mixture
夕日色のミディアム・ドレスは膝を覆う丈とハイネック仕様がクラシックで上品だ。
靴はサテンで控えめな艶を。
髪は時間が無いからゆるく巻いて、片耳だけ出した耳の上に花と真珠を刺す程度にとどめた。
鏡の前に立ってみて、慌ただしく己の姿をチェックする。
露出は少ないが、ドレスコードのセミフォーマルはクリアしている。仕事のパーティなのだから美しさよりも品と知性を前に出す方が重要だ。
後は、メイクと香水を控えめに施せばOKだろう。
(そういえば、コロン。一つしか持ってこなかった)
鏡台の前に広げたメイク用品の中から、小さめの小瓶を取り上げて緋乃は眼を伏せた。
──なぁ。香水、変えないでよ
セクシーで、だけど少し甘えたような声が蘇る。
出会いがしらにキスをくれた時や、ふいに後ろから抱きしめてきた時、彼はよくそう言っていた。
──芍薬? この香り、好きなの。界
──うん。なんかすごい、甘くて。ほっとする
「……っ」
緋乃は手の中の小瓶を思わずぎゅっと握りしめた。彼の欠片が体の中を駆け抜けていくようだ。
彼はわたしに触れるのが好きだった。
髪や頬を、いつも壊れ物のように優しく撫でた。だけど引き寄せる腕は力強くて。
あの人の傍で、わたしはいつだって、世界一安全だと思えたの。
緋乃は声にならない声で彼を呼んだ。
いつも、泣きたいぐらいの気持ちで想う。あなたを。
忘れられる日は来るのかしら──。
***
専務の命を受け、界がゲストとの待ち合わせ場所であるホテルに乗り付けると、彼らは既に待っていた。
「遅くなって申し訳ない」
界が運転席を降りると同時に先方の管理職が発言した。
日本人の、割とエレガントな男性で、年齢は40に届くか届かないかと言ったところ。
外国で同郷の者に出会うとつい親しみが湧いてしまい、界は思わず口角を上げながらいえ、と答えた。
「大丈夫です。まだ時間は間に合いますから」
「そう言っていただけると助かります」
「ヒルデブラントAGの瀬川です。この度はわざわざ日本からお越しいただきありがとうございます」
手を差し出すと、相手もわずか遅れて握手に応じ、微笑した。
「こちらこそ、ようやく御社とご縁を頂きまして大変光栄に思っています。申し遅れましたが大和ファーマの八神です。そしてこちらが営業のノイマン」
彼が目線をずらした肩先には大柄の西洋人。
茶色い髪にグレイの瞳、いたってどこにでもいる感じの男だ。
界はこいつが専務の心配の種? と心の中で首を傾げながら挨拶を続けた。
「カイ・セガワです。よろしく、ヘア・ノイマン」
「…………。」
ノイマンは灰色の冷たい瞳でじろりと界を見下した後、一転、慇懃なほどの笑みで手を差し出してきた。
「ノイマンです。頼んでもいないのにわざわざお出迎えとは、さすが世界のヒルデブラントですね。時間もお金も余っているとお見受けする」
ノイマンは界と握手を交わしはしたものの、会話は噛みあっていなかった。顔も非常に不機嫌そうで、その態度にはふてぶてしさが溢れている。
界はふーん、と見当をつけた。つまり来てほしくなかったんだな。
「そうですね。どこかの誰かが直前になって行きたくないとマナー違反なことをおっしゃらなければ俺がわざわざここに派遣されることはなかったでしょう」
さらりと答えてノイマンを見返す。
彼も、今度ははっきりと怒ったまなざしでこちらを睨み返してきた。
(本当に、ジークはなんでこんな男にこだわるんだ?)
沈黙が互いのあいだに張りつめて、横の八神が眉を潜めた。
「──すまない。できれば英語で喋ってもらえると助かるんだが?」
「ああ、申し訳ありません。簡単に自己紹介をしていました」
界はそう誤魔化して、とにかく、と後部座席のドアに手をかけそこを開けた。
「乗ってください。本当に間に合わなくなります」
「そうだな、だが、あと一人がまだだ」
八神は腕時計をちらと確認しながら答えた。
界は首を傾げる。
「秘書の方ですよね? どちらに?」
「ちょっと、事情で支度させるのが遅くなってしまってね。これは私の責任で彼女は悪くないんだ。あと五分だけ待ってもらえないか?」
「ええ、構いません」
秘書は女だったのか、と思いながら頷いた。まあそれはそうか。
男三人の出張なんてむさくるしいも良いところだし、パーティには尚更女性がいた方が華やかだ。プラス賢い女であれば、社長や専務にも受けが良い。
界はまずは八神とノイマンを車に乗せ、その秘書を待って出発することと決めた。
***
『私だ。もうノイマンと一緒に車に乗っているが、君はどこだ?』
「すみません、今エレベーターです! 本当に遅くなってしまって」
『いや、君は悪くない。ただ先方を待たせることはできないから、急かして悪いね』
「大丈夫です」
緋乃は八神と電話をしながら足早にエレベーターから降りた。
シャンデリアの照明が反射する大理石のホールを小走りに進み、フロントに鍵を預けてから玄関へ向かった。
途端に、冷たい夜の空気が肌に重く落ちてきた。
風が髪を巻き上げて一瞬視界が遮られる。
緋乃は思わず瞳を閉じて、わずかの後にふたたび開いた。
それから、階段に足をかける。
***
ふいに、風が吹いた。
甘くなつかしい香りを感じた気がして界は伏せていた顔を上げた。
寄りかかっている大型の車の正面、ホテルの入り口に続く階段を、何故か強烈にざわつく気持ちで見上げる。
(──?)
苦しいほどの切なさと、妙にリアルな感覚に思わず胸のあたりをぐっと手で掴んでしまう。スーツの厚い布ごしにも心臓が激しく脈打っているのが感じられた。
これは、彼女の香りだ。
俺が大好きだった、彼女がいつもつけていた、大輪の花の香り。
どうしてだろう。こんなところにいるはずがないのに。
なのに彼女がいると、そう感じる。
界は瞬きも出来ずに階段の上を見つめた。
そして、まるで夢から愛しいその姿が滑り出てくるような━━闇の中に、光が集まって形を留めるような━━そんな一瞬を。
永遠に胸に刻むことになる。