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きんいろのつばさ  作者: 小糸
ミュンヘンの夜
13/51

再会

 

 瞬いたあとの世界に、彼が居た。


 緋乃は階段を一段降りただけの場所で動けなくなった。

 見まちがいだと、もう一度眼を閉じて、すうと息を吸う。

 そして再び、ゆっくりとまぶたを上げた。


 ──これは夢?


 見下す先に、多分、自分とまったく同じ表情かおをした彼がいる。鏡合わせのようにぴたりと、緋乃に視線を合わせて。


 二人は打たれたようにしばし動かなかった。

 互いが本当に同じ場所にいることを確かめているようだった。


 うごかないでほしい、と緋乃は思った。

 貴方が、指一本でも動いたら、きっと私は捕らわれてしまうから。

 げんにこうして再び貴方の瞳に出逢っただけで、息ができない。


「っ」


 だが、彼は動いた。

 その瞬間緋乃は大きく肩を揺らす。

 時が、止まっていたのだとわかった。彼と瞳を合わせた瞬間から。


 界はゆっくりと階段を上がり、やがて緋乃と目線が合う位置までたどり着くと、立ち止まった。

 そしてどこか悲しそうな……言いようもなく切なげなまなざしで、かすかに息を吸った。


 だめ、と緋乃は神に祈った。

 喋らないで、ああどうか。


 呼ばないで、わたしの名を──


「──緋乃……?」


 そっと髪を撫でるような声を耳にした瞬間、

 心の奥に隠していたものがふたたび脈打ち始めた。


 *** 


 これは、夢なのだと思った。

 それぐらい彼女は綺麗で、光に満ちて、俺の目の前にとつぜん滑り出してきた。

 あんまり俺が忘れられないから。だから。

 これは神が見せてくれた一瞬の幻なのだと、そう思った。


(……本当に、きれいだな)


 界は既に虜だった。

 夜闇に溶けそうになびく黒髪も。反対に、光る大理石の肌も。

 なによりも、あの知的な瞳と愛らしい唇はそのままに──


「──」


 緋乃はぴたりと足を止めて動かなかった。

 驚いたというよりは、現実を確かめるような眼をしていて……たぶん、それは自分も同じだろうと界はどこか他人事でそう判断した。


 早く駆け寄って抱きしめたいような。

 けれど、このままいっそ時が止まってほしいような。そんな相反する気持ちに静かに揺られてさらに時間が過ぎていく。

 でも、そこで界は気が付いた。


(……あ。泣きそう)


 緋乃のまぶたがほんのわずか震えた。それがわかった。

 だから、足を前に踏み出した。


 *** 


「どうしてきみが、ここに」


 界の声は、いまも変わらずに緋乃がこの世で最も愛する音のひとつだった。

 低くて。深くて。彼の奏でる音楽に似ている。


 緋乃は涙が出るかと思った。


 途方もなく安心して──嬉しくて──それでいてたまらなく胸が痛い。自分が勝手に傷つけた人を目の前にして、会いたかったと思うなんてずるいのに。

 なのに。


(どうしてこんなにうれしいんだろう)


「……驚いたわ、ダーリン」


 泣かないために、彼を困らせないために、緋乃は必死に明るくそう言って見せた。これぐらい言えば、きっと界も対応に迷わない。


「俺もだ。ハニー」


 果たして界は、かすかに笑って答えてくれた。


「もしかしたら君が、大和ファーマの?」

「ええ。八神の秘書なの」

「そうか。……初耳だな」


 界が呟くように言ったので、緋乃はとても驚いた。


「ジョージから聞いていないの?」

「君がクライアントだということは聞いていた。でも、どの会社だということまでは全然」

「……そう」


 友が気を遣ったのだと緋乃は悟った。

 わずかな沈黙が落ちて、その間すら、界のまなざしが熱い。

 そんなに見ないで、と思う。見つめられるだけで、耳まで燃えるように熱くなる。


 貴方は、やはり変わらずにハンサムね。

 少しやせたかな。記憶の中よりも落ち着いた物言いに、深みを増した瞳。

 かすかなスパイスのような香りが彼のセクシーさを引き立てている。


(──美しい男性って、こういうことなのかしら)


 緋乃がそう想って、彼をふと見つめた時、階段の下から車のクラクションが鳴った。


 *** 


 見惚れていた自分に気が付いて、界ははっと我に還った。

 見下す先で八神が窓から身を乗り出している。


(ああ、行かないと)


 置かれていた状況を思い出す。彼女を見てから、この世界は停止していた。

 界はまだどこか夢心地で緋乃に向けて手を差し伸べる。

 そして言った。


「……失礼。時間がないんだ。そろそろ行こう、ミス・恩納」

「──」


 緋乃は、かすかに戸惑ったように眼を伏せて、だがすぐに界の手に手を乗せた。

 その、やわい重み。

 ひんやりとした指先。

 ああ、そうだったなと胸が痛んだ。


 これが君の手の感触だ。


 ぎゅっと指を絡めて捕まえてしまいたくなる衝動を堪えて、界はただ紳士的に緋乃をエスコートする。

 ゆっくりと、噛みしめるように階段を一段一段、降りて行って。

 そしてたどり着いた車のドアを開けてやる。

 後部座席も空いていたが、界は助手席のドアを開けた。


 緋乃はドレスの裾をきれいに指先で寄せ、足を揃えてから乗り込むと、界がドアを閉める前に、ひそやかな声で囁いた。


「……ありがとう」

「遅かったな、ミズ・恩納」

「お前が言うなノイマン」


 後部座席には既に男二人が乗っている。緋乃を乗せることはできない。界は運転席に乗り込むと、「お待たせしました」と独語で言った。


「出発します」


 エンジンをかけた車は、重くミュンヘンの夜の中へと滑りだして行く。界は、そこでふと、引き返せないなと悟った。

 緋乃を見た瞬間から、何かが決定的に異なった。

 世界が変わった。それがかつて見ていた景色なのか、まったく新しい景色なのかはわからないけれど、確かなのは美しいこと。


 まるできんのひかりを集めたかのように、全てがまばゆく動き始めた。



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