたらおかしい話だ。
普通なら気まずいだろうし、いたたまれない。
だけど俺たちはお互いに笑って過ごして、こんな時間まで一緒に居た。
それが意味することは──
「──ねえ。界」
ふいに、ずっと黙っていた緋乃が口を開いた。
界はどうしたのだろうと足を止める。まだ、追い返されるにはホテルまで遠い。白い広場の途中だった。
「……どうかした?」
「あの、あのね」
ひどく躊躇った様子で緋乃は界の傍に寄り、それから何故か苦しそうな顔をした。
わずかな沈黙の後、小さな声が耳を打つ。
「……わたしね。あなたに言わなきゃいけないことがあるの」
俺もある、と界は思った。
でも、言おうか迷っていた。今日が思いがけず楽しかったから、もうそれでいいんじゃないかと思ってしまったのだ。
流されかけてた自分に気がついて界は己を恥じた。
「……俺もあるよ」
今や腕が触れ合うほどの位置にいる緋乃の、肩の温もりを感じながら界は静かに言った。
緋乃はすると、なんだか泣きそうな顔でこちらを見る。
そんな顔をされると辛くて、界は思わず彼女の頬を手で包んでしまった。
「どうしたの。なんでも聞くよ」
「……っ、私」
界に触れられたことで何かがあふれてしまったようで、緋乃の瞳からついに大粒の涙がこぼれた。
さっきまであんなに楽しそうだったのに、と界は胸を痛める。
この人は本当に、表情がころころと変わる。
「わたし……あなたに謝らなければいけないの」
やがて緋乃は言った。同時にまたひとすじ、涙がその白磁の頬を伝う。
彼女が急に泣いたことと、その言葉を受けて界は静かに混乱した。──謝る?
俺ではなくて、緋乃が?
だが界の気持ちは知らず、緋乃は次々に己の想いを吐露する。
「ごめんなさい。あの時、一方的に別れるって主張して、あなたのこと傷つけた。私は、あなたのことを思いやってるつもりだったの。でも本当はあなたに置いていかれるのが怖かっただけだったんだわ」
「え……」
思いもよらない告白に界は言葉を失った。
彼女がそんな風に考えていたなんて思いもよらなかった。
だって、傷つけたのは俺の方だったのに。
君を守れなくて。寂しい想いをさせて。
確かに君を失った喪失は計り知れない、でも。
今考えればその原因は俺にあった。
「緋乃……」
否定しようと界が上げた声を、緋乃は首を振って遮った。
「わ、わたし、不安だったの。あなたが違う人になっていくみたいで。わたしのしらない、異国の地で、異国の人々と関係を築いていくのが……どうしても妬ましかった」
「それは、あたりまえだ。君のせいじゃない、俺が君を寂しくさせただけで」
「違うわ。あなたはいつだって優しかった。私のことを大切にしてくれたのに」
「でも」
「──それだけじゃないの」
涙を溜めた大きな瞳が、急に界をまっすぐ捕える。
界は息が止まるかと思った。
そんな風に泣きじゃくって、自分が悪いと主張しているのに。
どうして君はそんなに綺麗なんだろうか。
「私、あなたに、恨まれてるって考えた」
「──」
緋乃の手がふいに伸びて界の腕を捕える。ごめんなさいと、言葉なく訴えるように、弱い力で。
界は困惑しきって彼女をただただ見つめてしまった。
「恨む? 俺がきみを、どうして」
「っ、そうよね、そんなわけはないのに……。あなたは優しい人なのに。でも、私はあなたを切り捨てた。だから、許してもらえるはずがないって思ったの」
そこまで言って、緋乃はまたほろほろと涙を流した。
その様子があまりにも切実で、また心から悔やんでいるのがよくわかるものだったので、このひとはずっと苦しかったんだな……と界は思った。
(俺のせいで。君はずっと悩んできたんだ)
界はしばらくじっと黙っていたが、やがてその低い声で静寂を打ち破った。
「……まったく。君はいつも俺のためだって勝手に決めたね」
涙に濡れた緋乃の頬を手のひらでぬぐい、界はちいさく微笑んだ。
彼女の涙は辛かったが、今はそれでも、心のどこかに温かな気持ちが溢れだしていた。
「泣かないで。俺は謝ってほしくないから」
途端に顔を歪めた緋乃の髪を、しかし界はやさしく撫でて彼女を呼んだ。
「ひぃ」
久しぶりに口にする呼び名だった。
かつて、俺だけが君のことをそう呼んで、その度に俺は君の特別な存在だという自負に酔いしれたものだった。
「君は、勘違いをしてる」
「……?」
緋乃は困惑した様子で界を見上げた。どうしたらいいかわからない様子だった。
彼女の髪に置いた手を、名残惜しくそのまま触れさせながら、界はささやくように告げた。
「俺は、ずっとしあわせだった」
「──」
緋乃の瞳がはっとしたように見開かれる。
まばたきすら惜しいような気持ちで界はその目を覗き込んだ。
「君と過ごした全ての時間、俺はずっと幸せだった。だから謝ってほしくない」
「……っ」
「君のせいじゃない。だけどもしかしたら、俺のせいだけでもないのかもしれない。どちらかだけが悪いとか、そういうことじゃないんだよ。二人で決めたことだろう? たとえもう別れてしまったとしても、その最後の瞬間まで、君は俺のものだった」
界は言って、自分でも驚くほど柔らかい笑顔を浮かべた。
「だから恨むわけ、ないだろう」
その言葉を受けて、大きく見開かれた緋乃の瞳から、さらに涙がこぼれ落ちる。
界は今度こそ弱ってしまって、少し迷いながらも緋乃の体を腕の中に引き寄せた。
途端に鼻腔に満ちる甘い香りに眼を閉じながら、界は彼女を宝物のように抱いた。
「……お前はそう思わないかな?」
緋乃はもう言葉も出なくなってしまったようで、ただただ首を横に振った。小さな手が、ふと肩に触れたと思ったら、そのまま首に触れてくる。
はっとした時には、彼女は両腕で界の首に抱きついていて。
涙に濡れた、それでいて温かな声が耳たぶを掠めて行った。
「ありが、とう──界」