第1話 ちょっとおせっかいな放課後
六時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ってから、もう十分ほど経っていた。
窓際の机には西日が差し込み、黒板の端に残った白いチョークの粉まで、うっすらと橙色に染めている。
校庭からは運動部の掛け声。廊下では、どこかの教室から飛び出してきた生徒たちが、笑いながら階段を駆け下りていった。
「灯里ー! まだ終わんないの?」
教室の入り口から、ひょいと顔が覗く。
桜庭結菜だった。
肩に掛けた鞄を揺らしながら、こちらに手を振っている。
「あとちょっと!」
黒瀬灯里は返事をして、机の上に広げていた教科書を閉じた。
ノートを重ねて、筆箱を鞄へ押し込む。
よし、これで全部。
そう思って立ち上がった瞬間、肘が机の端に当たった。
「あっ」
消しゴムがころんと転がり、床へ落ちる。
慌てて拾おうと屈んだ拍子に、今度は椅子に掛けていた鞄が滑り落ちた。
ばさっ。
中途半端に閉じていたファスナーの隙間から、さっきしまったばかりのノートが飛び出す。
「…………」
「…………」
教室の入り口で、結菜が口元を押さえていた。
「……笑ってる?」
「まだ笑ってない」
「まだって言った!」
結菜はとうとう吹き出した。
「だって灯里、帰る準備してるだけなのに、なんでそんな大事件になるの!」
「私が聞きたいよぉ……」
床にしゃがみ込んだ灯里の隣へ、結菜も腰を下ろす。
「ほら、こっち拾うから」
「ありがと……」
「次からは、まず鞄のファスナー閉めよ?」
「うん……」
差し出されたノートを受け取ると、結菜がまた笑った。
灯里もつられて笑ってしまう。
こんなふうに、結菜と笑い合っている時間が好きだった。
特別なことなんて、何もなくていい。
ただ、今日あったことを話しながら、一緒に帰れれば。
それだけで、放課後は少し楽しくなる。
◇
「そういえばさ、駅前に新しいクレープ屋さんできたの知ってる?」
昇降口へ向かう廊下で、結菜が言った。
「クレープ屋さん?」
「そう! 今日まで、いちごの限定メニューがあるんだって」
「いちご!」
灯里が思わず振り向くと、結菜は得意げにスマートフォンを見せてきた。
画面いっぱいに映っていたのは、真っ白なクリームと赤いいちごがぎっしり詰まったクレープだった。
「わぁ……!」
「ね? おいしそうでしょ」
「うん! すっごく!」
「じゃ、決まり! 帰りに寄ろ!」
「行く!」
灯里は大きく頷いた。
甘酸っぱいいちごと、ふわふわのクリーム。
想像しただけで、頬が緩んでしまう。
「灯里、顔」
「えっ?」
「もう食べてるみたいな顔してる」
「し、してないよ!」
「してるってば」
笑いながら歩いていると、廊下の曲がり角で、かすかな物音がした。
ぱさっ、と紙の落ちる音。
続いて、困り果てたような声。
「……どうしよう」
灯里は足を止めた。
掲示板の前に、一人の女子生徒が立っている。
制服の胸元には、一年生の学年章。
腕いっぱいに抱えたプリントの何枚かが、足元に散らばっていた。
通りかかった生徒が、それを避けるように歩いていく。
「あの……大丈夫?」
灯里が声をかけると、少女は驚いたように顔を上げた。
「あっ、はい……!」
そう答えたものの、視線はすぐ床へ落ちる。
灯里はしゃがんで、一枚拾った。
「これ、落としちゃったんだよね?」
「すみません……」
「謝らなくていいよ。ほら、こっちにもある」
結菜も隣にしゃがみ、廊下の端まで滑っていった紙を集め始めた。
「結構あるね。これ、どこに持っていくの?」
「職員室です。先生に頼まれて……」
少女はプリントを抱え直した。
「でも、職員室の場所が分からなくなっちゃって。誰かに聞こうと思ったんですけど……」
その先は、言葉にならなかった。
廊下にはまだ生徒が行き交っている。
けれど、知らない先輩に声をかけるのは、きっと勇気がいることなのだろう。
灯里は少女の手元を見た。
プリントの端が、少しくしゃくしゃになっている。
ずっと一人で抱えていたのかもしれない。
「そっか」
灯里は拾った紙を揃えて、少女に差し出した。
「じゃあ、一緒に行こっか」
「……え?」
「職員室。ここからだと、ちょっと分かりにくいもんね」
少女は目を丸くした。
「でも、先輩たち、帰るところじゃ……」
「大丈夫だよ!」
灯里が笑うと、隣から小さな声がした。
「……灯里」
「ん?」
「クレープ」
「あっ」
忘れていた。
いや、忘れていたわけではない。
ほんの少しだけ、頭の隅へ追いやっていただけで。
「……結菜」
「なに?」
「ちょっとだけ、遅くなっちゃうけど……」
言いかけた灯里を見て、結菜はふっと息を吐いた。
「もう。そんな顔しなくてもいいって」
「え?」
「私も行くよ。二人で持ったほうが早いし」
結菜は少女の腕から、プリントの半分をひょいと受け取った。
「ほら、灯里。案内係よろしく!」
「……うん!」
灯里は嬉しくなって、思わず大きく頷いた。
◇
職員室に着くと、先生はプリントを受け取って、少し驚いた顔をした。
「おや、三人で来たのか」
「途中で会ったので、一緒に来ました!」
灯里が答えると、一年生の少女が慌てて頭を下げる。
「あの、すみません。遅くなってしまって……」
「いやいや、ありがとう。助かったよ」
先生が笑うと、少女の肩からようやく力が抜けた。
職員室を出たあとも、少女は何度も振り返った。
「本当に、ありがとうございました!」
「気をつけて帰ってね!」
灯里が手を振ると、少女も小さく手を振り返す。
その顔には、さっきまでの不安そうな表情はなかった。
「……よかったぁ」
灯里は胸の前で両手を合わせた。
「うん。無事に終わったね」
結菜が隣で頷く。
窓の外は、いつの間にか夕暮れの色を濃くしていた。
灯里はその空を見上げて――。
「あっ」
「ん?」
「クレープ!」
結菜がぴたりと足を止めた。
二人は顔を見合わせる。
結菜がスマートフォンを取り出して、画面を確認した。
「……あー」
「ど、どう?」
「限定メニュー、売り切れだって」
「えええっ!?」
思わず大きな声が出た。
廊下の向こうを歩いていた先生が、ちらりとこちらを見る。
灯里は慌てて口を押さえた。
「……ほんと?」
「うん。お店の投稿、今更新されたみたい」
「そ、そんなぁ……」
灯里は肩を落とした。
頭の中で、いちごのクレープが遠ざかっていく。
真っ白なクリームも。
赤いいちごも。
全部、夕陽の向こうへ消えていくような気がした。
「……灯里」
「……なに?」
「そんなに食べたかった?」
「……うん」
正直に答えると、結菜はとうとう笑い出した。
「もう、ほんっと分かりやすい!」
「だってぇ……」
「はいはい。そんなに落ち込まないの」
結菜は灯里の肩を軽く叩いた。
「でもさ、あの子、最後すっごい嬉しそうだったよね」
「……うん」
「だったら、まあ、いっか」
その言葉に、灯里は顔を上げた。
「……結菜、怒ってない?」
「なんで?」
「だって、私が声かけたから……」
結菜は少しだけ目を細めた。
「灯里があの子に声かけなかったら、私も気づかないで通り過ぎてたかもしれないし」
「……うん」
「それに、灯里が困ってる子を放っておけないの、今に始まったことじゃないでしょ?」
「そ、そうかな」
「そうだよ」
結菜は即答した。
そして、いたずらっぽく笑う。
「まあ、いちごクレープは食べたかったけど!」
「ご、ごめん!」
「あははっ! だから、怒ってないって!」
笑い声が廊下に弾けた。
灯里もつられて笑う。
◇
校門を出る頃には、空の色が橙から薄紫へ変わり始めていた。
街路樹が風に揺れ、二人の影が歩道に長く伸びている。
「ねえ、結菜」
「んー?」
「今日、ありがとね」
「またそれ?」
「だって、私だけだったら、もっと時間かかってたと思うし」
「そりゃそうでしょ。あんなにプリントあったんだもん」
結菜はあっさりと言って、灯里の顔を覗き込んだ。
「それにさ」
「うん?」
「灯里が誰かを助けたいって思ったなら、私も手伝いたいよ」
灯里は足を止めかけた。
結菜は何でもないことのように、前を向いて歩いている。
その横顔を見ていると、胸の奥が少し温かくなった。
「……そっか」
「そうそう」
結菜が振り返る。
「だから、灯里が困ったときも同じ。私に言ってくれればいいんだからね?」
「……うん」
「ほんとに?」
「ほんと!」
「絶対?」
「ぜ、絶対!」
結菜は満足そうに笑った。
「よろしい!」
二人はまた歩き出した。
夕陽に伸びた影が、歩道の上で並んだり、重なったりする。
灯里は自分の影を見つめながら、そっと思った。
誰かを助けるのは、好きだ。
困っている人が笑ってくれたら、それだけで嬉しい。
でも。
自分が誰かに助けてもらうことも、きっと、悪いことじゃない。
隣に結菜がいるだけで、そんなふうに思えるのだから。
「……あっ、そうだ!」
灯里が顔を上げた。
「今度こそ、クレープ食べに行こうね!」
「もちろん! 次は絶対、寄り道なし!」
「うん!」
「……って言っても、灯里のことだから、また誰か助けちゃうんだろうなぁ」
「そ、そんなことないよ!」
「ほんとに?」
「……たぶん」
「たぶんなんだ!」
二人の笑い声が、夕暮れの街に溶けていく。
明日も、きっと同じような一日が来る。
教室で笑って、くだらない話をして、帰り道に寄り道をして。
そんな当たり前の日々が、これからも続くのだと信じていた。
――自分たちの未来に、どんな運命が待っているのかも知らずに。
(第1話・了)




