2-3
高校生活一日目は平穏に過ぎていった。
人間たちはどんなことを学んでいるのだろう、と期待していたが、残念ながら特筆するようなことはなかった。授業内容は細かい部分の違いはあるにせよ、俺の世界の学園とあまり変わらない。英語という教科では、呪術的な文字列をひたすら書き写させられ——教師が俺に対してやたら発言を求めてきたのは何故だろう?——、数学という教科では、教師がひたすらサイン・コサイン・タンジェントという単調な呪文を唱え続けていた。何に使う魔法なのかはさっぱり分からなかった。いやそもそも、人間は魔法が使えないのに、こんなことを一生懸命勉強して一体何の役に立つのだろう?
とにかく、俺の世界の学園とあまり代わり映えもせず、拍子抜けだ。特に盛り上がりもなく一人静かに……。
——一人静かで……?
何かがおかしい、と気付き始めたのは、昼休みに入った頃だ。
午前中の授業終了を知らせるチャイムが鳴ると、生徒たちは各々小さなグループに分かれ始めた。教室も廊下もわいわいと賑やかな雰囲気で満たされる。
俺は一人席に座って教室の様子を観察していた。
そうか、昼食か。俺の世界の学園では昼休みになると各貴族に仕える使い魔たちがそれぞれ大きな荷物を背負って昼食を届けてくれる。俺のところにも毎日口うるさい老使い魔が、他の貴族より一回りも二回りも小さな弁当箱を運んできた。しかし今この世界には老使い魔はいない。誰が昼食を持って来てくれるのだろう?
それはもちろん一人しかいない。
席を立つと五人くらいの女子グループの中にいる聡美のところへ向かった。
聡美はおしゃべりに夢中で俺が近づいてきたことに気付いていない。
聡美の肩をトントンと叩いた。聡美が振り返る。俺の顔を見た瞬間、明らかに不機嫌そうな表情に変わった。そして一言。「何?」
「お、おい……、俺の飯は?」
聡美の鬱陶しいものを見るような目に、気後れしそうになった。
「あっ……、渡すの忘れてた」聡美は抑揚のない声で言うと、机の脇にある鞄から小さな箱を取り出した。「はい、アンタのお弁当」
やはり聡美が持っていた。さすがは俺の妾。
「ご苦労……って、おい!」
聡美が弁当箱を突然放り投げて来たので、危うく落としかけた。「……食べ物を粗末にするんじゃない」
しかし俺の訓告を無視して、聡美は背を向けると、女生徒たちの会話の輪の中に戻ってしまった。
「昨日のアレ見た?」「見た見た、アレヤバくない? だって、あそこで主人公がフられるなんて、マジ有り得ない!」「……そうそう……」
「……」
楽しそうにお喋りしている彼女たちの様子をじっと見ていると、聡美が再び振り返った。
「まだ何か用?」
「べ、別に……」
聡美の目が怖くてこれ以上何も言えず、俺はそそくさと自席へ戻った。
ううむ、昨日会ったときから、主人への敬いが足りない少し冷たい奴だと思ったが、ここに来て更に冷たくなってないか?
それはともかくとして、メシだメシ。何が入っているかな……。すっかりこの世界の料理に魅了された俺は期待を込めて、弁当箱の蓋に手を伸ばした。
「……あのステージどうしてもクリアできねえんだよな。課金額増やそうかな」「今月金欠だって言ってたろ、いいのか?」
「……で、今度の連休に彼氏が旅行行こうって」「良かったじゃん、じゃあいよいよだね」「もーやめてよー」
「……文化祭のステージ練習が辛くてさ」「毎年のことだから、一緒に頑張ろうぜ」
教室中に散らばったそれぞれのグループから笑い声が溢れ出てくる。
「……」
弁当箱の蓋を開ける寸前で手が止まってしまった。
周囲の会話に、無性にイライラが募ってくる。
——これじゃ本当に、元の世界の学園にいたときと変わらないじゃないか……。
奴らの会話を聞くことも、この世界を知るためには必要なことだろう、最初はそう思って、じっと席に座っていたが、すぐに我慢の限界が来た。
俺は弁当箱を抱えて教室を出た。
廊下を真っ直ぐ進んだ。俺の姿を見て振り返る奴らもいたが無視する。
食事は黙って静かにするべし、おばあさまの口癖だ。まったくその通り、宮中晩餐会でもあるまいし、喋りながらメシを食うなど下品極まりない。貴族の中の貴族たる俺のすることではない。俺の世界の学園の連中も、こっちの世界の連中も、真の貴族が何であるか分かっていないのだ。
落ち着ける場所はないかと探してみたが、どの教室も校舎の屋上も校庭の広場も誰かしら人がいて、静かに食事できそうな雰囲気ではなかった。
探すのを諦めかけたとき、遂に『約束の地』を発見した。
俺は体育館脇にある〈男子用便所〉と書かれた小屋に入った。