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ヒルデブラントの本社を案内してもらった際、偶然界のことを見かけた。
ヒルダのオフィスは大変スタイリッシュなガラス張りのデザインで、どこに誰がいるのか一目でわかるようになっている。上司の部屋も扉は無いし、いつでもだれでも入ってゆける。八神がしきりに感心していた。
そんなオフィスで彼は働いていた。
案内してくれた社員の話によると、国際営業はヒルダが今一番力を注いでいる部署で、まだ若いのにリーダーを任された界はその期待の星。真面目でかしこいと社内でも評判が良く、特に同じアジア系の社員は彼を敬愛しているそうだ。
(わかるわ。私もそうだった)
遠くから彼の姿を見つめて、緋乃はくすりと微笑んだのだ。
昔から彼はそうだった。真面目で、誰よりも努力家で。確かに才能にも恵まれているがそれだけに甘んじない姿勢が素晴らしかった。
くわえて自分の意見ははっきりと通し、人のことをよく見てくれている。
リーダーにするのに彼ほどの適任者はいないだろう。
「彼は、信頼できそうだね」
八神が呟いた言葉に緋乃は黙って頷いたのだった。
***
翌日は土曜日だった。
滞在が翌週の水曜日までなので、お土産など買い物をするなら今日しかない。ちょうどジョージからランチに連れて行ってあげると誘われたので、緋乃は彼に街を案内してもらうことにした。
「ごめん! お待たせ」
「やあ。今日も綺麗だ」
ジョージはホテルまで迎えに来てくれた。お互いに私服姿だったのでなんだか学生時代に戻ったようだ。
特に緋乃は、ジョージがちょっとおしゃれなレストランに連れて行ってくれると聞いたのでお洒落をした。
レースとチュールの重なったスカートに、まだ少し寒いのでトップスはグレイの艶のあるニット。足元は迷ったが、歩くと思ったのでローヒールのバレエパンプスを選んだ。
「かわいいスカートだね」
にっこりと笑って褒めてくれるジョージ。緋乃は素直に嬉しくてスカートの裾を摘みあげて見せた。
「ふふふ、ありがと。ジョージとデートできるからお洒落しちゃった」
「そういう可愛いことは僕じゃない人に言った方がいいよ~」
「いないもん、そんなひと」
緋乃が答えると、ジョージの瞳がわずかに光った。気がした。
「……へー。彼氏いないんだ?」
「今は忙しくてそんな気になれないよ」
頭に浮かんだ界の面影を振り払うように緋乃は笑って、早く行こうというようにジョージの背中を押した。
「それに知ってるでしょ? 私、男の人苦手だもん」
「あ~そうだね。どこかの誰かにキスされかけて子羊みたいに震えてた」
「そうよー。あれは誰だっけ?」
「誰だったかな。記憶が正しければ緑がかった眼の、イギリスの血が入った伊達男じゃなかったかな?」
「自分で伊達男なんて言わないの!」
二人は笑いながらロビーを抜けて街へと出て行った。
石造りの街はよく晴れてぼんやりと輝いている。観光客もそこかしこに溢れていてにぎわっていた。
まずは街を回りながらショッピングを楽しんで、沙絵へのおみやげも一緒に選んでもらった。
「そっかー。沙絵も変わらず元気か」
ジョージは女性用品のお店に入るのも嫌がらないので、ショッピングのお相手としては本当に重宝する。嫌がらないどころかむしろ楽しんでくれるのだ。
今もオーガニックコスメのお店で緋乃の手元を一緒に覗き込んでいる。男性には全く興味がない分野だと思うのだが。
「でもまさか看護師になるなんて思わなかった。ってか、いつ資格取ったの?」
「実は沙絵は高校のとき看護学科だったそうなのです」
「え! 知らなかったよ!?」
「私も知らなかった事実なのです。まぁ、沙絵、ちょっと前までお父さんにすごい反発してたからね~。素直に家を手伝いたくなかったんだろうな。あ、これどうかな? オイルリップ」
「オイルリップって何?」
「オイルのリップ」
「わかんないよ!」
気心の知れた友達と話すのは本当に楽しくて、緋乃はつくづく近頃の自分が仕事ばかりしていたのだなと思い知った。
同僚とは仲が悪いわけではないが、基本的に公私混同はしたくない考えなので、緋乃は仕事仲間とはそこまで深く付き合わない。飲み会に誘われたらたまに行く程度で、学生時代の友達といえばさっきから話題に上る沙絵がメインだ。
だが彼女は普段は長野で暮らしているからそこまで頻繁には会えないし、他に仲の良い友達といえばジョージの双子のマリぐらい。しかし彼女はヴァイオリンを片手に世界放浪の旅をしているらしい。連絡が付かなかった。
「ね、さすがにジョージには連絡来るんでしょ? マリ元気なの?」
沙絵のおみやげを買うと、時刻はお昼時になった。さてレストランに向かおうと歩きながら二人はさらに話す。
緋乃の質問に、ジョージは遠い目で空を見上げた。
「いや〜来ないね。SNSにはたまに環境問題とかのセンテンス上げてるから生きてるはずだけど、個人的な連絡はもう一か月くらいないですネ」
「いっかげつ……それ、本気で心配にならない?」
「なるんだけど、まぁ、マリは何言っても聞かないときは聞かないからさー」
はァ、と呆れたようにため息をつきながらもジョージは優しい顔をしている。緋乃もつられて微笑みながら更に道を進むと、ふいにジョージが立ち止まった。
どうしたの? と見つめれば、どうやら電話が入ったらしい。スマホを耳に当てている。
「もしもし。うん。ごめん、今もう着くから」
「?」
緋乃は首を傾げた。日本語である。
しかも、もう着くからとは?
そこでふと、緋乃は通りの先に眼を取られた。同時に強烈な既視感に襲われて視界がゆれる。
石畳の細いストリートの左右には赤や緑のアーケードが立ち並び、センスのいい裏通りといった印象だ。今日は天気がいいので店の外にもテーブルが出ていて、様々な人種の人々が賑やかに食事をしている。
その一角に、彼がいた。
「嘘……でしょ。どうして」
とっさに口を突いて出た言葉に緋乃ははっとした。どうしてだなんて分かり切っているではないか。
「ジョージ!」
「僕は嘘はついてないよ? 言ったはずだ、ランチに連れて行ってあげるって」
隣に立つ友はにこりと微笑んでそう説明すると、すばやい手つきで緋乃の手を掴んだ。そしてそのまま彼の元に急いだ。
男性にしてはスマートなジョージだが、意外と力はある。緋乃は手を振り払うこともできずに引きずられていくしかなかった。
やがて一軒のレストランの前にたどり着くと、ジョージは足を止めた。そしてそのドア先に佇んでいた界にことさらにキラキラした笑顔で話しかけた。
「やぁやぁ界、お待たせ。本日は来てくれてありがとう」
「……なるほどね。お前がランチに誘ってくるなんて、珍しいこともあるもんだと思ったんだ」
カットソーにジャケットというきれいめカジュアルな格好をした界は、やってきた二人の姿を見てハアと小さく息を吐いた。そしていきなり、ジョージの腹に軽いパンチをお見舞いした。
「ごふっ!」
「ったく、彼女を巻き込むなよ。忙しいんだから」
「痛い、倒れる!」
「倒れてろ。それぐらいは当然だ」
大げさに痛がるジョージを冷たくあしらってから、界はふと緋乃を見た。
その視線に、ほとんど呆然としていた緋乃ははっと我に還る。
心臓が、壊れそうだ。
驚きと戸惑い、それから自分でも止められないときめきに……勝手に持っていかれている。
「──緋乃」
まっすぐに眼を見て名前を呼ばれ、更に心臓が刺されたように鋭く痛んだ。
とっさに声が出なくて、緋乃は言葉で答える代りに彼を見た。
すると彼は言った。
「いやなら、いいよ」
「……え?」
なんのことかわからずに戸惑う緋乃に、横でうずくまったジョージが注釈をくれた。
「予約した。ランチのコース。二名一組」
「ということなので、今更キャンセルはできない。けど君ははめられたんだろうから、無理して付き合う必要もない。だから、俺が嫌なら──」
「──嫌じゃないわ!」
淡々と述懐する界に、緋乃はとっさに叫んでいた。嫌じゃない。
正確には、嫌なわけがない。
ここ数日あなたのことばかり考えていた。
夜も眠れないくらいに、あなたの面影を何度も思い描いていた。逢いたくても逢えなかった夜を超えて、今あなたが目の前にいるのだ。
傷つけた後悔がある。後ろめたさで体が引き裂かれそうにもなる。でも。
それでもあなたに会えてうれしいと思う気持ちは否定できない。
「……あなたはいつも私のためって言って、先走ったわ」
眼を見開く界に対し、緋乃は熱くなる頬を感じながら眼を伏せた。
その言葉を受けた界が驚いたのは明らかだったが、それ以上に彼はうれしかったらしい。はじめは冷静で何の表情もうかがえなかった端整な顔に、ゆるやかな笑顔が広がった。
彼は笑って、首の後ろに手を当てた。そして言った。
「そう、だな。──ゴメン」
「ううん。いいの」
界の笑顔が見られたことで、緋乃も心底嬉しくなった。心の奥に何か火が点ったように、胸が温かくなるのが感じられる。
ああ、焔だと思いながら、緋乃はジョージを振り返った。
「ねぇジョージ、わたし彼とご一緒するわ」
「そうしていただけると、僕も大変救われます」
彼はさっきまでの痛そうな仕草はどこへやら、けろりとした顔で立ち上がるとウィンクした。
「じゃ、荷物はホテルに預けておくよ」
「え。あっ、いいのに」
「いいよ。ゆっくり楽しんできて」
ジョージはそう言って緋乃の手元からショッピングバッグを持ち上げると、今度は界の耳もとに何事かを囁いた。
当然聞こえずに緋乃は首を傾げたが、その後の界の反応を見れば、たぶんジョージらしい一言だったのだろうなとは予想が付いた。
「……お前、いっぺん地獄に落ちろよ!」
再び宙を斬った界の拳をひょいと交わして、
「まだ早いかな。じゃ、二人とも、ごゆっくりー!」
ジョージは笑顔でミュンヘンの街に消えて行った。