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ウェブ閲覧には全く向かないレイアウトと文字密度にも関わらず、ここまでお読みいただきありがとうございます。
ようやく第2章です。
ちなみに全体では全8章(序章、終章込み)約13万文字程度です。
よろしければ、お付き合いください。。。
目眩と吐き気がする。
すぐにでもその場に座り込みたい気分だった。
しかし、俺の周囲を歩く、お揃いの服を着た大勢の人間どもは平然とした様子だ。
選ばれた存在たる魔人族の俺だけがこんなところで倒れるわけにはいかない。
「気分が悪いなら少し休む? いっそのこと、このまま家に帰ってくれても良いのだけど?」
俺の隣に立つ、周りの人間の女たちと同じ、白いカッターシャツにネズミ色のスカートという格好の聡美が覗き込んできた。
「心配は無用だ」
そう言ってやって、歯を食いしばり、ふらつく足をなんとか前へ前へと踏み出していく。
それにしても、満員電車というものは実に恐ろしい。
魔法で空を飛ぶことすらできない人間たちの移動手段らしいが、狭い空間に大量の人間と一緒に押し込められ、何の軍事演習だ? と思いたくなるほどの壮絶な経験だった。
暑い、臭い、痛い。本当に最悪だ。
昨日のショッピングモールにしろ、先ほどの満員電車にしろ、この世界の人口密度は異常だ。もし十分な魔法が使えたら、電車に乗っていた人間を全員、塵に変えてやりたかった。
更に驚いたことに、同じ電車に乗っていた聡美や周囲の連中は何事もなかったようにけろっとしているのだ。人間の底知れぬ忍耐力に震え上がった。
そんな人間たちの生態や世界の仕組みも、高校へ行けば少しは分かるかもしれない。ということで俺は気力を振り絞り、清治がお膳立てした高校へ向かっているのだ。果たしてそこでは何が待ち受けているのか? 少し不安はあったがそれ以上に楽しみでもあった。未知なるものを知ること、初めての体験、世界征服という目的を脇に置いても、それは心躍るものだ。
気分もようやく落ち着いてきた頃、聡美が前方を指差した。
「あれが、あたしたちが通っている松沼高校」
前方には大きな白い建物が見えた。学校という割には思ったよりシンプルな作りだった。俺の世界の学園はもっと大きく、そこら中レリーフで飾り立てられ重々しい雰囲気を醸し出していたのだが。
まあともかく、人間の世界の高校とやらを堪能させてもらおうか。
校門へ向かって進みだそうとしたとき、ぐっと襟を掴まれた。
「なんだ妾よ。息が詰まるだろ」
「学校に行く前に、ちゃんと言っておきたいことが……って、その妾って何? どこでそんな言葉を覚えたの?」
聡美の表情が怖い。
「昨日『魔法の鏡』に聞いたら、そんな言葉を見つけたのだ。将来俺の側室となるのだからこれで良いだろう」
「良いわけないでしょ。あたしはアンタの嫁どころか、友人ですらないんだから」
「気にするな、愛は無くとも側室は勤まる……ぐへぇ!」
また肘打ちされた!
「ふざけていないで話を聞いて」
「俺はふざけてなんか……」
今にも俺を噛み付きそうな聡美の雰囲気に驚いて、言葉を失ってしまった。
「皆こっちを見てるじゃない……恥ずかしい。とにかく、あたしの話を聞いて。……いい、学校ではおとなしくしていること。昨日の今日、こっちに来たばかりなんだから。絶対に問題とか起こさないでよ。それから、困ったことがあったら自分でなんとかしようと思わずに、まずはあたしに聞くこと」
「それぐらい心得ている。俺を誰だと思っている、誇り高きファテルベルク家の次期当主……」
「それが一番心配なの」聡美は俺の言葉を遮った。「その鼻にかけたと言うか、傲慢な態度が。……お父さんは捉えどころがないっていうか、いつも何言われてもへらへら笑ってるタイプだから、あまり気にしてないと思うけど、他人に対してもそんな態度を取ってたら、あっという間に嫌われるよ」
「人間よりも高位な存在である魔人族の貴族として、それ相応の威厳が必要だろう。それに比べれば、人間に好かれるとか嫌われるとか、大したことではあるまい」
聡美は大きな溜息をつくと、俺の両肩を掴みぐっと顔を近づけてきた。近くで見ると、ますます、人間のおんぼろ家屋の一住民にしておくのは惜しく感じられる。やはり俺の妾にして、相応しい生活を与えてやらねば。
「アンタがどうなろうと知ったこっちゃないけど、あたしやお父さんを困らせないで。……いい? 昨日お父さんが言った通り、異世界とか、入界管理局とか、普通の人は知らないんだから、絶対にバラすようなことはしないで。それにアンタは魔人族でも貴族でもない、外国から来た平凡な留学生ってことになってるから、それを忘れないで」
「分かっているさ。俺を誰だと思っている。由緒正しき……」
「本当に大丈夫かなあ……」
俺の話を聞こうともせず、聡美は再び溜息をついた。
同じ格好をした人間たちがぞろぞろと校門へ向かっていく。俺と聡美も並んで校門をくぐり抜けた。学校の敷地内に入って最初に気付いたのは、校舎を覆うようにそこそのマナが存在していることだ。と言っても、清治の双照神社よりも限られた量で、ここで魔法を使ってもせいぜい薪を燃やすための火種を起こすのが関の山だろう。しかし、いざというときに多少なりとも魔法が使えると分かると、気分が楽になった。
その他気になるところがないか周囲を眺めていると、聡美がトントンと俺の肩を叩いて注意を引き、校舎の一角を指で示した。
「じゃ、アンタは最初はそっちの来賓用玄関から入って、職員室で先生に挨拶してきて。あたしは教室行くから」
聡美はそう言い残して、さっさと別方向へ歩いて行ってしまった。
「おっ、おい」
呼び止めようにも、聡美はもう他の人間たちに紛れ込んでしまい、姿が見えなくなってしまった。
ここまで来たのなら、最後まで案内してくれればいいものを、詰めの甘い奴だ。しかし、昨日は散々嫌そうな顔をしていたくせに、聡美は結局父親の言うことを聞いて俺をここまでは連れてきてくれたのだ。従者としての最低限の義務は果たしたということで、大目に見てやるか。
俺は教えられた入り口に向かって歩き出した。
職員室に到着すると、俺が所属することになるクラスの担任だという若い男が現れた。
髪を短く刈り込み、折り目がきれいなスーツを着て、笑うと白い歯が輝くという、超がつくほどの爽やかさだ。
「君がレノン=ファテルベルクか。先生の名前は水澤だ。よろしく!」
やたらはきはきした声を出して、水澤は手を差し出してきた。
「……よろしく頼む」
返事はしたものの、手は握らなかった。
水澤は白い歯を見せたまま、ゆっくりと手を引っ込めた。
「先週末に急に留学生の受け入れが決まって、先生びっくりしたぞ。ええっと、出身国は……」
水澤が手元にあった資料をペラペラとめくり始めた。清治の話によると、俺と人間の見た目上の違いは、外国人と言ってしまえば大抵の者は納得する程度のものらしい。それは昨日一日、人間たちを見ていてなんとなく感じていた。確かに、今までに出会ってきた人間と比べて、俺の髪の色は明るい黄色で、目の色は青く、肌の色も僅かに赤く、耳の形も少し先が尖っていて、じっくりと見れば違いが分かるのだが、目の前の男も例に漏れず、俺が外国人だと信じて疑ってないようだ。
「ところで、レノンはいつ日本へ来たんだ?」
水澤は妙に馴れ馴れしい口調で話しかけてくる。しかもこの俺を呼び捨てにするとは、身の程知らずな奴だ。場所が場所なら今すぐにでもこの男を粛正したいところだが、ここは我慢する。人間とはいえ教師だ、一応俺は教えてもらう側であり、その程度の節度は心得ているつもりだ。
「……昨日、この世界に来た」
「へえ、昨日来たばかりでもう学校に通うのか。それに、もうそれだけ日本語が流暢に喋れるなんて、凄いなレノンは」
いや貴様、最初から俺に日本語で話しかけていたじゃねえか!
「少しでも早く、この世界のことを知りたかったからな」
この男の能力に早くも疑問を感じつつ、当たり障りのない返事をした。
「そうか、学校では勉強だけじゃなく課外活動で色んな経験して、友達や恋人をたくさん作ってくれよ。先生、出来る限りの協力はするからな。……あっ、友人はたくさん作っても、恋人作るのは同時に一人にしておけよ」
「はあ……」
別にそういうことを期待してここへ来たわけではないのだが、だんだんこの男を相手にするのが疲れてきたので、適当に相づちを打っておいた。
「……おい、ここは笑うところだろ」
と、突然水澤が胸の前で手を払うような仕草をしながら言った。
意味が分からない。今までの会話に笑う所なんてあったか?
俺が首を傾げていると、水澤は一瞬つまらなそうな表情を浮かべたが、すぐに輝く白い前歯を見せた。
「そうだ、これが学校生活の手引きだからちゃんと読んでおけ」水澤は日本語がびっしりと書かれた資料を俺の前に差し出してきた。「あと制服は……、しばらくはしかたないとしても、早いうちに準備してくれよ」
「制服……とは何のことだ?」
「制服は制服さ。今日、ここへ来るときに生徒たちを見ただろ。今はまだ夏服だから上はカッターだけだけど、来月から冬服になるから」
聡美たちの格好のことを言っているらしい。
しかし学校で制服だと? ここは軍隊の養成所なのか?
「冗談じゃない。人間と同じ格好などできるか。それに俺にはこの、ご先祖様より受け継いだ立派な軍服がある」
と言って、自身の服を指差した。昨日から着続けている服だ。なにせこっちの世界にはこの服しか持ってきていないからな。
「でもその格好はさすがに……」水澤は俺の顔から足下へ向かってゆっくりと視線を移動していった。「そんな分厚い服で、暑くないか?」
「だ、大丈夫だ、……問題ない」
「本当に? ……びっしり額に汗をかいていないか?」
「こ……これは違う。少し緊張しているだけだ」
本当はむちゃくちゃ暑かった。黒を基調にしている軍服だから熱がこもってしようがない。今いる部屋はどういうわけかまだ涼しいが、ひとたび外へ出ると体中から滝のように汗が噴き出す。しかし暑いという理由だけで服装を乱すなんて、気品ある魔人族の貴族としてあるまじき行為だ。
「ま、まあ。せ、制服のことは……考えておこう」
と言いながら、俺は手の甲で額の汗を拭った。
「じゃ、そろそろ教室に行こうか。クラスの皆に自己紹介するから、一言挨拶を頼むぞ」
「任せろ」
俺は懐から紙の束を取り出した。昨日、聡美からクラスの前で挨拶があるからちゃんと考えておけ、と言われていたのだ。だから準備は万端。
「ちゃんと文言は考えておいた。人間どもに俺の存在を正式に誇示する最初の機会だからな。失敗は許されない」
「えっと……レノン。そんな紙の束を持って、何分ぐらい喋る予定なんだ?」
「予行練習したところ、十分ぐらいだったな」
「そんな張り切らなくても、挨拶なんて一言でいいぞ。全校朝会の校長先生の挨拶じゃないんだから」
水澤が白い歯を見せて笑うと、周囲から失笑と咳払いが聞こえた。
「そ、そうなのか……」
折角夜遅くまでかけて、慣れない日本語と格闘しながら書いたというのに、残念だ。
「その大作スピーチは別の機会に聞かせてくれよ。……じゃ、行こうか。ホームルームに遅れる」
水澤は席から立ち上がった。
「今日からこのクラスに新しい仲間が加わることになった。海外から長期留学生として来た、レノン=ファテルベルクだ。……レノン、入りなさい」
水澤に促されて、俺は教室に足を踏み入れた。
教室中の顔という顔が一斉に俺に向けられる。予想していたよりも多くの人間が教室内にいた。四十人くらいだろうか。男女がほぼ半分。男子は男子、女子は女子でそれぞれ、高校へ来る途中で見かけたとおり、同じ格好をしていた。俺の世界の学園は、貴族や富豪の子息だけが通うもので、人数はもっと少ない。しかも全員男だ。女子と同じ空間で過ごせるなんて、人間の男どもはなんと羨ましい……じゃなかった、一般民衆までが教育を受ける機会があるなんて、こっちの世界の文化水準はかなり高い、と改めて感じた。
教室の奥に目を向けると、聡美の姿を見つけた。教室中の人間が興味深げに俺を見ている中、聡美だけが苦虫をつぶしたような表情をしていた。……何か気に入らないことがあるのだろうか? 従者の悩みを解決するのも主人たる務めだ、あとで相談にのってやってもいいだろう。
「じゃあレノン。挨拶を」と水澤。
苦労して作った演説原稿が使えなくなってしまった以上、その要点を一言で伝えなければならない。
心を落ち着かせようと一回深呼吸してから、口を開いた。
「俺の名前はレノン=ファテルベルク。古より栄光の歴史を刻んで来たファテルベルク家の次期当主である。平伏せ人間どもよ! この世界は間もなく俺のものとなる。俺を敬い、崇め奉るが良い!」
——決まった!
拳を振り上げ、そう直感した。
教室は厳かな祭事が行われる直前のように静まり返っていた。
極限までに濃縮された俺の大いなる宣言に皆が畏れを感じて、息をすることすら忘れているようだ。
俺は改めて教室を見渡した。目の前にいる生徒たちは皆、口を半開きにしてぴくりとも動かなかった。聡美だけ何故か両手で頭を抱えていた。
……あれ?
さすがに何かが違うと感じた。感動するのは当然としても反応が鈍過ぎやしないか? 静寂と余韻、それから万雷の拍手と感動のあまり咽び泣く声が続くはずなのに、まだ誰も喋らないし、身動き一つしない。なんだろう、何もない大草原のど真ん中で叫んだときのような手応えの無さは。
パタパタと廊下から小走りする足音が通り過ぎていった。
それが合図だったかのように、俺の隣で水澤が白い歯を見せつけるような笑顔でパチパチと手を叩き始めた。それに続いて、ようやく数名がパラパラと拍手した。
「挨拶ありがとう。みんな、仲良くしてやってくれよ」
水澤の声がまばらの拍手の中で虚しく響いた。