第2話 放課後の小さな寄り道
白銀依織は、放課後という時間が少し不思議だった。
授業が終われば、学校での用事も終わる。
それなのに、生徒たちはすぐには帰ろうとしない。
教室に残って話をしたり、部活動へ向かったり、校門の前で誰かを待ったり。
決められた時間割から解放された途端、みんな思い思いの場所へ歩き出す。
依織には、それが少しだけ羨ましかった。
「白銀さん、まだ帰らないの?」
声をかけられて顔を上げると、クラスメイトの女子生徒が立っていた。
「はい。もう少し、ここにいようかと思いまして」
「そっか。じゃあ、また明日ね!」
「はい。また明日」
女子生徒は友達と連れ立って教室を出ていった。
依織はその背中を見送り、机の上に置いた本へ視線を戻した。
開いているのは、図書室で借りた小説。
けれど、もうしばらく同じページを眺めている。
窓の外では、二人の生徒が何やら楽しそうに話していた。
片方が大きく手を振ると、もう片方が笑いながら駆け寄っていく。
依織は首を傾げた。
待ち合わせをしていたのだろうか。
それなら、最初から一緒に帰ればよかったのではないだろうか。
そう考えてから、少しだけおかしくなった。
きっと、そういうことではないのだ。
人は、合理的な理由だけで行動するわけではない。
最近、依織はそれを少しずつ知り始めていた。
◇
図書室へ本を返したあと、依織はいつもと違う道を歩いてみることにした。
特に目的地があるわけではない。
ただ、校門を出て右へ曲がるところを、今日は左へ曲がってみた。
それだけのことなのに、見慣れた街が少し違って見える。
通り沿いには小さな花屋があり、その隣には古びた文房具店。
さらに歩くと、軒先に色とりどりの飾りを吊るした店があった。
依織は足を止めた。
「……これは?」
店先の籠には、小さなガラス細工が並んでいる。
猫や鳥、花の形をしたもの。
透明なものもあれば、淡い青や桃色に染まったものもある。
その中に、一つだけ気になるものがあった。
小さな、星の形をしたガラス細工。
光を受けるたび、表面がきらきらと輝いている。
「きれい……」
思わず声が漏れた。
「気に入った?」
顔を上げると、店の奥から年配の女性が出てきた。
店主らしい。
「はい。とても」
「それね、窓辺に飾るともっときれいなのよ」
「窓辺、ですか?」
「そう。お日さまが当たると、光が壁に映るの」
依織はもう一度、ガラスの星を見つめた。
小さな飾り。
生活に必要なものではない。
何かの役に立つわけでもない。
それなのに、目が離せなかった。
「……これを、買ってもよろしいでしょうか」
「もちろん」
店主がにっこり笑った。
依織は鞄から財布を取り出した。
◇
店を出ると、依織は小さな紙袋を両手で持って歩いた。
中には、薄い紙に包まれたガラスの星が入っている。
ほんの小さな買い物だった。
それでも、なぜか少し嬉しい。
その理由を考えながら歩いていると、前方から泣き声が聞こえてきた。
「……うぅ」
道端のベンチに、小さな男の子が座っていた。
膝の上には、壊れたおもちゃの車。
片方の車輪が外れ、地面に転がっている。
依織は立ち止まった。
「あの……どうかしましたか?」
男の子は顔を上げた。
「くるま……こわれちゃった」
「車、ですか」
「うん……」
依織はしゃがみ込み、おもちゃを見せてもらった。
車輪を留める小さな部品が、外れてしまったらしい。
どうやら、はめ直せば動きそうだった。
「少し、見てもよろしいですか?」
男の子はこくんと頷いた。
依織は車輪を拾い上げ、慎重に向きを確かめた。
細い軸を穴に合わせて、そっと押し込む。
かちり。
小さな音がした。
「……これで、どうでしょう」
男の子は車を受け取り、ベンチの上を走らせた。
ころころと車輪が回る。
「あっ!」
男の子の顔がぱっと明るくなった。
「なおった!」
「はい。よかったです」
「おねえちゃん、すごい!」
依織は瞬きをした。
「……すごい、ですか?」
「うん! ありがとう!」
男の子は何度も車を走らせてみせた。
その笑顔を見ていると、依織の胸の奥に、ふわりと柔らかなものが広がった。
特別なことは、何もしていない。
ただ、外れた車輪を元に戻しただけ。
それなのに、こんなにも喜んでもらえるなんて。
「……どういたしまして」
依織は少し遅れて、微笑んだ。
しばらくして男の子の母親が迎えに来ると、依織は軽く会釈して、その場をあとにした。
◇
家に帰ると、依織は買ってきたガラスの星を窓辺に置いた。
夕陽が差し込む。
透明な星を通り抜けた光が、壁の上に小さく揺れた。
「……本当ですね」
店主の言ったとおりだった。
依織は椅子に腰を下ろし、しばらくその光を眺めた。
今日、買ったもの。
今日、歩いた道。
今日、出会った人。
どれも、最初から予定していたことではなかった。
ただ、いつもと違う道を選んだだけ。
それなのに、一日はこんなにも違うものになる。
依織は机の上のノートを開いた。
白いページの隅に、今日の日付を書く。
その下へ、ゆっくりと文字を並べた。
『寄り道をした。きれいな星を見つけた。壊れたおもちゃを直した。ありがとうと言われた』
書き終えてから、少し考える。
そして、もう一行付け足した。
『今日は、楽しかった』
依織はその言葉を見つめた。
楽しい。
それは、何かを成し遂げたときだけに生まれる気持ちではないらしい。
ただ歩くこと。
きれいなものを見つけること。
誰かが笑うこと。
そんな小さな出来事にも、心は動く。
窓辺の星が、夕陽を受けてきらりと光った。
「……明日は、どこへ行ってみましょうか」
依織は小さく呟いた。
答える人はいない。
それでも、その声はどこか弾んでいた。
まだ知らないことが、きっとたくさんある。
まだ出会っていない人も、きっと。
いつか、誰かと一緒に寄り道をする日が来たなら。
そのときは、この小さな星の話をしてみたい。
依織はそう思いながら、静かにノートを閉じた。
窓の外では、夕暮れの街がゆっくりと夜へ変わり始めていた。
(第2話・了)




