1
「ご苦労だったな、カイ」
レセプションの会場に戻ると、専務が待ち構えていた。
八神との挨拶もそこそこに、彼はノイマンをやんわりと連れだし、何か個人的に話しているようだった。
「ノイマンが何かしましたか? 遅刻の件でしょうか」
八神が怪訝に尋ねてきたので、界はいえ、と首を振って応えた。
「ぎりぎりですが時間には間に合っています。そこは問題ありません。ただ、ヘア・ノイマンはわが社と以前にかかわりがあったと聞いていますので、何か思い出話では?」
詳しくは界も知らない。ただ専務は、ノイマンをどうしても欠席させたくない、と言った。私は彼をここに呼ぶ義務があるのだ、とも。
(社長のために、絶対にノイマンを連れてきてくれ)
そう頼まれて、界は大和ファーマの迎えに遣わされたわけだが、まさかそこに彼女がいるとは本当に想定外だったわけで……。
「カイ、何してんの? 挨拶周りしよう」
パーティが始まり、未だに再会の衝撃から抜け出せずにいる界の元に、ジョージが小走りにやってきた。
緋乃は八神と共にとっくにいなくなっている。
界は人で混みあう立食形式のパーティ会場を見つめたまま低く言った。
「……あいつに遭った」
するとジョージは、すぐには意味が呑み込めなかったらしく、きょとんとした顔で界を見た。
「あいつって──え、もしかして」
「そのもしかしてだ」
喋る内に思い当たったらしいジョージを、今度は界はじろっと睨んだ。ジョージも言われることが予想できるらしく、あははと引きつった笑みを浮かべる。
「……へー、もう出逢っちゃったのか。案外早かったねぇ」
「早かったねぇ、じゃねーだろ! お前、知ってたなら社名ぐらい教えろよ! そしたら回避することだってできたのに。まさか専務に言われて向かった先に彼女がいるなんて思わねぇじゃねぇか」
「僕は悪くないだろ!」
ジョージは理不尽だと顔中に書いて言い返した。
「どっちにしろ彼女がここに来るのはわかってたんだから、社名なんて調べればすぐにわかったことじゃないか。それをしなかったのは君だろ!」
「……っ」
ものすごくその通りのことを言われて界は返す言葉を失った。確かに。
彼女はクライアントである。いち秘書に過ぎないとはいえ、クライアントの名前と所属会社が一致していないなどというのはそもそも営業としてあるまじきこと。
「普段なら取引先の名前なんて一瞬で覚えるくせに。わざと考えないようにしてたんだろ? 緋乃のことは」
ジョージがため息と共に吐いた言葉が真実だ。眼の裏が真っ赤になる。
久しぶりに──本当に久方ぶりに、止めようがない激情が体を駆け昇り──界は壁に向かって片手を振り上げた。ジョージがはっとしたように眼を見張る。
だが。
「……っ、行くぞ」
界は、自制した。
ぐっと奥歯を噛み、拳を握りしめてジョージに背を向けると、パーティ会場の真ん中へと足を踏み出す。
だが彼が去った後もしばらくジョージは動けなかった。
久しぶりに見た、と思った。
界の感情が燃え上がるところを。
緋乃を失ってからというものの、彼は良くも悪くも眠れる獅子のように沈黙を守っていたというのに──。
「……嵐の予感がするな」
彼の言葉は実際、その通りになってゆく。
***
レセプションは滞りなく進み、ゲストの反応もすこぶる良かった。
一組一組と話をしながら企画の話や具体的な案などで盛り上がっていた界であるが、ふいに同僚から声をかけられた。
何やらグレーテルが呼んでいるらしい。
気乗りがしないが赴くと、彼女は大和ファーマの面々と仁王立ちで対峙していた。
大和ファーマ、否、そこの秘書個人と。
「まさかこんなところで会えるとは思わなかったわ、ヒノ。どんな手を使って来たの? そんなに彼に未練がある?」
「何をおっしゃっているのかわかりませんわ、ミス・フリードリヒ。わたくしたちお会いするのは初めてですよね?」
女性二人はにっこりと最高の笑顔を浮かべながら、その実相手のことを刺し殺しそうな眼をしていた。
周りはもちろん意味がわからないらしい、きょとんとした顔で眺めているが、界は事情を知っている。当然すぐに割って入った。
「グレーテル! やめろよ、何してるんだ!」
「ああ、来たわね! この問題の張本人が」
グレーテルはどうやら酔っているらしい。ゲストへのあいさつを終えて気が緩んだのかもしれない。シャンパングラスを片手に界の胸に寄り掛かるようにして、緋乃をにやりと見下ろした。
「可愛いカイ。あんたも知ってたんでしょ? どうしてあたしに黙ってたのよ、この子がここに来ることを」
「言う必要がどうしてあるんだ」
界はぐいっとグレーテルを押しのけながら言い放った。緋乃の冷ややかな視線が痛い。
「彼女は仕事の取引先で、俺はヒルデブラントの社員。たとえ友達が相手でも、命じられたことを遂行するだけだ。私情は要らない、そうだろう?」
あえて友達と強調して言ったのだが、グレーテルはふんと笑って今度は緋乃の鼻先に指を突き付けた。
「友達ですって? よく言うわ、私が知っているあなた方お二人はそれ以上の関係だったと記憶している。違ったかしら?」
「少し酔っていらっしゃるようですわね、ミス・フリードリヒ。お仕事中なのに羨ましい限りですわ」
「酔ってないわ! 全くドイツ語が上手になったこと。あの頃のあなたは私に言い返すこともできなかったのに」
「ですから何のことかわかりません」
緋乃は唇を笑みの形に持ち上げて言った。
目の前のグレーテルの手首をつかむとやんわり遠ざけて続ける。
「でも、語学習得の要は何と言っても実地訓練。私のドイツ語が褒めていただける程のものだとしたら、それは確かにあなたの仰るように誰かとやり合ったおかげなのかもしれませんね」
それもとびきり性格の悪い女、と彼女が付け加えると、さすがのグレーテルも絶句した。界はこれ以上の炎上が嫌で咄嗟にグレーテルの口元を手で覆う。
緋乃はそれを知ってか知らずか、涼しげな動作で髪を耳にかけた。
「それにしても先ほどヘア・瀬川がおっしゃったことが正解です。わたくしたちは仕事の関係。これ以上の余計なおしゃべりは双方にとって良くないものと心得ますわ。ねえ?」
そう言って、同意を求められるようにいきなり見つめられ、界はいろいろな意味でどきりとした。挑戦的な黒い瞳。
「……申し訳ない。あなたのおっしゃる通りです、彼女は少し休ませます」
この時には緋乃が怒っているということを理解していた界は、静かに同僚の非礼をわびた。今だけではない、グレーテルは昔から緋乃に当たりが強かった。
そのことを思い出すと今でも胸が後悔に痛む。
俺が、君をあの頃ちゃんと守ってあげられていたら。
「……本当に、ごめんな」
思わずそう呟くと、緋乃はかすかに驚いたように眼を大きくした。
そんな仕草ですら懐かしくて愛おしい。
界はもっと何か言おうと口を開いた。彼女と話がしたかった。
でも。
「ああ、いたいた恩納さん! ちょっとこっちに来てほしい」
「八神支社長」
他の男がやってきて、横から君の腕を取る。
彼女はもう、俺ではない誰かに必要とされていて、その手が頼るのもきっと俺ではない。
界は彼女の名前を呼ぼうとして、だが思い留まった。
心が──熱い。
その花の香りも、美しい姿も、俺は誰よりよく知っていたはずなのに。
かつての恋人をダーリンだなんて言ってしまう余裕や、冷静に仕事を遂行する様、それにグレーテルを論破する強さはかつての君には見られなかったものだ。
そのことをまぶしく思う。
だけど同時に悔しく思う。
(……知らない女性、みたいだ)
湧き上がる感情をどうしていいかわからずに、界はただ緋乃の後姿を見送った。