再会
瞬いたあとの世界に、彼が居た。
緋乃は階段を一段降りただけの場所で動けなくなった。
見まちがいだと、もう一度眼を閉じて、すうと息を吸う。
そして再び、ゆっくりとまぶたを上げた。
──これは夢?
見下す先に、多分、自分とまったく同じ表情をした彼がいる。鏡合わせのようにぴたりと、緋乃に視線を合わせて。
二人は打たれたようにしばし動かなかった。
互いが本当に同じ場所にいることを確かめているようだった。
うごかないでほしい、と緋乃は思った。
貴方が、指一本でも動いたら、きっと私は捕らわれてしまうから。
げんにこうして再び貴方の瞳に出逢っただけで、息ができない。
「っ」
だが、彼は動いた。
その瞬間緋乃は大きく肩を揺らす。
時が、止まっていたのだとわかった。彼と瞳を合わせた瞬間から。
界はゆっくりと階段を上がり、やがて緋乃と目線が合う位置までたどり着くと、立ち止まった。
そしてどこか悲しそうな……言いようもなく切なげなまなざしで、かすかに息を吸った。
だめ、と緋乃は神に祈った。
喋らないで、ああどうか。
呼ばないで、わたしの名を──
「──緋乃……?」
そっと髪を撫でるような声を耳にした瞬間、
心の奥に隠していたものがふたたび脈打ち始めた。
***
これは、夢なのだと思った。
それぐらい彼女は綺麗で、光に満ちて、俺の目の前にとつぜん滑り出してきた。
あんまり俺が忘れられないから。だから。
これは神が見せてくれた一瞬の幻なのだと、そう思った。
(……本当に、きれいだな)
界は既に虜だった。
夜闇に溶けそうになびく黒髪も。反対に、光る大理石の肌も。
なによりも、あの知的な瞳と愛らしい唇はそのままに──
「──」
緋乃はぴたりと足を止めて動かなかった。
驚いたというよりは、現実を確かめるような眼をしていて……たぶん、それは自分も同じだろうと界はどこか他人事でそう判断した。
早く駆け寄って抱きしめたいような。
けれど、このままいっそ時が止まってほしいような。そんな相反する気持ちに静かに揺られてさらに時間が過ぎていく。
でも、そこで界は気が付いた。
(……あ。泣きそう)
緋乃のまぶたがほんのわずか震えた。それがわかった。
だから、足を前に踏み出した。
***
「どうしてきみが、ここに」
界の声は、いまも変わらずに緋乃がこの世で最も愛する音のひとつだった。
低くて。深くて。彼の奏でる音楽に似ている。
緋乃は涙が出るかと思った。
途方もなく安心して──嬉しくて──それでいてたまらなく胸が痛い。自分が勝手に傷つけた人を目の前にして、会いたかったと思うなんてずるいのに。
なのに。
(どうしてこんなにうれしいんだろう)
「……驚いたわ、ダーリン」
泣かないために、彼を困らせないために、緋乃は必死に明るくそう言って見せた。これぐらい言えば、きっと界も対応に迷わない。
「俺もだ。ハニー」
果たして界は、かすかに笑って答えてくれた。
「もしかしたら君が、大和ファーマの?」
「ええ。八神の秘書なの」
「そうか。……初耳だな」
界が呟くように言ったので、緋乃はとても驚いた。
「ジョージから聞いていないの?」
「君がクライアントだということは聞いていた。でも、どの会社だということまでは全然」
「……そう」
友が気を遣ったのだと緋乃は悟った。
わずかな沈黙が落ちて、その間すら、界のまなざしが熱い。
そんなに見ないで、と思う。見つめられるだけで、耳まで燃えるように熱くなる。
貴方は、やはり変わらずにハンサムね。
少しやせたかな。記憶の中よりも落ち着いた物言いに、深みを増した瞳。
かすかなスパイスのような香りが彼のセクシーさを引き立てている。
(──美しい男性って、こういうことなのかしら)
緋乃がそう想って、彼をふと見つめた時、階段の下から車のクラクションが鳴った。
***
見惚れていた自分に気が付いて、界ははっと我に還った。
見下す先で八神が窓から身を乗り出している。
(ああ、行かないと)
置かれていた状況を思い出す。彼女を見てから、この世界は停止していた。
界はまだどこか夢心地で緋乃に向けて手を差し伸べる。
そして言った。
「……失礼。時間がないんだ。そろそろ行こう、ミス・恩納」
「──」
緋乃は、かすかに戸惑ったように眼を伏せて、だがすぐに界の手に手を乗せた。
その、柔い重み。
ひんやりとした指先。
ああ、そうだったなと胸が痛んだ。
これが君の手の感触だ。
ぎゅっと指を絡めて捕まえてしまいたくなる衝動を堪えて、界はただ紳士的に緋乃をエスコートする。
ゆっくりと、噛みしめるように階段を一段一段、降りて行って。
そしてたどり着いた車のドアを開けてやる。
後部座席も空いていたが、界は助手席のドアを開けた。
緋乃はドレスの裾をきれいに指先で寄せ、足を揃えてから乗り込むと、界がドアを閉める前に、ひそやかな声で囁いた。
「……ありがとう」
「遅かったな、ミズ・恩納」
「お前が言うなノイマン」
後部座席には既に男二人が乗っている。緋乃を乗せることはできない。界は運転席に乗り込むと、「お待たせしました」と独語で言った。
「出発します」
エンジンをかけた車は、重くミュンヘンの夜の中へと滑りだして行く。界は、そこでふと、引き返せないなと悟った。
緋乃を見た瞬間から、何かが決定的に異なった。
世界が変わった。それがかつて見ていた景色なのか、まったく新しい景色なのかはわからないけれど、確かなのは美しいこと。
まるできんのひかりを集めたかのように、全てがまばゆく動き始めた。




