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緋乃は、界と二人きりになって五分でジョージを引き留めておくべきだったと思い知った。
……どきどきしすぎて死にそう。
ドアを押さえ、緋乃を他の男性からさりげなく庇い、完全なるレディファーストを行う界。日本にいる時も彼はそういうことが上手だったが、ドイツに戻って更に洗練されたような印象を受ける。
そういう部分とか、ちょっときれいめになったファッションとか、なんとなく角が取れた物言いとか、とにかくいちいち意識してしまって緋乃は混乱した。
(どうして? 会社の男の子たちにはこんな風に思うことないのに)
彼等は子供っぽくて、頼りにならなくて、むしろ緋乃が助ける立場で。
女性に世話を焼かれて嬉しそうにしている。
そんな彼等だから、言い寄られることはあっても緋乃は相手にしなかった。まったく心に響かなかったから。
「緋乃?」
なのに──この人はその呼びかけ一つでわたしの胸をかき乱す。
視線を合わせれば泣きたいような、嬉しいような気持があふれてきて、どうしていいかわからなくなる。
普段なら、仕事だったら、と緋乃は思った。
私は相手の話が途切れないように気を遣う。先回りして話題を提供して、その場を最後まで盛り上げるだろう。
でもあなたが相手だと、私はこんなにも何もできなくなってしまうのね。
「恩納。疲れてる?」
名字で呼びかけられて緋乃は自分でも思いもよらないほど嫌だった。反射的に答える。
「名前で呼んで」
「……え。あ、わかった」
ちょっと驚いたように眼を丸くしてから、界はでも、と緋乃を再度見た。
「疲れてるよね? 寝てないときの顔をしてる」
「っ、どうしてわかるの」
「そりゃわかるさ」
くすっと笑って、どこか嬉しそうな──得意げな顔で界は答えた。
頬杖をついて緋乃をやさしい目で見つめる。
「君の体を心配することは、かつての俺の専売特許だ」
「……そうね。本当にそうだった」
彼の瞳が優しすぎて、胸がざわめく。心の奥が熱くなる。
彼は確かに、私が風邪を引いた時、具合を悪くした時には、いつもそばにいてくれた。わたしを看病するのが好きだったようにすら見えた。
そしてまた緋乃もそれが心地よかったのだ。
「前はわたし、ひどく体が弱かったものね。恥ずかしいくらいに」
こみあげる想いに緋乃は知らず微笑みながら界を見た。
「でも、これでも前よりだいぶ丈夫になったのよ? 貧血を指摘されて、本気で治療したの。そしたらずいぶん楽になって」
「喘息は?」
「まだ、時々発作はあるかな。でも前ほどじゃない」
「……よかった」
緋乃の話を聞いた界は、心からほっとした様子で椅子に背を預けた。
さらに何か感極まったように額を手のひらで押さえ、長嘆する。
緋乃はあ、と思った。その癖。
あなたが気持ちをあふれさせたときのしるし。
「本当に──よかった。お前が元気で。辛そうなところをずっと見てきたから」
「そんな……」
彼が本気で自分の身を案じてくれていたことがよくわかり、緋乃は目元が熱くなった。どうしよう、すごくうれしい。
この人は私をずっと心配してくれていたのだ。一方的に別れを告げた身勝手な私を。
憎まれていても仕方ないだなんて考えていた自分が恥ずかしい。
そう考えるといてもたってもいられなくなって、緋乃は界の名前を呼んだ。
「界、あのね」
「失礼。ドリンクはお決まりですか?」
しかしそこでやってきたウェイターによって話は途切れてしまった。
界はああ、とウェイターに視線を遣ってから緋乃を見る。
「ごめん。先に頼もうか。何がいい?」
「えっと……飲むの?」
「せっかくだし、ビール飲んでおけば?」
「あ──前にも飲んだよね、そういえば」
緋乃は何気なく答えてから、はっとした。あれはまだ付き合っていた時代の話だ。
思わずちらりと界を見れば、彼はくすっと笑ってメニューに指を走らせた。
「そう、あの時はこれを飲んだね。で、緋乃は予想より酔っぱらった。だから俺は今日これをお勧めする」
「……もう酔わないもん」
「どうかな? お手並み拝見といこう」
余裕たっぷりに微笑む彼が憎らしい。緋乃は軽く界を睨むと、じゃあ、と言った。
「わかった。お任せする」
***
「おいしい! これ、なに? チェリー味」
「クラフトビールだよ。日本だとあんまりメジャーじゃないけど、おいしいだろ?」
「うん! カクテルみたい。これ、すきだな」
お酒を飲むと二人ともだいぶ緊張が取れ、カジュアルな雰囲気になってきた。
特に界は、再会してからの大人びた口調が砕けて、緋乃の記憶にある少年のような笑顔も見せるようになった。彼は彼で緊張していたのだと気が付いて、緋乃はなんだかほっとした。
「しかし、緋乃が秘書になったのは何か頷けるな。てきぱきしてて頭の回転が速いから、絶対重宝されそうだ」
「今はね。慣れたからそういう風にも振る舞えるけど、最初は大変だったわ。やっぱり音楽大学だったから、一般常識とか足りなかったし。でも教えてくれる人に恵まれたから私はラッキーだったんだと思う」
「ああ、それはわかるな」
界は頷きながら子羊の肉を口に運んで、きちんと呑み込むと言葉をつづけた。
「でも、もったいない気もする」
「なにが?」
「君は、すっかり音楽から離れたみたいだ」
界の指摘にどきりとして、緋乃はビールのグラスにまた唇を押し付けた。
それは、自分自身でずっと考えてきたことだった。
「……そういうわけじゃないの。ただ、なんていうか」
音楽が、好きだった。ピアノも歌も愛していた。
特に声楽専攻になってからは、病院や施設を訪問したりとボランティア活動を行って、すごく使命感に燃えていた。
でも、今の緋乃はほとんど歌わなくなった。
何があったわけでもないが、例えるなら、歌うためのエネルギーが体の中からなくなってしまったようなのだ。
「なんていうか──燃え尽きた、のかな。もういいって思っちゃったの。音楽で食べていく決心がつかなかった」
歌うことを仕事にしたくなかったのだ。稼ぐために歌うことが嫌だった。歌いたくないのに歌って批判されることも嫌だった。
後半は言葉にできずに黙った緋乃だが、界はわかったようだった。
彼は、綺麗に料理を食べ終えると、フォークを置いて緋乃を見た。
そして静かにこう尋ねた。
「……やっぱりデビューが嫌だった?」
的確な質問だったので驚きながらも、緋乃は、それ以上に彼が理解してくれていたことに安堵して頷いた。
そうだった。緋乃の心境の変化は、ひょんなことで歌手としてデビューをしてからもたらされたものだったのだ。
「……うん。やっぱり、ね。歌が大好きだった。でも、デビューしてからわからなくなってしまったの。売れるためとか、人気を得るためとか──私は誰のために歌ってるんだろうって」
「緋乃はピアノを弾いてた時からずっと、誰か特定の人のために音楽を奏でてたからな」
界は緋乃の心を見透かしているかのように言う。
「不特定多数のために意味もなく歌うのは、たしかに君の心を殺す行為だ」
「……わかる?」
「そりゃ、わかるよ。俺だって演奏家だから」
界は苦笑を浮かべてビールを傾けた。
「特にポップスの時はそう感じるよ。クラシックだと、まだ、歴史ある音楽を奏でるっていう責任感が勝つんだけど、ポップスってそうじゃない。人に響かないと意味がない。だけど俺自身の主張っていうか、気持ちもちゃんと届けたい。そういう原始的な意味の“音楽”だから、ときどきふっと怖くなるんだ。俺は誰のためにやってるのかって」
「貴方でもそんな風に思うの? 今では世界中の一流ホールで演奏してるじゃない。それに、ジョージとのユニットだって好評なのに」
ジュネーヴ国際で優勝した天才チェリストがまるで日の目を見ないアマチュアのようなセリフを吐くものだから緋乃は思わず声を大きくしてしまった。
界はすると、どこか寂しげな眼で緋乃をみてこう言った。
「それは──思うよ。たぶんずっと考え続けることだろう。どこで弾いても、いくら多くの人が聴いてくれたとしても。本当に俺が聴いてほしいと思っている人たちは決まっている」
「それは……」
界は言及しなかったが、緋乃にはわかった。
界が奏でるその先に居る人たちは、たぶん彼の大切な人達だ。
家族。親友。
(じゃあ私は?)
考えて緋乃は、ただ一つの答えが目の前に在ることを悟った。
同時に、界の言葉がすとんと胸に落ちてくる。
わたしが本当にわたしの歌を届けたかった人。
それは、貴方だ。
「でも、いつかまた歌って欲しいな。俺は、君の歌が大好きだった。特にあの曲」
「……どれ?」
界の優しい眼を見ながら、緋乃は気が付きはじめていた。
──わたしはあの時、界に相談しなかった。
忙しそうだった。連絡も取りづらくなっていた。
でもそれだけが理由じゃなくて、私が彼に気おくれしたのだ。
もはや名実ともに一流チェリストと成った界に、自分の悩みを打ち明けるのが怖かった。彼は絶対に聞いてくれるとわかっていたのに、緋乃が勝手に心の扉を閉ざしたのだ。
そう悟った途端にいたたまれない気持ちが溢れてきた。何て事なの。
彼のため、だなんて言って、本当は私は。
自分のために彼を拒絶したんじゃない。




